健常者と障害者か【発達障害という「差別用語」と人と人】
オトノネの定義です。「発達の障害」とは子どもの発達欲求を妨げる、大人によってつくりだされた環境のことです。「発達障害児」とは「大人の作り出した環境で命が弱められている、生きる要求、発達欲求が認められていない児童」のことで、被害者です。診断名としての「発達障害」と区別をしてください。「発達」とは人が人と関わろうとする中で「命」が強くなっていくことです。ちなみに、「問題行動」とは、子どもの発達を理解しようとしない、さらには妨げる大人の行動のことです。もしお子さんの行動が「理解不能の暗号」になっている場合、ストレスを感じている場合、「白石正久」さんの本に載っている人、組織へ相談することを強くお勧めします。おとのねさんに相談してもいいのですが。。
祈りの言葉?呪いの言葉?
僕はただたんに「法律用語」として「発達障害」とか「障害者」という言葉を使っている。
そして、「発達障害」という普及したキーワードをたどっていきながら、「ひと」の自然な「発達」を学んでいる。不自然に「発達」する世界で、自然な「発達」を学ぶために、「ひと」を知るために「発達障害」という言葉を使っている。
表向きには、「発達障害」という言葉なんて必要ないし、目の前の「〇〇さん」でよい。
「不登校」という言葉も「自由登校」と言い換える人がいる。
学校に行くことが前提、という響きが「不登校」にはあるからだ。
ちなみに僕は「不登校の生徒」を「小さなガンジー」と呼びたい。
学校で涅槃寂静を目指して「修行」をしている子を「小さなブッダ」と呼びたい。
そうやって言葉を鍛えて行くのが、「詩人」であった。
いろんな言葉がSNSで飛び交っている。それを集めて見たらおもしろいかもしれない。
話を戻すと、「発達障害」という言葉は、僕にとっては、「ひと」を知るための窓だ。
子どもの行動の原因を結論づけてしまう前に、 「どうしてなのかな」という思いで、少し見守ってみる姿勢も必要だと思います。「どうしてなのかな」と、子どもの内に入って考えてみると、たとえば、ブロック遊びばかりに没頭し、こだわっているようにみえても、友だちのしていることを、チラッと見ているような姿を発見することがあります。本当は友だちのしていることに興味があり、同じことをしてみ たいのではないでしょうか。でも、きっと、友だちの輪のなかに入ることが不安なのでし ょう。この「興味があるけれど、不安なのだ」という心の悩みを、安心できる物で遊ぶことで、落ち着かせようとしているのでしょうか。
どんな行動にも、人間としての心の理由があります。そんな心の世界を見つめてみると、障害のない子どもたちにも、同じような心の状態の時期があり、それは少し「こだわり」が強くなるときでもあることに、思いあたるでしょう。障害をもっている子どもたちの特別な行動だけをみていると、「木を見て森を見ず」のたとえのように、障害のあらわればかりをみて、その子の人としての願いや悩みが見えなくなってしまうことがあるのです。 障害をもっている子どもたちも、障害のない子どもたちと同じに、人としての発達の道を歩きます。その道をゆっくり歩いているのです。そして、同じ発達の段階で、同じように発達の願いと矛盾をもっている存在なのです。そして、その矛盾をのりこえて、自らに与えられた可能性を、精一杯実現しようと願っている存在なのです。この自らに与えられた可能性を開花させることは、いいかえれば、自己実現であり、それこそ発達と呼ぶべき ものではないでしょう。 (白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.50)
誰もが持っている「アンバランスさ」を表す言葉
「障害」といわれるかどうかに関わらず、「ひと」は「特性」をもっている。
【ビッグファイブ】『パーソナリティを科学する―特性5因子であなたがわかる』のメモ
その中で、「ひと」の全体性のなかで「マイナス」として働いてしまう要素があるとしよう。
「健常者」に対する「障害」ではなく、自分の「命」を強めるための「障害」になる要素がある。
「命」って何?という方、
「ひと」と関わるために「自分自身にとって」「障害」となるような「自分の特性」がある、というのは事実ではないのか。
(だからこそ「ひと」を選び、「命」を強くしていくのが、「子ども時代」だと僕は思う。)
障害をもっている子どもたちが、人としての発達の道すじを歩いていることが事実ならば、同時に障害という重荷を背負っていることも、また否定しがたい事実です。先に述べた強い「こだわり」について考えるならば、そこにはいくつかの障害のあらわれを想定することができるでしょう。
たとえば、障害のない子どもたちに比べて、外界を受け入れる心の窓が、少なかったり狭かったりするのかもしれません。あるいは、心の窓は開いていても、世界を広げていくことに、不安などの心理的抵抗があらわれ過ぎるのかもしれません。その不安は、その場 面を理解したり次の場面を考えることがむずかしく、何をしたらよいかわからないために、いっそう強くなっているのかもしれません。いずれも、障害のない子どもたちにはないような、発達の特徴であったり、心の特徴であったりするでしょう。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.53)
「自分の願いを強めていく発達の過程において自分自身にとって障害をもっていること」を「発達障害」という言葉で表現しているとおもったら、ごく自然な表現だ、と考えることもできる。
だから僕は、「ひとはみな発達障害をもってる」というのだが。
認定される「しょうがい」
「障害」のアンバランスの「強さ」が、「しょうがい」として大きく立ちはだかっている「ひと」がいる、といってもよいのだろうか。「認定」される「しょうがい」の「強さ」をもった「ひと」がいる。ということが現実にはある。
同じ道すじを歩むといえど、障害をもっているという事実から、本人 もそしてわたしたちも目をそらすことはできません。 障害をもっているゆえに、健常児にはない「弱さ」や重荷をもって歩 んでいるのです。「こだわり」の強い子どもは、ことのほか新しい世界 や人間関係への不安が強いのかもしれません。その不安の強さは、まず 障害によってもたらされているのでしょう。肢体障害の子どもが立ち向 かおうとしている困難は、障害のない子どもたちのそれのように、時間 の経過のなかで解決していくようなものではありません。まさに、子ど も自身では取り除くことができない障害という重たい荷物なのです。こ の「弱さ」や重荷があるということは、本人にとってとても不自由なこ とでしょう。だから、教育の力や医療・訓練の力によって、少しでも軽 減していくことが、わたしたちのつとめなのです。 (白石正久『発達の扉(下)』p.19)
とくに、「○○したい、でも今の自分ではできない」という発達の矛 盾の強くなるときに、障害児は、どんな心の状態でいるのでしょうか。 自分の「できないこと・苦手なこと」が、障害によってつくられている 事実を、子どもなりに感じているのではないでしょうか。そして、その 矛盾は、障害のない子どもたちのそれのように、時間の経過のなかで、 自然に乗り越えていけるものではなく、長い時間、ときには一生、立ち 向かわざるをえないものなのでしょう。わたしは、発達相談という仕事 のなかで、障害児のことを「二重の困難」に立ち向かう存在と感じるよ うになりました。一つは、障害があろうとなかろうと子どもが乗り越え ていかなければならない発達の矛盾という困難であり、そしてそこに障害という簡単には解決することのできないもう一つの困難が乗りかかっ てくるのです。そんな目でこの子らの日々をみると、わたしたち以上の 困難に立ち向かう意志を感じ、尊敬ということばに値する一歩一歩の小 さな歩みがみえてくるのです。(白石正久『発達の扉(下)』p.20)
だが、しかし。
しかし、である。
「障害者」は差別用語か
「発達障害」という言葉は、「障害者」という言葉の歴史を受け継いだが故に、「呪い」としての響をもっている。
たくさんの人が発達障がい・凹凸障害・非定型発達・スペクトラム・発達凹凸・発達でこぼこ、いろんな表現でこの「呪い」の響きを取り除こうとしてきた。
「障害者」「健常者」という言葉は、潜在的に「差別」を生んでいる。
と僕はおもう。
「発達障害」という言葉を聞くだけで、「発達障害」の呪いに苦しめられてきた人は(つまり「差別」を受けてきた人は)その言葉を使う人に対して嫌悪感をもつかもしれない。
お母さんが「この子は発達障害だから」といって子どもを「差別」してしまうケースは最悪だ。
ちなみに、
「健常者」とか「障害者」といった言葉を僕は差別だとはおもっていない(自分を、相手をどう認識するかは人それぞれだとおもっているから。例えば、「宿題をさせる」という言葉を使っているひとを僕は「暴力者」とみなすだろう。多くの人はそれを「ふつう」だというのだろうけれど。学校は暴力に耐えることを学ぶ場所だ。「命」を強める場所ではない)
もちろん、
僕にとって「たいしたことではない」ことが他の人にとっては「大問題」かもしれない。
そうした亀裂を生む可能性が「言葉」にはある。
コミュニケーションは、「言葉」は、いつだってリスクを伴っている。
その「葛藤」や「矛盾」を抱えながら、受け入れて一緒にやっていきたい。
とおもう。
「法律」が生み出し続ける差別
「障害者」と「健常者」を分けて「障害者」を救済しようという「法律」ができたこと自体が、「差別」を助長している、と考えることもできる。
だとしたら、「こども」と「おとな」という言葉で「こども」を救済の対象とするのも、「差別」の始まりだろうか。
「人権」というものがある。
「特権階級」と「市民」の「差別」をなくそう、というアイデアだ。(この言葉は「市民」から出された)
「子どもの権利条約」がある。
「こども」が「おとな」によって奪われている「人権」を守ろうという条約だ。
この条約ができるということは、「こども」は「おとな」によって差別されているということに間違いはないだろうか。
「貧困層」と「富裕層」という言葉がある。
「生活困窮者自立支援法」は「貧困層」を救済するための法律だ。
どれも、
「健常者」が「障害者」を救済する、という目線を感じることができる。
「健常者」が「障害者」を憐れむ、という目線を感じることができる。
実際に、そう感じている人がいる。(実際、為政者にとってはそれが事実であると僕はおもう)
そこには「健常者は一生健常者」「障害者は一生障害者」であり深い溝がある、という現実と共鳴するように、僕にはおもう。
「法律」によって、「ひと」と「ひと」の溝が深まってはいないか。
「法律」とは何か。
日本において、と限定してみよう。
「法律」とは、お金の使い方を決める方針だ。
と定義してみるとどうなるだろう。
児童福祉法、DV防止法、〇〇支援法、生活保護法、子どもの貧困対策の推進に関する法律、、、、
「健常者」と「障害者」が生まれるシステムは変わらない。
DV防止法があっても、DVは減らない。
児童虐待防止法があっても、園内暴力・家庭内暴力は減らない。
生活保護法があっても、貧困は止まらない。
(もちろん、救済される人も、なかにはいる)
「法律」は、ほとんど「定期テスト対策」だ。
「ひと」と「ひと」になることを目指してはいない。
「障害者」が「健常者」っぽくなるような偽物だ。
「健常者」と「障害者」が生まれるシステムは変わらない。
ただそれっぽい行為をしているだけだ(福祉の現場にいればよくわかる)
「先進諸国」に対して顔向けができないからと、うまい具合に「ラッピング」をしているだけだ。
防腐剤、保存料、着色料を入れまくって見栄えを良くした食べ物のようだ(おいしい?)。
それで「命」が喜ぶだろうか。
「法律」とは、そういうものだと考えることができる。
だから「法律」で定められた「発達障害」という言葉は、呪われている。
「児童」という言葉も、「子ども」という言葉も、呪われている。
と考えることができる。
そうすると「障害者」も「子ども」も暴力を助長する言葉になる。
「子どもだから!」
「障害者だから!」
「親だから!」
「先生だから!」
「生徒だから!」
子どもの暴力(「怒り・嫌悪」の表現)を肯定する大人の暴力におとのねさんが心いためちゃった件
安冨さんの「立場主義」にも通じる。
『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』安冨 歩みんな大好き欺瞞の言語から心の健康を守るには?
人の「心」はどこに行ったのか
「ひと」と「ひと」になるとは、ヒューマニストが目指してきたこと。
「ひと」を愛する人たちのこと。
「法律」は心を変えない。
「法律」は行動を要求する。
心を動かすものは、なんだろう?
だから僕は、もっと、もっと僕の「命」を強めて、芸術というなぞめいた命の働きに身を投じてみようと、改めて感じた。
児童発達支援が、「健常者」になることを目指していないか。
お母さん、お父さんは、もしくは子ども自身が「健常者」に対する憧れ、妬みをもっていないか。
子どもが持って生まれた「命」を強くしているか。
「法律」と同じように、「ラッピング」で子どもの「心」を縛ってはいないか。
どうしようもない自分の「命」に対する積極的自己責任を、おとな自身がどう果たしているのか。
自分自身のリッチネス、世界のリッチネスから「心」は栄養をもらっているのか。
「心」ある人は学び、実践をする。
「命」の働きに「法律」なんてものはない。
「法律」がない時代、「心」ある人の実践をした「ひと」がいる。
「発達の保障」あるいは、「発達保障」ということばを、あまり意識せず使うことも多いでしょう。しかし、このことばには、障害をもっている子どもたちの自己実現こそ発達であり、その自己実現を可能にする社会をつくることこそ、私たちのなすべきことなのだという、願いがこめられているのです。滋賀県で近江学園やびわこ学園という障害をもった子どもたちの施設づくりと施設教育 に生き、「発達保障」ということばの礎を築かれた糸賀一雄氏は、次のようにいわれています。
「びわこ学園で、死と直面した限界状況のなかで、長いあいだかかってもこの発達の段階を、力いっぱい充実させながら克服してゆく姿があるということは、私たちに限りない力と希望をあたえてくれるものであった。この姿を実現させるためにこそ、国家、社会の力 が動員されてよいのである。じつはこの姿は、精神薄弱児や重症心身障害児だけに見られる特別なものではなくて、 すべての子どもに共通のものである。どんな子どもでも、その発達の段階が充実させられ なければならないのである。一歳は一歳として、二歳は一歳として、その発達段階はそれ ぞれの意味をもっているのであり、その時でなければ味わうことのできない独特の力がそ のなかにこもっているのである。一歳は二歳でないからといって低い価値なのではない。 それぞれの段階がもつ無限の可能性を信じ、それを豊かに充実させること以外におよそ人 間の生き方というものがあるべきであろうか」
これは、「発達保障」の原点をさし示す、一切の解説を要しないことばではないでしょうか。(白石正久『子どものねがい・子どものなやみ』p.51)
「命」を強めるための、「保育」「教育」が、「命」を弱めている。
それが「健常者」と「障害者」を生んでいる。
そんな魔界で、「ひと」と「ひと」は、いがみ合いながらお互いに嫌悪しながら生きていく。
妬み、憐れみ、憎しみ、悲しみ、痛みの世界。
そんな世界で、僕は新しい曲をつくろうとおもう。
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