カバットジンさんと瞑想してマインドフルネスでストレスと暮らす。
ストレスをコントロールする
ストレスは、一朝一夕に解決できるような単純な問題ではありませんし、生活していくうえで避 けられないものです。そこで、ストレスを人生の体験として受けとめるのではなく、シャットアウ トしようとしたり、自分を無感覚にしてストレスから逃げようとする人もいます。これは、不必要 な痛みや問題から自分を守るための方法といえるかもしれません。たしかに私たちは、今、目の前 にある問題からある程度の距離をおく必要があります。しかし、いつも問題から逃げたり避けたり していると、その問題はより複雑になっていくばかりなのです。問題は、魔法のように消えていっ たりはしません。こういうことをくり返していると、消えていくのは、状況を変え、自分を癒して いく能力のほうなのです。問題を切り抜ける唯一の方法は、その問題に正面からとり組むというこ とだけなのです。
まっ正面から問題にとり組むといっても、それをうまく解決し、内的な安定と調和をもたらすためには、それなりの方法が必要です。つまり、自分の内部にある力を使って、その問題からくるプレッシャー自体を利用してうまく切り抜けるという方法です。これは、船乗りが船を進めるときに、風の力を十分に利用できる角度に帆をあげるのと同じことです。そして、風のエネルギーをうまく利用して、忍耐づよく帆をあやつることができれば、風向きにかかわらず自分の進みたい方向 に進むことができるのです。つまり、風の力を利用していても、船はあくまでもあなたの管理下にあるということなのです。
同じように、問題から生じてくるプレッシャーを利用しようとするなら、まずその力を意識しな ければなりません。船乗りが船や水、風、方向に意識を集中するのと同じことです。いつも晴れて いて、思った方向から風が吹いてくれるわけではありません。どんな状況でも、ストレスが生じて くる状況に合わせてうまく対処できるような方法を学ばなければならないのです。
このとき一番問題になってくるのは、どの程度プレッシャーをコントロールできるかということ です。現実の世界の中では、まったくコントロールできない力がたくさんあります。しかし、コントロールできないと思いこんでいるだけで、実際にはコントロールできるという場合もあります。 自分のおかれている環境に対して、自分がどのぐらい影響を与えられるかということは、ものごと をどう見ているか、つまりどんな視点でものごとを見ているかによって決まってきます。自分自身や自分の能力に対する思いこみ、そして世界を見る視点が可能性を決めてしまうのです。ものごとをどう見るかということが、何かをしようとするときのエネルギーや、そのエネルギーをどこに向けるかという選択に影響してくるわけです。 (『マインドフルネスストレス低減法』J.カバトッジン p.4)
人生はやっかいごと(ストレス)だらけ
この本では、このやっかいごとだらけの人生、をまるごと抱きしめてしまうという方法をお話 していきます。まるごと抱きしめてしまうことができれば、次々に訪れる人生の嵐になぎ倒されることなく、力づよく生きていくことができるのです。そのためには、まず自分自身と世界を新しい 視点でとらえる方法を学ばなければなりません。
今、私たちが生きている世界がやっかいごとに満ち満ちているということは、どこを見てもわか ります。新聞には、世界中の悲惨なニュースがあふれています。ラジオやテレビを聞いたり見たりするだけで、毎日のように戦いや暴力や悲惨な状況を伝える生々しいニュースが入ってきます。 たとえニュースを見なかったとしても、やっかいごと, から解放されるわけではありません。職場や家庭でのプレッシャーや、人間関係のさまざまな問題、失望感、そして、この目まぐるしく変化する世界にのみこまれないようにバランスを保つこと。こういったことも、人生のやっかいごとに含まれるわけです。私たちは、ゾルバのあげたやっかいごと”のリスト、女房や夫、家、 子供のほかに、仕事、請求書、両親、恋人、死、借金、財産、病気、貧困、けが、不正、怒り、 罪、恐怖などもつけ加えておかなければなりません。ストレスが生じる状況をあげていくと限りな続くわけです。 (『マインドフルネスストレス低減法』J.カバトッジン p.8)
自動思考でストレスを片付けない。賢く、注意を集中する。
私たちは、外部の世界や自分の内部の世界での体験に対して、無意識のうちに自動的に反応して、莫大なエネルギーを浪費しているのです。注意集中力を高めるということは、その浪費しているエネルギーを集めて利用する方法を学ぶということです。そして、それによって、おだやかな安定した状態と深いリラクセーションが得られ、心と体が癒されることになるのです。そして、生活や人生に対する見方が変わることで、豊かに人生をおくることができるようになります。(『マインドフルネスストレス低減法』J.カバトッジン p.17)
たとえば、あなたに何か深刻で慢性的な症状があるとします。そうすると、あなたは、どうしてもそのことばかり考えたり、ひどく悩んだりしてしまいます。そして、「以前のように健康になれるのだろうか」「これからどうなるんだろう」などという不安に襲われ、落ちこんでばかりいることになります。こういう場合でも、自分の症状に注意を向けているといえないことはありませんが、癒しに結びつくような注意の向け方とはいえません。このような注意の仕方は、”賢い注意” とは正反対のものなのです。
注意を集中するというのは、今、現在の自分を受け入れる。ということです。症状があろうとなかろうと、痛みや恐怖感があろうとなかろうと、とにかく、ありのままに、すべてを受け入れる。ということなのです。ですから、歓迎できない状況を拒否するのではなく、「この症状は自分に何を伝えようとしているのか? 心や体のどんな状態を伝えようとしているのか?」と問いなおすようにするのです。そして、少なくとも注意を向けたその瞬間は、その症状に没頭し、感じとれる感覚のすべてを受け入れるのです。これはとても勇気のいる作業です。特に、激しい痛みや慢性的な症状がある場合や死への恐怖がある場合には、かなり勇気が必要でしょう。しかし、「その症状を観察するために十秒間だけ近づいてみよう」と自分に言い聞かせればできるはずです。こうすると、症状を自分がどう感じているのか、ということもわかります。その症状に怒りを感じていたり、拒否していたり、恐怖感や絶望感やあきらめを感じていたとしても、できるだけ冷静にその事実を観察してください。それこそが、あなたが、今、ここで直面している現実なのです。健康状態を向上させるためには、自分が今いる場所から出発しなければならないのです。こうなりたいと望んでいる場所から出発するのではありません。現在の場所から出発するからこそ、より良い状態をめざすことができるのです。そして、症状に対するそういった感情をよく観察し、症状とともに受け入れるということが大切なのです。
いろいろな症状やそれに対するあなたの感情は、心や体の状態をあなたに教えてくれる大切な使者ということができます。自分にとって都合の悪いメッセージをもってきた使者を殺してしまうという王様の話がありますが、好ましくないからといって、症状や感情をおさえこんでしまうことは、この王様と同じ愚を行っているということになります。使者を殺してしまったり、メッセージを無視したり、怒ったりするのは、賢いやり方とはいえません。自己制御機能とバランス能力を回復するための体のフィードバック・ループを無視してはいけません。何か症状が現れたときには、そのメッセージに耳を傾け、結びつきを壊さないように対処するべきなのです。 (『マインドフルネスストレス低減法』J.カバトッジン p.193)
「今」この瞬間を心から味わう
一日中、自分の心の動きに注意を向けていると、自分がかなりの時間とエネルギーをついやし て、昔の思い出や夢想に浸ったり、すでに起きてしまったことや終わったことにくよくよしたりし ていることに気づくはずです。そして、おそらくそれと同じぐらいの時間とエネルギーを、自分に とって好ましい未来とか好ましくない未来について、思い描いたり、悩んだり、想像したりするの についやしているということがわかるでしょう。
このように、心の中では過去や未来についての思いがひっきりなしに行き来しているため、私た ちは、実際の体験の手ごたえを失ってしまい、その本当の価値や意味を読みとることができなく なってしまっています。
たとえば、夕陽が沈む光景を見ているとします。あなたは雲間に展開する壮大な光と色の演出に 感動しますが、だからといってその光景に完全に没頭しているかというとそうではありません。その瞬間は、たしかに目に映る光景だけを見て、その光景を受け入れています。ところが、すぐに、 一緒にいる人にその光景を描写してみせたり、美しさに感動したことや心に浮かんだことなどを話し始めたりします。いってみれば、あなたはその瞬間のストレートな体験を台無しにしてしまっているのです。この時点で、あなたは、夕陽や空や光から引き離されているのです。そして、自分の 思いを声に出して話したいという衝動にとらわれ、結局は、あなたの話し声が静寂を壊してしまうのです。
たとえ声に出してしゃべらなかったとしても、わきあがってきたさまざまな思いや記憶が、その瞬間の目の前の光景からあなたを引き離してしまいます。あなたはもはや、実際の日没の光景を楽しんでいるのではなく、頭の中の日没を楽しんでいるにすぎないのです。あなたは、日没の光景自体を楽しんでいると思っているかもしれませんが、実際には昔見た光景や思い出で脚色されたベー ルをとおして体験しているにすぎません。もちろん、こうしたことはすべて意識下のレベルで行わ れます。この出来事は、ほんの一瞬のことで、思いが次のものに移れば、あっというまに消え去ってゆきます。
このように、人は、ほとんどの時間を十分に意識しないまますごしているわけです。そのためにあなたは、思っているよりもずっと大切なものを失ってしまっているのです。もしあなたが、この ままほとんど意識せずに、あるいは一つひとつの瞬間を完全に受けとめずにすごしていけば、人生 の最も貴重な体験、たとえば、愛する人びととの結びつきとか、夕陽の光景とか、すがすがしい朝の空気、といったものを知らないまま生きていくことになってしまうのです。 (『マインドフルネスストレス低減法』J.カバトッジン p.38)
とらわれないこと。手放すこと。
内的体験に注意をはらうようになると、どうしても自分の心に入りこんでくる考えとか思いがあることに気づかれるはずです。そ れが楽しいことなら、できるだけ長い時間引き延ばし、何度も何度も呼び起こそうとするでしょ う。また、それが不愉快で、つらく、恐ろしいことならば、できれば忘れたい、ふれたくないと思 うでしょう。 「とらわれないということは、あるがままのものごとを受けとめるための方法です。自分の心が何かにとらわれたり、何かを追いやろうとしていることに気がついたら、そういう衝動を意識的にとき放って、そのあと、どんなことが起きるかを観察するようにしてみてください。そのとき、あ たが自分の体験を評価しているということに気がついたら、その評価自体にはこだわらないで、手 放すようにしてください。評価したことは認めるにしても、それ以上の深追いはやめるのです。その事実は認めながら、手放すのです。過去や未来についての思いがわいてきても、同じようにとらわれず、成りゆきを観察するようにしてください。
「どうしても心から離れない、強烈な思いにとらわれてしまう場合もあるでしょう。こんなとき は、「とらわれる。というのはどんな感じなのかと考えるようにしてみてください。*とらわれる。 ということが、どんなことで、どんな結果を生むのか、そしてどんな感じがするものかをつきつめ てみてください。自分がとらわれていくのを積極的に観察していくと、最終的にまったく正反対の 「とらわれない』ということがわかってくるはずです。ですから、とらわれないことに成功しようと失敗しようと、積極的に事態を観察しようという心構えがあれば、瞑想から得られるものは大きいはずです。
とらわれない、手放すということは、何もむずかしいことではありません。それは、毎晩、眠るときに誰もが経験していることなのです。静かな部屋で布団に横たわり、電気を消し、自分の心と体を手放します。心と体にとらわれていたら、とても眠れるものではありません。
ほとんどの人は、布団に入っても心から思いを閉めだせない、という経験をしているはずです。 これは、ストレスがあるかどうかの最初の兆候です。こんなとき、私たちの心は非常に強い思いに とらわれているものです。一所懸命、眠るように努めても、ますます眠れなくなるばかりです。あなたは毎晩よく眠れていますか? 眠れるなら、とらわれないでいる証拠です。あとは、それを起 きているときにも応用するようにしていけばいいだけです。 (『マインドフルネスストレス低減法』J.カバトッジン p.68)
癒しhealは「全体whole」とつながることで得られる。
アインシュタインがプリンストン上級研究所の所員だったころ、彼のアドバイスを求めて、個人 的な問題を相談する手紙が世界中から寄せられました。彼の業績を理解していた人はほとんどいま せんでしたが、それが革命的な業績であるということは世界中の人たちに知られていたのです。次 に引用するのは、清らかで美しい十六歳の妹を失った十九歳の娘をどうやって慰めたらいいかと相 談してきた、ある父親の手紙に対するアインシュタインの返事です。
人間は、私たちが、宇宙”と呼んでいるものの全体の一部です。時間も空間も、限定された 一部なのです。人は、自分自身とか、自分の思考や感情などが、体のほかの部分とは切り離さ れているもののように考えています。これは自分の意識に対する一種の幻想です。この幻想は一種の牢屋のようなもので、ここに入ると個人の欲望や自分に近い数人に対する愛情だけに縛られることになります。
私たちは、あらゆる生きものと自然全体を、そのすばらしさゆえに するために、慈しみ の輪を広げてこの牢屋から自分を解放しなければなりません。これが完璧 にできる人はいませ んが、努力し続けること自体が、この牢屋からあなたを解放し、内的な安定を得るための基礎 を作るのです。
このアインシュタインの返信は、私たちがいかに簡単に自分の思考や感情の虜になり、それらを盲目的に受け入れてしまっているかを示しています。たしかに私たちは、思考や感情というもの が、自分の生活や欲望にのみ関連しているものだと考えてしまっています。彼は、こうした個人的な感情や悩みをみくびっているわけではありません。ただ、切り離された生活にあまりにも没頭してしまうと、現実のもっと根源的なレベルを無視してしまうことになる、と言っているのです。彼は、私たちはみんな、組織されたエネルギーの集合体としてこの世に生まれ、去っていく、と考えているのです。このアインシュタインの手紙は、「個別性よりも全体性のほうがより重要である。ということ、そして,自分が切り離されていて、かつ永久的な一個の人間である、という考えは幻想である“ということを思いださせてくれるのです。
人生は、時間的(一生の長さ)にも空間的(肉体)にも限定されているという意味では、もちろん私たちは個々別々です。そして、それぞれが独自の考え方や感じ方や人間関係や愛情関係をもっています。こうしたつながりが壊れたとき、特に若くして愛する人が死んだりしたときに、深く打ちのめされるのはあたりまえのことです。しかし同時に、私たちはみんな瞬間の中で生きていて、悲しみや悩みは、現在という瞬間の小さな渦巻であり、全体性という海に瞬間的に発生した波にすぎないという考え方も真実なのです。渦巻が発生すると、生活にある種の異常が生じますが、それも究極的には私たちの包容力を超えた、より大きな全体を構成する要素の一つにすぎないということなのです。 アインシュタインは、「全体性や結びつきという観点を見落としてしまうと、生きているということの一面しか見られなくなる」ということを教えています。一面しか見ることができないと、私の人生、私の問題、私の損害、私の痛みというように、それだけが一番重要なことであるかのように錯覚してしまうことになります。自分を恒久的な、確固たる、自己”として考えることは、アインシュタインによれば、意識の幻想であり、自分を拘束してしまう考え方だ、ということになりま す。彼はこう書いています。 「人間の真価は、自己からどのくらい解放されているかによって決まる」
アインシュタインは、「意識的に人生全体を慈しみ、人間やあらゆる生きものを自然世界の一部 として認めることによって、意識の幻想から抜けでることができる」と言っています。この、自分を解放し、内的な安定を得る」という方法は、単なる空想から思いついたものではありません。彼には、習慣的な考え方から抜けだして、自分を解放するにはなんらかの努力が必要だ、ということがわかっていました。そして、この努力こそが、本来、誰にでも備わっているはずの癒しの力である、ということもわかっていたのです。(『マインドフルネスストレス低減法』J.カバトッジン p.293)
生きがい:つながっていることは自己を癒す
サナトリウムの生活と生きがい
二人の社会心理学者、エール大学のジュディス・ロディン博士とハーバード大学のエレン・ラン ガー博士が、あるサナトリウムの老人を対象に実験を行いました。まず、サナトリウムのスタッフ の協力を得て、年齢、性別、病気の程度、病気の種類が同じ人たちを選びだし、彼らを二つのグ ループに分けました。そして、一方のグループの人には、「サナトリウムでの生活を今まで以上に 自主的な判断で行ってください」という指示を与えました。たとえば、訪問客と会う場所の設定や 映画を観る時間などを、自分で判断する、といったことです。そして、もう一方のグループには、 この種の判断は、「すべてスタッフにまかせてください」と言いました。
また、この実験の一部として、各人に鉢植えの植物が与えられたのですが、そのとり扱いについ ても、二つのグループは別々の説明を受けました。自主的な判断をまかされたグループは、こんな ふうに言われました。 「この植物はあなたの部屋の雰囲気を明るくするためのものです。今から、これはあなたのもので す。枯れてしまってもそれはあなたの責任です。いつ水をやればいいか、どの場所に置けばいい か、自分で判断してやってください」 一方、生活上の判断をスタッフにまかせるように指示されたグループは、こう言われました。 「この植物はあなたの部屋の雰囲気を明るくするためのものです。でも、心配しないでください。 あなたが水をやったり世話をしたりする必要はありません。家政婦さんが、あなたの代わりにちゃ んとやってくれますからね」
一年半たって博士たちが調べてみると、一定の数の老人が亡くなっていましたが、これはこの種 のサナトリウムでは当然、予想されることです。しかし、注目すべきなのは、この二つのグループは、同じ期間に亡くなった人の数がまったく違っていたということです。植物の世話も含めて、 生活上のいっさいをスタッフにまかせるように言われたグループの死亡率は、このサナトリウムで の通常の死亡率と同じでした。ところが、自主的な判断をまかされ、植物の世話もまかされたグ ループの死亡率は、なんと通常の約半分だったのです。 博士たちは、いつ水をやろうか、といったほんのささいな判断であっても、老人たちに自分の生活を管理させるということが寿命を延ばすことにつながっている、と考えました。サナトリウムの 実態を知っている人なら、実際には個人が管理できるようなことはほとんどない、ということがお わかりのことと思います。ロディン博士とランガー博士の見解は、「自己管理力という力が、病気 への抵抗力を生みだす重要な要因の一つである」とするコバサ博士のストレス耐性に関する研究結 果と一致しています。
社会との結びつきが、生きる力を養う
結びつき、と自己治癒力
私自身は、すこし見方を変えて、博士たちの見解を補足するような解釈をしています。植物の世 話をするように言われた老人たちは、植物に束縛される機会、つまり、たとえ小さなことでも、自 分が必要とされていると感じる機会を与えられたことになるわけです。実際、彼らは,植物の命 は自分にかかっている」と感じたはずです。この視点からみると、大切なのは、自主的な管理とい う点よりも、人と植物との結びつき” にあると考えることができるのです。訪問客の扱い方やテ レビを見る時間を本人にまかせるということも、たしかに~自分の生活にかかわっている」という 感じを与えますが、もっと大切なことは,自分がサナトリウムと結びついている」、つまり患者た ちのグループとしてではなく、個人としてサナトリウムに結びついている」という感じを与えるということなのです。
他と結びつくことによって、一人ひとりの人生が、より大きなつづれ織りになり、もっと大きな 全体に織りこまれていくことになります。そして、実際には、こうしてより大きな全体に結びつく ことによって、あなたの人生があなた自身のものになっていくのです。老人に植物の世話をさせる 実験にしても、植物の世話をまかされなかった人たちの場合は、植物との関係やサナトリウムとの 関係、つまり、ヘ結びつき”を作りだすのがむずかしかったということになります。彼らにとって 植物は、自分に依存してくれるものではなく、たとえば家具のような中性的な物体にすぎなかった のです。
この点は、社会とのかかわりあいと健康に関するさまざまな研究結果からも明らかで、ある人が 関係している家族、教会、そのほかの組織などの数を調べるだけでも、その人の生命力を予測でき るのです。もっともこの場合は、その関係の質やその人にとっての意味、といったことはいっさい 考慮していません。
一人っきりで山奥で隠遁生活をおくっている人が、隣人がいないにもかかわらず、自然の中のあ らゆるものや地球上の全人類と結びついている、という感覚を味わっていたとしても不思議ではあ りません。こんなふうに自発的に一人で暮らしている人は、病気になったり、早死にしたりするこ とも少ないのかもしれません。逆に結婚している人でも、むずかしい関係であったり、結びつきが希薄であったりして、病気や早死にの原因となるような非常に強いストレスをかかえている場合も あります。しかし、社会的な関係の数から死亡率を割りだした大規模な調査では、少なくとも社会 との結びつきが人間の生活に大きな役割をはたしているということを示す結果がでています。ま た、たとえストレスを生じる結びつきであっても孤立するよりは好ましい、ということを示す結果 もでています。 (『マインドフルネスストレス低減法』J.カバトッジン p.359)
呼吸
瞑想を行うときは、呼吸が注意力をつなぎとめる役割をはたします。体の奥の呼吸を感じられる場所に注意を集中すると、表面では揺れ動いていても、リラックスした安らいだ気持ちになりま す。すこしのあいだ、呼吸に注意を集中するだけで、水面が波だっていても、風の影響を受けずに おだやかな海の奥のような、緊張状態の影響を受けないですむ場所に移ることができるのです。これは、自分自身の内部に平和な場所を作るうえで非常に効果的な方法です。あなたも、こういう場 所が確保できるようになれば、いつも心を安定した状態に保つことができるようになります。
さらに、このようにして、いつでも心の中の安定したおだやかな部分にふれることができるようになると、あなたのものの見方も変わってきます。そして、心の変化にまどわされることなく、ものごとをより明確な目で見て行動することができるようになるのです。これは、腹部で呼吸を意識するメリットの一つです。腹部は、頭の中の思いや、悩みや、心の騒がしさから遠く離れた、文字どおり体の“重心”です。だからこそ、私たちは最初のうちから、この腹部と仲良くなるようにとお勧めしているのです。 この方法で呼吸に注意を集中するようにすれば、いつ、どんなときでも、その瞬間に瞑想的意識をもたらすことができるようになります。そうすれば、瞑想を行っているときだけではなく、ふだんの生活の中でも、今”という瞬間に目を向けることができ、また自分の体や感覚に注意を集中す ることができるようになります。 (『マインドフルネスストレス低減法』J.カバトッジン p.80)
腹部での呼吸を意識すると、気持ちが落ちついてきます。風が吹くと海面が波だつように、外部 の環境がおだやかでないと、心もそれに反応して、揺れ動いてしまいます。海の場合は海面が激し く波だっていても、三~六メートルも潜れば、おだやかなうねりになります。同じように人間の場 合も、呼吸を意識する場所を鼻や胸ではなく、もっと下の腹部にもってくれば、心の動きにもあま り左右されず、よりおだやかな状態を作りだすことができます。特に、感情的になっているときや心の中にいろいろなことが浮かんでしまう”といったときは、落ちつきとバランスを保つために 腹部で呼吸するといいでしょう。 (『マインドフルネスストレス低減法』J.カバトッジン p.82)
痛みは自分の一部:みつめる
体の発している不快感や痛みを無視してしまっては、瞑想をしていることになりません。10章で ご説明するように、痛みや不快感というものは、もっとよく観察してみる価値があるのです。観察 するためには、不快だからといって排除するのではなく、喜んで受け入れる必要があります。なん らかの不快感を感じながらも座り続け、その瞬間の体験の一部としてそれを受け入れていけば、実 際は肉体的に不快であっても、リラックスできるということが理解できるはずです。不快感や痛み は、あなたを導く先生の役割をはたし、あなたを癒してくれるのです。
不快感の中でリラックスすることによって、ときには、激しい痛みをおさえることさえできるの です。瞑想を続けていけばいくほど、痛みをおさえたり発散したりする能力が高まってきます。ま た、静座瞑想のときでなくても、不快感に対する自分の反応を意識的に観察するという方法を使え ば、生活の中でもおだやかさや落ちつきが得られるようになるでしょう。この方法は、さまざまな 困難やストレスの生まれる状況や痛みなどに直面したときにも、効果を発揮するはずです。 (『マインドフルネスストレス低減法』J.カバトッジン p.100)
注意を向け、呼吸を意識することで、手放す。
瞑想の最初の段階では、絶えまなく去来する心の中の思いが、呼吸をしながら落ちつきと集中力 を高めるという本来の仕事から、私たちの注意力を引き離してしまいます。それでも瞑想を続けて いくためには、どんな思いがわいてこようと、常に注意を呼吸に引き戻すということを忘れてはい けません。
これまで見てきたように、瞑想中に考えていることがあなたにとって重要なことであろうとなか ろうと、そういう思いや考えは勝手に進んでいくのです。あなたがとても大きなストレスをかかえ ている場合は、「どうしたらいいんだろう」とか、「どうするべきだったのか」とか、「ああしなけ ればよかった、こうすればよかった」といったことばかり考えて、心の中は不安と迷いでいっぱい になってしまうはずです。
しかし、心配ごとがなく、それほどストレスがない場合なら、うまく呼吸に注意を集中できるか というとそうではありません。いつのまにか、前に見た映画のことを考えていたり、どうしても耳 について離れない歌が心の中で鳴り続けていたりします。夕食のこと、仕事のこと、親や子供のこ と、好きな人のこと、休暇のこと、自分の健康のこと、死のこと、請求書のこと、といったさまざまな思いが心の中を行きかっています。そして、いったいどのぐらいのあいだ、自分が無意識に考える状態にあったのかもわからなければ、なぜその思いに心を奪われていたのかもわからないでいるのです。
そこで、呼吸から注意が離れているということに気づいた時点で、「よし!ここで呼吸に注意 を戻して、今、考えていることをやりすごそう」と言い聞かせてください。そして、注意が薄れて くると、自然に姿勢も崩れてくるので、ここでもう一度、姿勢を正してください。
瞑想中は、すべての思いを公平に扱うようにして、その内容とは関係なく、どんなものにも注意 を向けるようにしてください。そして、意識的に呼吸に注意を戻してください。これは、重要な考えであっても、ささいなものであっても、意識的に一つひとつの思いをやりすごし、手放す練習な のです。そうしたそれぞれの思いを、意識の領域に現れた個々の思いとして観察してください。し かし瞑想中は、その思いがどんなに大事なことであっても、決してその内容に引きこまれないよう にしてください。あくまでも、意識の領域に勝手に現れてきた思いとしてあしらうようにしてくだ さい。そして、その思いや考えがその瞬間の自分の心をどのぐらい支配する力があるのかを観察し たあとで、その結果がどうであれ、手放してしまい、もう一度呼吸に注意を向けて、「自分の体と 共に存在する。という体験に戻ってください。 自分の思いを手放すというのは、おし殺すという意味ではありません。瞑想とは自分の思いや感じを閉めだすことだと思いこんでいる人もいますが、これはまちがいです。何かを考えてしまうこ とが,悪い瞑想で、何も考えないことが,良い瞑想である、というふうに考えてはいけませ ん。思い違いをしないように強調しておきますが、瞑想中に何かを考えるのは、悪いことでも望ま しくないことでもありません。問題は、考えていることに自分が気がつくかどうかということ、そ して気がついた時点でどうするかということなのです。そういう思いをおし殺してしまうと、おだ やかさや安らぎは遠のいてゆき、緊張感や欲求不満がつのり、いろいろな問題が生じてきてしまう のです。
注意を集中するというのは、心を落ちつかせるためにさまざまな思いをおしやり、閉めだすことではありません。心の中にさまざまな思いが流れこんできたら、私たちにはそれを止める方法はないのです。私たちにできるのは、流れこめるだけのスペースを作って、その思いを客観的に観察し、手放すことだけです。このとき、客観的に観察するための手段となり、集中しておだやかさを保つことを思いださせてくれるのが、呼吸なのです。 (『マインドフルネスストレス低減法』J.カバトッジン p.103)
感情は過ぎ去っていくもの
私は、小学生のうちに、自分自身と、自分の思いは別なものである、ということ、そしてさ まざまな思いが訪れ、去っていくのを観察し、決してそれに引きずられたり振り回されたりしないようにする、ということを教えるべきだと思います。同じように~呼吸というものは、ある意味で自分の味方であり、じっと観察しているだけで気持ちが落ちつくものだ、ということも教えるべきだと思います。そして、ただその場に存在しているだけということが、決して悪いことではない。 ということ、何かを達成しようとして、四六時中何かをしたり、”闘ったりする必要はない”ということも教えるべきだと思っています。
今からでも遅くはありません。自分自身の全体性の領域に足をふみ入れてみようと決心したときが、まさに人生を一歩ふみだすときなのです。ヨーガの世界では、人の年齢は生まれたときからではなく、ヨーガの修行を始めたときから数えるそうです。始めたときから数えるわけですから、うれしいことに、あなたはまだまだお若いわけです。
私たちは、ストレス・クリニックにやって来た、さまざまな問題をかかえている人たちに、問題から解放され、新しく出なおすためには注意を集中するという方法がある、ということを伝えています。そして、その道は、自分で見つけるものである、と教えています。 (『マインドフルネスストレス低減法』J.カバトッジン p.378)
身体のメッセージ:抑圧された心
メアリーは十年前に、ストレス・クリニックのプログラムに参加し、最初の四週間のあいだ、毎 日きちんとボディー・スキャンを行っていました。四週間後に彼女は、肩まではうまくできたもの が、首の部分までくると注意の移動が止まってしまう、と訴えてきました。首までくると、毎回遮断されたような、感じがして、そこから先にいくことができないと言うのです。そこで私は、 「それなら、自分の注意力と呼吸が肩から外に流れ出て、遮断された部分の周りをただよっている というイメージでやってみるようにしてください」と言いました。するとその週のうちに、彼女は 私の所へやって来て、何が起こったかを話してくれたのです。
彼女は、私が言ったように行うつもりで始めたようです。しかし、骨盤まできたときに、突然 *生殖器〟という言葉が聞こえてきたのです。これは初めてのことでした。さらに、この言葉を聞 いたとたんに、メアリーの脳裏に埋もれていた過去の体験が浮かんできたのです。そして、すぐに その体験が、九歳のときからずっと抑圧されてきていたということに気がついたのです。
彼女の中によみがえってきたのは、五歳ぐらいから九歳までの時期に、父親に性的ないたずらを されていたという記憶だったのです。そして、九歳のとき、父親はリビング・ルームの彼女の目の 前で心臓発作で亡くなってしまったのです。当時、小さかった彼女は、どうしていいのかわから ず、呆然としていました。自分を苦しめている人間が倒れているという安心感と、父親を気づかう 気持ちとの葛藤で何もできなかった、という彼女の状況は容易に想像がつきます。
やがて母親が二階から降りて来て、死んでいる夫を発見しました。そのあいだ、メアリーはずっ と隅にうずくまっていました。すると、母親は、「なぜすぐに助けを呼ばなかったの。お父さんを 殺したのはおまえだ」となじり、ほうきで力いっぱい彼女の頭と首を殴りつけたのです。
この彼女の体験は、四年間にもおよぶ性的虐待も含めて、五十年間も抑圧され続けてきたので す。この記憶は、五年間にわたって精神療法を受けたときでさえも浮かびあがってこなかったもの です。しかし、ボディー・スキャンの際に彼女が感じた、首の部分で遮断されているという感覚 と、何十年も前の小さいころに殴られたという事実は、明らかにつながっていたのです。まだ幼 かった少女にとっては、このいまわしい記憶はおしこめてしまうしかなかったのでしょう。 「彼女は、そのまま成長し、五人の子供を育て、子供たちはそれぞれ幸せな結婚をしました。とこ ろが、彼女の体は何年にもわたって、高血圧、心臓病、潰瘍、関節炎、狼瘡核、周期性尿路感染症 などの、さまざまなたちの悪い慢性病にむしばまれてきたのです。ストレス・クリニックを訪れた とき、彼女は五十四歳でした。彼女の医療記録の厚さは三○センチ以上に達していました。(『マインドフルネスストレス低減法』J.カバトッジン p.122)
身体からのメッセージを受け取る。自分の体を尊重する。
頭痛が嫌だと思っても、頭が痛いという事実は事実なのです。ですから、今、頭が痛い”という事実を受け入 れてください。そして、今、自分の体が何をどんなふうに感じているか、ということに注意を向け ることによって、そのメッセージを解読してください。 瞑想中に、頭が痛いという感覚よりももっと強い感情を何か感じていましたか? 頭痛をまねくような出来事があったと思いますか? 今、どんな感情をいだいていますか? 不安や絶望、怒り、失望、迷いなどを感じていますか? ズキズキと痛む感覚と共に呼吸をすることができますか? 自分の反応に賢い注意』を向けることができますか? 自分の感じていることや思っていることを、あるがままに受け入れることができますか? 自分が、私の、感じていること、私の、怒り、私の、思い、私の、頭痛というとらえ方をし ていることがわかりますか? . そして、この、私の、という部分を手放し、あるがままの瞬間をただ受け入れるということができますか?」
頭痛という事態にともなうさまざまな考えや感情、反応、判断、また、自分の感じていることを 否定しようとする思い、とり除きたいという願望などを観察していくと、自分と、自分の頭痛は、 別のものである」ということがわかってくるはずです。頭痛は、あくまでもただの頭痛なのです。 頭が、痛みを感じている。というだけなのです。
言葉で自分の症状を訴えるときは、私たちは無意識のうちに、あたかも自分がその症状や病気そ のものであるかのような言い方をします。たとえば、「私は、頭が痛い」とか「私は、風邪です」 「私は、熱がある」といった言い方です。しかし、もっと正確な言い方をすれば、「体が、頭痛を 感じている」とか「体が、風邪をひいている」ということになるはずなのです。自分が体験してい る症状を無意識のうちに、私、や私の、という言葉に結びつけてしまうと、それだけで事態を複 雑にしてしまうことになるのです。体のメッセージを聴きとり、過剰に反応しないようにするため には、症状と自分を同一視してしまう態度を改めなければなりません。頭痛にしろ風邪にしろ、症 状を一つのプロセスとして考えれば、その状態がずっと続くのではなく変動するものである、とい うことに気がつくはずです。 「筋肉の緊張や動悸、息切れ、熱、痛みなどの症状に全力で注意を集中すると、自分の体を尊重 し、体からのメッセージを聴きとることができるようになるでしょう。反対に症状に自分が巻きこ まれたり、逆に無視したりして、体のメッセージを受けとれないと、深刻な事態をまねくことにも なりかねません。 あなたのほうでメッセージを受けとる準備ができていなかったとしても、体のほうは必死にメ セージを送ってきます。(『マインドフルネスストレス低減法』J.カバトッジン p.196)
心の批判者から距離を置き、違和感・痛みが教えてくれる命のメッセージを受け取る
痛みの生の感覚を観察するということのほかに、もう一つ、とても大切なことがあります。それは、その~痛い、という感覚に対する自分の思いや感情に気づくということです。あなたは心の中 で、その感覚を〝痛みと呼んでいるはずです。しかし、”痛み”と名づけていること自体が、あ なたの思いや感情なのです。もし、自分がその感覚に〝痛みというレッテルを張っているとした ら、自分がそうしているということに気づいてください。もしかしたら、その感覚は、痛み”と呼 ぶほどのものではないのに、そう呼ぶことによって痛みが増しているのかもしれません。
心の中には、ほかにも、批評したり、反応したり、判断したり、切望したりというさまざまな思 いや感情が去来しています。「自分はこれで死ぬんじゃないか」「もうこれ以上は耐えられない」「いったい、いつまで続くんだろう」「私の人生はめちゃくちゃだ」「希望のかけらも残っていない」「この痛みと一緒に暮らしていくなんて絶対に無理だ」といった思いが、次々に心の中をよぎるはずです。しかし、これは、あくまでもあなたの単なる思いであって、痛みそのものではありません。
重要なのは、この自分の思いに気がつくことができるかどうか、ということです。痛みに対する思いは、あなた自身ではありません。現実でもありません。この思いは、痛みを受け入れる準備が整っていないときに、「痛みから解放されたい」と願う単なる心の反応にすぎないのです。実際に自分が体験している感覚を、感覚として観察し、感じとることができれば、こうした思いがなんの役にもたたないということ、そして実際には事態を悪化させるだけである、ということがわかるはずです。そのためには、あるがままの自分が今ここに存在しているという感覚を受け入れるようにしてください。ただ受け入れるだけでいいのです。
その感覚を”悪いもの”、だと思いこんでいると、なかなか受け入れられません。”悪いもの”と いう思いが生じるのは、あなたが「受け入れたくない、消え去ってほしい」と願っている証拠で す。しかし、受け入れたくないというのも、あなたではなく、あなたの思いなのです。何度もくり返しますが、あなたの思いは、あなた自身ではないのです。
こんなふうに見方を変えると、痛みへの対応も変わってくるはずです。激しい痛みを感じたときに、実験するつもりで見方を変えてみてください。そして、痛みから解放されたいと思ったときや、痛みに対して嫌悪感を感じたときに、意識的にその思いや感じを手放してみてください。痛みへの憎しみや怒りに気づいたら、その感情に反応するのではなく、一歩下がって観察し、ただ受け入れるようにしてみてください。 (『マインドフルネスストレス低減法』J.カバトッジン p.213)
体の自己治癒力を強くするためのマインドフルネス
私たちが意識しなくても勝手に調整してくれる、というのが体の長所かもしれません。脳は、外 界の刺激や体の器官から送られてくるフィードバック情報に応じて、絶えずすべての器官のはたら きを調整しています。
ところが、体の器官の主要な機能の中には、人間が自分で意識的にコントロールできるものもあ ります。たとえば、人間の基本的な欲求である 食べる」という行為です。人はお腹がすくと食べ ものを食べます。「お腹がすいた」というメッセージは、内臓器官からフィードバックされたもの です。このメッセージが届くと私たちは食べものを食べ、体から「もう十分だ」というメッセージ が届くと食べるのをやめるのです。これは、自己制御機能の一つです。
しかし、心配ごとがあったり、落ちこんだり、感情的な充足感がなかったりすると、なんとか満 足感を得ようとして満腹でも無意識のうちに食べ続けてしまうということがあります。これは、食 べるという機能は、内的な制御機能とは別に、人間自身が意識的に器官をコントロールできるもの だからです。しかし、体が送っている「もう十分だ」というメッセージを無視して、ひたすら食べ 続けるような慢性的な行動パターンにおちいると、やがて体内システムの制御機能が失われていき ます。そして、お腹がすいたから食べ、お腹が一杯になったからやめる、という単純な制御機能でも、いったん非制御状態になってしまうと、病気の原因になってしまうのです。過食症とか 拒食症、などの病気は、現代社会ではもうおなじみの病気になっています。
痛みとか病気の予感といったものは、体が私たちに送っている「注意しなさい」というメッセー ジです。
ところが、たとえば、油っぽいものを食べたり、お酒を飲みすぎたり、タバコを吸いすぎたり、 ストレスがたまったりして胃が痛むと、私たちは胃薬を飲んで、痛みをやわらげようとしたりしま す。そして、薬は飲んでも、生活習慣のほうはなかなか変えようとはしません。これでは、バラン スをとり戻そうとして体が送っている大切なメッセージを無視してしまっていることになります。 つまり、体の機能がバランスを失っていることに気がつかなくなっているのです。
しかし、体の送っているメッセージを受けとることができれば、行動パターンを改善し、体の制 御機能を回復することができるのです。(『マインドフルネスストレス低減法』J.カバトッジン p.374)
マインドフルネス瞑想いろいろ
ボディースキャン
ボディー・スキャンがどうしてもうまくできないという人がいます。特に、体のどこかに痛みの ある人は、初めのうちは痛みに圧倒されて、そこ以外の場所に集中できないという場合が多いよう です。また、どうしても眠くなって寝てしまうという人もいます。いずれにしても、こういう人た ちは注意を持続することができないわけです。
こういう場合は、できない” ということ自体が、あなたの体があなたに送っている大切なメッ セージだと考えてください。うまくできないからといって、深刻になる必要はありません。あなた がなんとかやってみようと決心していて、精いっぱいボディー・スキャンにとり組んでいれば、い つかは必ず乗り越えることができるようになります。 (『マインドフルネスストレス低減法』J.カバトッジン p.130)
ボディー・スキャンのときに感じる痛みを処理するには、最も激しく痛む場所に注意を集中する という方法もあります。この方法は、特に痛みが激しく、とてもほかの場所に意識を集中できない ような場合に有効です。その場合は、体全体のボディー・スキャンを行う代わりに、その痛み自体 の中で息を吸ったり吐いたりしてみてください。そして、吸った息が組織の中まで完全にしみこん でいるというイメージを作ってください。また、吐いた息とともに、痛みや毒素や病気が降参し
て、そこから外に吐きだされるというイメージを作ってください。そのあいだも一つひとつの瞬 間、一つひとつの呼吸に注意を集中してください。どんなに問題のある場所でも、そこから生じて くる感覚に変化が現れてくることがわかるはずです。痛みの度合いも変わってくるでしょう。そし て、痛みがすこしでも鎮まったら、注意をつま先に戻して、体全体のボディー・スキャンを行うと いうようにしてください。
瞑想は、失敗とか成功といった概念を超えたものである」というのが、最も真実に近いかもし れません。だからこそ、大きな成長や変化や癒しをもたらしてくれるのです。もちろん、瞑想には 進歩がないというわけではありません。また、どんなやり方でもかまわないというわけではありま せん。瞑想にもある種の努力は必要です。しかし、この努力は、リラクセーションや、痛みからの 解放、治癒力や洞察力などの向上といった効果をめざして励む努力とは異なります。そういうもの はすべて、現在という瞬間にすでに含まれているわけですから、めざさなくても自然にもたらされ るものです。どの瞬間も、あなた自身の中で現在を体験するための大事な瞬間なのです。(『マインドフルネスストレス低減法』J.カバトッジン p.132)
ヨーガ瞑想
すでにご説明したように、静坐瞑想を行うときには姿勢がとても大切になります。姿勢は、あなたの精神状態や感情に直接影響を与えるものです。自分の体の状態を教える体からのメッセージがわかるようになってくると、姿勢を変えることによって、気分を変えることができるようになります。顔の筋肉をすこし動かしただけでも、たとえば、笑っているような感じに口の両端をすこし上げただけでも、楽しくなったりリラックスしたりすることができるようになるのです。 ヨーガの場合も同じことがいえます。その都度、意識的に違う姿勢(ポーズ)をとるようにする と、体の反応や見方も違ってきます。ヨーガのポーズはすべて、あなたの思いや感情、気分、呼吸、体を伸ばしたり持ちあげたりすることで生じる感覚などに注意を集中するための、トレーニン グの場を提供してくれているのです。
たとえば、体を丸め、足を宙に浮かし、体を首と肩で支えるという 胎児の姿勢(図6のポー ズム)をとると、視野が変わり、気分が変わってきます。また、座った姿勢のときの手の置き方、 たとえば、手を開いて天井に向けているとか、下に向けて膝の上に置いているとか、親指が膝に触れている、といったほんのささいなことでも、一つの姿勢から生じる感覚が変わってきます。手は、体の中に流れこんでくるエネルギーを意識する能力を開発するためには格好のものといえるのです。
ヨーガを行うときには、いろいろな面から自分に注意するようにしてください。わざと違うポーズをとって、しばらくじっと動かずに、一つひとつの瞬間に注意を集中していると、心の中のさまざまな思いや感覚、そして自分の体に対する見方が変わってきます。このような方法でヨーガを行うと、内的活動が非常に活発になります。これは、体を伸ばしたり強化したりすることによって自然に生じてくる肉体的な利点をはるかに上回るものです。 (『マインドフルネスストレス低減法』J.カバトッジン p.154)
歩行瞑想
「ストレス対処プログラム」を始めたある若い女性は、いらいらがひどい精神状態で、一瞬たり ともじっとしていることができませんでした。私たちが説明しているあいだも、彼女は、体をぴく ぴく動かしたり、歩き回ったり、壁をたたいたり、机の上の電話コードをひっきりなしにいじった りと、ひどく落ちつきませんでした。ボディー・スキャンや静座瞑想をするなどということは論外 でした。ほんの短い時間でさえ続けることができないのです。動きのあるヨーガにしても、彼女に とってはじっとしているに等しいものだったのです。
しかし彼女は、異常な不安をかかえていたにもかかわらず、「狂気から脱出する道は、瞑想しか ない」と直感的にわかっていたようです。そして、歩行瞑想が、彼女の頼みの綱でした。自分では まったくコントロールできない悪魔の時が訪れると、心をつなぎとめ、集中力を保つために、歩行 瞑想を使ったのです。
月日がたつうちに、彼女の状態はしだいに改善され、やがてほかの瞑想にも挑戦できるようにな りました。しかし、自分ではどうにもできないような状態になったときに、なんとかしてくれるの は歩行瞑想だったのです。
私の子供たちが赤ん坊だったころ、よく私は,やむなく、歩行瞑想をしたものです。子供を背中 におぶって、真夜中に家の中を歩き回らなければならなかったので、この機会を瞑想にあてること にしたわけです。やりたいとか、いやだという気持ちに左右されずに、ありのままの瞬間に集中し ようと思ったのです。ときには、この真夜中の散歩が何時間にもおよぶこともありました。
この歩行瞑想によって、つらい真夜中の散歩がずいぶん楽にできるようになりました。また、赤 ん坊の小さな体が、私の肩や腕や体に寄り添う感じを意識するようになって、赤ん坊との一体感を 深めることができました。
人生の中にはおそらく、好むと好まざるとにかかわらず、とにかく歩かなければならないという 状況があるはずです。そういう状況こそ、歩くことに意識を向け、ほとんど無意識のうちに行って いる退屈な雑用を、豊かで実り多いものに変えるもってこいの機会になるはずです。 (『マインドフルネスストレス低減法』J.カバトッジン p.174)
慈しみの瞑想
慈しみの瞑想』は、まず呼吸に注意を集中し、心を安定させることから始めます。心が落ちつ いたら、意識的に自分自身に対する愛や慈しみの感情を呼び起こします。心の中で自分自身にこん なふうに言い聞かせてください。「怒りや憎しみの感情から自由になれますように、そして、私に 対する同情や慈しみの気持ちでいっぱいになりますように」
次に、誰か、気になる特定の人物を思い描きます。心の目にその人の姿を思い描き、「あの人が 幸せで、痛みや悩みから解放されますように。あの人が愛と喜びを体験できますように」と願いな がら、心の中にその人の感じをとどめておきます。このあと、自分が愛情を感じている人たち、両 親や子供、友人なども思い描くようにします。
今度は、特に関係がうまくいっていない人、たとえば憎しみを感じているような人を思い浮かべ て、その人に対して、意識的に慈しみ、寛大さ、同情の気持ちを向け、嫌いだという感情や怒りを とき放つようにします。そして、その人を、感情をもち、痛みや不安や悩みをかかえる一個の存在 として、愛や慈しみを受けるに値する人間として見るようにします。もし、その人があなたを傷つ けた人間だったとしたら、心の中で意図的にその人を許し、怒りや憎しみの感情をとき放ち、自分 だけが正しいというような感情をとき放ってください。自分が相手を傷つけたことがある場合は、 それが意識的であっても無意識であっても、相手に許しを求めてください。 この瞑想は、生きている人に対してでも、もう死んでしまった人に対してでもかまいません。許しを求めたり、許したりすることによって、長いあいだわだかまっていた気持ちを解放することが できます。これは、過去の感情や傷を完全にとき放ち、今という瞬間をありのままに受け入れるよ うになるためには非常に重要なプロセスです。
そして、さらに、生きる気力をなくしているような人や、自分より幸福ではないと思える人たち にも、慈しみの気持ちを向けてください。そして、その範囲をもっと広げて、悩んでいる人、しい たげられている人、愛情を必要としている人など、すべての人を、あなたの慈しみの気持ちで照ら してあげてください。そして、その範囲をさらに広げ、人間だけではなく、地球上のあらゆる生き ものや、生きている地球自体にも慈しみの気持ちを向けていくと、瞑想はもっと深まっていきます。
最後にもう一度、自分の体と呼吸へと注意を戻し、あらゆる生きものに対する暖かい気持ちや愛 情をいだいたまま瞑想を終えてください。「この力に気がつくまで私は、この瞑想にはすこし変わったところがあり、わざとらしいと思っていました。しかし、この瞑想を規則正しく行っていると、心をやわらげる効果があることがわかってきたのです。そして、自分自身に対しても人に対しても、暖かい気持ちをいだくことができるようになり、すべての人を慈しみと同情を受けるにふさわしい人間だと思えるようになりました。たとえ誰かと喧嘩をしても、相手を拒絶したりせずに、状況をはっきりと把握できるようになり、利己的な行動をとったり、自己破壊的な状態におちいることを防ぐことができるようになったのです。 (『マインドフルネスストレス低減法』J.カバトッジン p.312)
『ヨーガ療法ダルシャナ』メモ
『ヨーガ療法ダルシャナ (伝統的ヨーガにもとづくヨーガ療法標準テキスト)』
だいたいが、僕が今まで学んできた臨床心理の知識で言い換えができる概念。
卓見は、ヨーガには二種類あるということ。
ハタ・ヨーガ 身体的・容姿・健康
ラージャ・ヨーガ 心の修行
フィットネスクラブでやっているのは、ハタ・ヨーガ。
それが基礎になって、心と体のバランスをとるために、ラージャ・ヨーガがある。
いわゆるマインドフルネスは、呼吸法、観察といった静観の姿勢という点で、ハタ・ヨーガに近い気がする。
現代心理学では、マインドフルネスの次の段階として認知行動療法がある。
いわゆるスキーマの修正だ。
悪循環を断つ、神経回路を変えるために、ラージャヨーガがある。
いわゆるマッサージはその場だけの癒し、定期テスト対策。
もちろんそれは心を守るために大切なことかもしれない。
けど、自分で自分をコントロールして「健康な状態」になるためには、心が学ぶといいんだろう。
「こういう効果があるよー」というメソッドではなく、知恵の部分だ。
学びのヨーガ。ラージャ・ヨーガ
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メモ
無知さ、理智の誤り、無常なるものを常なるものと錯覚
意識髄 顕在的に「今ここ」に「わたし」がいるところ。
理智髄 理智の修正 愛着・憎悪・善悪などのこだわり、執着。認知(スキーマ)の歪み(文化的・社会的につくられる)。不安が生み出される場所。
観喜髄 記憶の修正
理智との対話・客観視
未来は憶測・過去の繰り返し。ファンタジーは創造的・わくわく・未知。
①無智
②自我意識
③欲しがる心
④避ける心
問題の共有
ニーズ把握
インフォームドコンセント(目標の一致)
自分のチカラ・強みを知る。新しい自己像をつくる。ストレスマネージメント。暴走する思考・意識のスローダウン・身体と心のバランス。セルフコントロール力。自立する。個別化する。関係性の修正(家庭・学校・地域)人生の意味づけは自分でする。自分の人生をつくる。(本当の「宿題」)
理智の修正プロセス
やってみる(結果が出る)→結果の客観的解釈(言語的介入)→自己洞察(自覚)→代替案形成〈シュミレート〉
本人が扱える課題に微小化する。積み重ねる。
自分との、他者(学校・家族・地域など)との関係の結び直し。
知識としての理智のしくみ
怒りは与えられるのではなく、心の仕組みが作り出すもの。状況に対する反応であり、無意識の解釈。
「こだわり」が喜びになるか、苦しみになるか。
知識→体験(知識の修正)→知恵(体験の言語化・知識の身体化)
ハタ・ヨーガ 身体的・容姿・健康
ラージャ・ヨーガ 心の修行
不安を一人でなんとかするのは、きつい。
解決構成モデル
問題には直接取り組まない。望ましい未来をつくることに、心的エネルギーを注ぐ。そのプロセスで、癒し・発見・洞察がある。流れていく川を遡らず、先に先に進みながら、オールの漕ぎ方をうまくしていく。
ブリーフセラピー
うまくいったら?・一度でもうまくいった?・うまくいかなかった?
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善性優位7種
制感・凝念・禅那
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