- 子どもの将来はだれのものか
- 高校を選ぶなら、高校に行く目的を明確に。
- 中学卒業後の進路を考える
- 高卒?就職?仕事?中卒でもいいの?進路が決まらない中学生へ
- 学校でズルすることを学んでもいい。中退してもいい。それでも学び続けよう。
- オトノネさんの言葉を多弁にするとダイゴになる(?)件。
- 大人が、子育てを通じて価値観を個別化(アップデート)する
- なんで高校に行きたいの?
- 塾に行けない中学生
- 義務教育学校の本当の意味とエリート社会と堕落と、子育ての2つの考え方。残酷な考え方。
- 学校を変えた生徒
- 受験って何だろう。積極的自己責任。
- 夢がない、やりたいことがない人へ
- 誰かの生き方に、自分の生き方を「見立てる」『思考のレッスン』丸谷才一
- なぜ学ぶ、なぜ勉強する、なぜ大学に行く、なぜ高校に行く
- 未来を変えるチカラ
- 高校選びは高校生活3年間、管理される場所を決めることだと考えてもいいかもしれない。
- 自分のホームグラウンドをつくる。
子どもの将来はだれのものか
オトナの願いとコドモの願いを区別する必要があります。 そして「成長」は「今」するものです。 どんなお子さんになってほしいですか。 「命」を大切にできていますか。 「心」は強まっていますか。 今、今、今!お子さんは成長を欲していると、おとのねさんは感じます。 僕たちが関われるのは、今、しかないのですから。 「命」に対する積極的自己責任を、ひとりひとりが負っているという自覚をもってほしいとおもいます。 生き方はいろいろある、ということを感じてもらえたらとおもいます。 大切なことは、すべては成長のプロセスだということです。 「コドモの願い」に耳を傾けてみませんか? 不登校を経験し、今、不登校の子どもたちのための学びの場をつくって「命」を燃やしている人がいます。 「命」をどう燃やすか。 「ひと」がひとりひとりが決めていくしかないことです。
高校を選ぶなら、高校に行く目的を明確に。
とりあえず高校卒業、というのは大人の都合です。 もちろん「とりあえず高校卒業」でもよいのですが、その場合は、「自分はまだその先が見えていないで選べない」という自覚はもってほしいものです(お子さん自身が)。 お子さんは学び方、生き方を「積極的自己責任」で進路を選べますか? 積極的自己責任とは何か? まず最初に、こちらのリンクをたどって気になる記事を読んでみてください。 「儒教と学歴」はオススメです。 「生きにくさ」を「生きる」ための記事一覧 「現代日本」を理解した後で、先のことを考えてみませんか? ーーー これはおとのねさんの個人的な意見です。 学校という組織は狂っています。 基本、原則、行ってはいけない場所です。 なぜなら「命」を大切にしていない、子どもをみていないからです。 学校の教師の人間性の低さが子どもたちの人間性を、豊かさを奪っていきます。 (「システム」としてそうなっているのであって、例外的に「個人」として心ある先生に出会うことはあるでしょう) アニメ、音楽、子どもたちが発信し、共感する文化をみれば大人でも感じることができるでしょうか。 コメントに注目です。
おとのねさん流、高校選び!
中学卒業は「自分なりの生き方をはじめる」いい機会になります。 悪い刺激からお子さんを遠ざける、という選択を積極的にとってくことは生きる知恵です。 基本、「心」次第ですが。 僕自身「高校生活」があまりにも不自由で、代わりに「大学生活」で多くのことを学びました。 高校に行く代わりに、自分で勉強をして大学で「ちゃんとした高校生活」を送ることもおすすめしたいです。1年間で高校の友達を作って、2年生で中退をして残りの教科は高卒認定試験でとる。2年間はアルバイトをしたり好きなことをしながら、高校で出会った友達、中学校からの友達とあそんでいたらよいとおもいます。
「私立の学校には行かない」ことを考える
→ 私立の高校に入れるお金を、その子のもっといいところを伸ばすために使うことを検討してみてください。
「公立の学校には行かない」ことを考える
→ 富山の外で大人たちと関わるとおもしろいかも。
「富山もう無理」
→離島留学・国内留学・もしくは私立の全寮制高校をお勧めします。 全寮制の高校もあります。 【全寮制】 受け入れ高等学校一覧 ↑ それぞれの学校の実態はわかりませんが、選択肢としてはアリです。(どこにいっても悩み事があります。成長の糧にできるかは、「心」次第です)
「今は親元を離れられない」
定時制をお勧めします。
中学卒業後の進路を考える
まず最初に、こちらのリンクをたどって気になる記事を読んでみてください。 「儒教と学歴」はオススメです。 「生きにくさ」を「生きる」ための記事一覧 「現代日本」を理解した後で、先のことを考えてみませんか? 「高校卒業までは」と考えていたら、お子さんの命が燃え尽きるかもしれません。
中卒で働いて大検を取り大学に行く
そもそも大学いって何になるのかというのはとても怪しいのですが。 正社員でも法律上やめられます。(それがしにくいのは空気というやつでしょう) 中学卒業後2年間、働いたとしましょう。 中卒でも正社員で働ける求人はあります(お子さんは中卒で働けるような人物でしょうか?) 月に18万稼ぐとします。 2年間で432万です。 残り一年で大検をとります。 学費は稼いでいますね??1年間で一生懸命勉強すればよいですね?? そういった作戦も、考えられるのです。学校にいることは必ずしも人生においてプラスにはならないと、僕は考えています。
中卒で専修学校に行く
「高校」以外にも「専修学校」というものがあります。 「仕事」のための実技を習う学校です。 専修学校の3つの課程のうち、中学卒業後にいけるのは「高等専修学校」と「一般課程専修学校」です。 https://www.sgec.or.jp/scz/foundation/system/special_system.html
高等課程(高等専修学校)
富山県では富山市医師会看護専門学校しかないようです。 石川県にはありませんでした。 福井県には天谷調理製菓専門学校があります。
一般課程
「専修学校(一般課程)」はいわゆる「習い事」や「予備校」「試験対策する塾」も含まれてしまうようなので「資格」が得られる場所だけ取り上げます。 富山県には瀬尾学園 総合カレッジSEO があります。ここでは高等学校の普通科卒業の資格が得られるそうです。 石川県、福井県には、、、なかった???古い情報しかのっていないような。
定時制に行って、働きながら資格を取る。
いろんな人がいるし、社会経験もできるし、お金という「パワー」や時間という「自由」も手に入る定時制がオススメです笑 もちろん、定時制から大学に行くことも可能です。
「偏差値」で選ばないで全日制高校にいく
AO入試を最初から狙って、戦略的に高校に行く、ということです。 もし「天才」に近くてべつに課題なんてなんとでもなるさというならよいのですが。 富山中部高校で一番下になるなら、「大学」を目指してもっとゆっくりと高校生活を送れるところにいったらよいでしょう。しかしどの高校も(富山中部高校を含め)「自称進学校」になっているため、どうなんでしょう。ね。 https://asrztymz.com/wp/?p=2493 ちなみに全日制だとか定時制だとかは、AO入試の判定基準にはなりません。 「富山中部高校」と書いても「なんだ、富山の真ん中にある高校なのね」くらいです。 こちらの記事も読んでみてください。
高卒?就職?仕事?中卒でもいいの?進路が決まらない中学生へ
中学卒業後の進路を考える
まず最初に、こちらのリンクをたどって気になる記事を読んでみてください。 「儒教と学歴」はオススメです。 「生きにくさ」を「生きる」ための記事一覧 「現代日本」を理解した後で、先のことを考えてみませんか? 「高校卒業までは」と考えていたら、お子さんの命が燃え尽きるかもしれません。
学校でズルすることを学んでもいい。中退してもいい。それでも学び続けよう。
子どもは学校でたくさんのことを学べる。 学ぶスキルさえあれば。 めいいっぱい、学ぶことができる。 与えられた宿題をズルすること。 アウシュビッツでも、学ぶことができる。 与えられた労働をズルすること。 学ぶスキルさえあれば。 ズルも、美徳だ笑 大人もたくさんズルをしている。 社長だけお金を稼いで、雇用者は生活保護レベルの福祉業界。 これは、ズルじゃないのか? ズルは、戦略だ。 オトノネは、学びのスキルを重視しています。 学びのスキルを使って、学校をやめることもできる。 学ぶことは、生きることだから。 学びを実践するために、学校をやめてもいい。 生きるために、学校に行かなくてもいい。 その積極的自己責任を負えるならば。 大丈夫、実験し、失敗や間違いだったとしても、本気でやることのすべては、君のチカラになる。 ーーーー 『成功する子・失敗する子-何が「その後の人生」を決めるのか』の著者は、大学を中退した。 著書を書きながら、ふと振り返って、当時大学を辞めることを決意しながら書いた手紙を見つけ出したという。
人生を変える決意をしている18歳の人間はこの世で最も昂ぶった生き物だ。しかし手紙が見つかってよかったことは嬉しかった。一瞬、この青春真っ只中の書き振りには耐えられないとおもったが、葛藤に満ちた若い日の自分におおいに同情を覚えたことも確かだった。(p.263)
そうして、文字通りの、アメリカを半分くらい横断する自転車の旅に出た。 「教育ゲーム」をやめて、最初ー今の自分ーからやり直した。 それから転々とキャリアを変えてゆきながら、「今回わたしがはじめた奇妙な冒険は、国の半分を横断する自転車旅行ではなかった。本を書くことだった。それがこの本だ」と、この本で書いている。 逆境はチカラになる。 転んでも一人で起きられる。 失敗は、なんとかできる。 失敗から学ぶ方法を教える先生が、自分自身のなかにできた子は、一流の学習者だと、僕はおもう。 失敗していい。 じゃぁ次どうするか、オトノネで考えてもいい。
オトノネさんの言葉を多弁にするとダイゴになる(?)件。
大人が、子育てを通じて価値観を個別化(アップデート)する
ある特定の組織(集団)にいる人は、価値観を普遍化する傾向がある。 その組織の中ではそれがタダシイとされていることが、その外の世界では通用しないケースがある。 一般的にタダシイと言われていることでも、「私はそうはおもわない」ということもある。 学校には行くものだ。 大学には行くものだ。 課題はするものだ。 宿題はするものだ。 「イイ会社」に行くものだ。 お金は貯めるものだ。 ◯◯高校に行くものだ。 などなど。。。。。 誰かの価値観と自分の価値観が衝突したとき(そんなことはよくある。頻繁に)、どうするか。 スキーマという言葉で表すこともできる「自動思考」がその人の心の表れになる。 衝突、違和感、摩擦と出会うこと。 出会うたびに、自分と世界の“関係を築き上げる”こと。 大切にしたいドラマチックな瞬間だ。 子どもは新しい時代、新しい価値観、新しい身体、それは全てお父さんお母さんとは違う。 全く別の人間として育って行く。 お父さんお母さんも、子どもも、育っていく。 一方的な関係ではない。 ーーーー 世界の一部でしかないものが、世界の全てになりうる。 それに疑問を抱いた人は旅にでるかもしれない。 帰ってくる人もいえれば、帰ってこない人もいる。 疑問を持たずに、受け入れ、暮らして行く人もいる。 それはすべて個別化の過程であると僕は思っている。
なんで高校に行きたいの?
高校に行くのが当たり前だろうか。 高校に行くのは当たり前ではない。 大学に行くのは当たり前だろうか。 まったく、当たり前のことではない。 私は聞くでしょう。 「なんで高校に行きたいの?」 「なんで大学に行きたいの?」 その答えが、15年間の、18年間の、学びの総決算だ。 私は聞くでしょう。 「なんで高校に行きたいの?」 「なんで大学に行きたいの?」 もし、答えが3年後に、表現すら変わっていないとしたら、その子は成長していない、変わっていない、と言ってもいいかもしれない。 「いい会社に入るため」と答える子は「悪い会社」にしか入れなさそうだ。(もちろん「いい会社」でも「悪い会社」でも、幸せになることはできる。) いい悪いが何かも「わかっていない」のだから。大人に振り回されている。 仮説を立て、調べて、実証して来なさい! さぁ、オトノネで考えよう! オトノネで、言葉を育てよう。
塾に行けない中学生
の話をYoutubeでしたことがある。 HPからもアクセスできるからみてほしい。 お姉ちゃんが、偏差値の高い高校を夢見て、落ちて、私立に行ったから、私は塾にはいけない、という話だ。 学校の先生も、親も、本当のことをしらない。 偏差値が高い高校で、たくさんの生徒が悩んでいることを。 だから私はもう進学校には行って欲しくないとおもっている。 なるべく田舎にある、争いから離れた場所に通って、塾で力をつけてほしい。 学校にいくよりも、そこらへんのフランチャイズに行ったほうがいい、くらいにおもっている。 otononeに来たらもう最高だ笑 私は将来、塾に行かなくてもいいような、ひとクラスだけの、芸術科と進学科の高校を作りたいとおもっている。 ふたつの学科は、互いに影響し合う。身体・感覚に長けた芸術科。論理・言語能力に長けた進学科。 右脳と左脳。 アカデミズムとアートは対立しない。 もともとそれは、古代ギリシアの伝統、シャーマニズムの伝統では一つであった。 それは競争しない。 どうしてお互いの長所を見つめあって、刺激を与え合う組織が、学校がないのだろう。 私はそういう学びあえる、成長しあえる場所をつくりたい。 だから私はotononeをつくった。
義務教育学校の本当の意味とエリート社会と堕落と、子育ての2つの考え方。残酷な考え方。
僕自身、大切な考え方が出てきた記事なので、最後まで見てもらえるとうれしいです。 ーーーーー
ーーー こんな記事を見つけた。 知ったかぶりでは許されない「学校のリアル」 気持ちがいいくらいはっきり書いてくれているなぁ。 公立学校は壊れている。 もう壊れている。 と認めてから、新しいことをはじめる時期にすでに入っているのではないか。 上のリンクからウェブサイトを見てくれましたか? 学校は、そういう場所です。 そういう大人たちがいる場所です。(悪口ではないですよ。事実です。もちろん、全ての学校がそうであるわけではありませんが) 学校は、基本、困難な場所です。 子どもがサバイバルする場所です。 僕にはそう見えます。(もちろん、そうでない学校もありますが!もちろん!) 気になったところにコメントを。 ーーー
ーーーー 「3割のエリート」と「7割の非正規」を育てる、それが日本の教育の実態 富山県、石川県の進学校の進学実績とかぶっていて笑えてしまった。 この3割に入ることを目標にしている「学歴社会から抜け出せない親たち」がいる。 「学校で英語が始まったから英語の塾に通わせる」というお父さん、お母さんがいるとしたら、少し考えてみてほしい。 (習い事をさせることでワルイことが起きる可能性も、オトノネのブログを見てくれているなら、ご存知ですね?) そうでなければ「「子どものため」のようで、経済界に影響されているだけの日本の教育」にふりまわされるだろう。 子どもが困らないように‥という親心を、マスコミ(経済界の一番槍)は刺激する。 子どもをマスコミの情報から守るのが、お父さんお母さん、学校の役目だと僕にはおもうのだが。 お父さんお母さんが振り回されていたのでは、もちろん、子どもも振り回されてしまうだろう。 子どもは可能性に満ち溢れている。 だから経済界はそれを狙う。「うちの子は、エリートに…できる子に…」 そのうち何人が、これから8050問題を作り上げていくことになるか。誰にもわからない。 ただ僕はそれを自分自身に課し、やりすぎて、心が壊れた人間だ。 それから「7割の非正規」の人たちと出会って行き、「うちの子は、エリートに…できる子に…困らない子に…普通の子に‥(普通って何?)」の連鎖から離れてしあわせを育てる人の暮らしを知った。(例えば期間限定で猛烈にアルバイトして、貯まったお金で物価の安い国に行き、暮らすことを続けている人。そしていろんな「いいもの」をネットで発信している人がいる。ある意味3割のエリートよりも、たくさんの人を幸せにしている気がする)もちろん、「3割のエリート」組の知り合いもいる。 「7割の非正規」の道を歩んでいた人が、「3割のエリート」コースに移ることもあった。 不確定だ。不確定の、不確実の、摩訶不思議な時代。 雇用されるという発想に縛られるだけでも、子どもの可能性を狭めてしまう、殺してしまうかもしれない時代。 「うちの子は、エリートになるかもしれないし、非正規になるかもしれないけど、どっちでもいいけどしあわせになってほしい」 というお父さんお母さんが増えてくれたら、僕がおじいちゃんになったときの世の中は今よりもおもしろくなるとおもいう。 あ、これですね。大切な考え方ですね。 自画自賛。 「うちの子は、エリートになるかもしれないし、非正規になるかもしれないけど、どっちでもいいけどしあわせになってほしい」 という考え方。(いつもお金に困っているオトノネだけど、困っているからこそいろんな人に巡り会えている気がする。それはそれで、よし!よし!と言い聞かせよう笑エリートでなくてもお金を持っている人もいるし笑) 大切なのは、幸せになることだから。 大切なことと巡り会うことだから。 だからこそオトノネはメタスキルとか、自立とか、心が大事と言っている。 ーーーー
ーーーーー ところで小学校と中学校をひとつにする義務教育学校が富山県でも増えてくるようだが。 お金と人がいないからまとめるという消極的な意味でとらえるしかなさそうだ。 だって、子どもがすくない地域でしか義務教育学校がつくられる予定がないからだ。 もう教育に、国はお金をかけてはくれない。 無償化という言葉も、ただのアピールだ。(富山県、石川県、地方ではお金持ちが公立に行く。肝心の支援が必要な私立は無償化されていない) 育ちの場として、小中がひとつになることはいいことではあるとおもう。 けどそれが実りのある、人と人が関わり合える場所になるには、やはり大人が意図を持って、意思を持って作り出すしかない。 どうなるかなぁ。 「ああ、もうむり。やっぱり人だ」と動き出している地域もある。 課題先進地から未来の教育の当たり前をつくる雲南市高校魅力化プロジェクト そのほか、原発で一度壊れた太平洋の北側の地域でも、再生を通じて新しい学校が生まれている。 “ 災害の悲しみを強さへ ” 堕ちることでしか、浮き上がってこれない。 堕ちているのに、守られることで、ちゃんと堕ちることができなくなるほど、不幸なことはない。 「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない。(坂口安吾の『堕落論』) 今は昔、人々の成人の儀式、通過儀礼と呼ばれているものは、精神的にも、肉体的にも、人間として堕ちる経験だったのかもしれない。 そう考えると、高校受験、課題で潰される経験は、悩ましい高校時代は、非人道的な扱いを受けること(進学校の生徒からでた言葉)は、高校生にとって、世界を作り直すきっかけになる大切なイベントだということができる。 それを助ける大人の存在が、大切なのだ。 そんなおとのねです。 ーーーー
ーー 青森県で漁師をしながらアイヌ民族の研究と三味線の練習に明け暮れていたころ。 親方がこういった(津軽弁忘れた!)。「俺は学校で化学式なんかみた途端に眠くなってしょうがなかったけどな!鯛なんか釣っていろんな人に配って笑ってもらうのが好きなんだな!」もちろん、「漁業組合」という仕組みの中でだいぶ搾取される立場だったのだが。大切なものを守ろうとして、一生懸命に海に出ていた。「3割のエリート」とは何だろうか。「搾取する側」になるということだろうか。 「うちの子は、エリートに…できる子に…困らない子に…普通の子に‥(普通って何?)」 「搾取する側」か「搾取される側」かどちらですか? 「普通」なら、「搾取される側」ですよ。 「困らない子」はIQではなくEQが高い子です。勉強は関係ありません。(エリートの中には困っていない人がいないということでしょうか?) 「エリート」なら、「搾取する側」です。 お子さんはすでに、「できる子」ですよ。 ーー
ーーー 蛇足! 「3割のエリート」と「7割の非正規」を育てる、それが日本の教育の実態 という言葉を聞いて。 「7割の非正規」になる子が大部分だとしたら、 非正規として生きる子どもたちの物語を、大人たちは嫌がらずに、もっと真面目に作ってみるのもいいのかもしれない。 「勉強ができなかったら、この子はこの時代、どうなるのだろう‥」そんな不安が、お父さんお母さんを不安にさせているのかもしれないから。 ーー
ーーーー あー、おやすみなさい爆
学校を変えた生徒
学校に行けなくなり県外に転校した生徒のお母さんから電話があった。 「冬休みになったら、進路のこととか相談したいって言っています。よろしくお願いします」 というお話。 進路といえば大学進学だが、その子は特殊能力の持ち主で、そのチカラをどうしたらいいか、一緒に考えていた。 大学に進学するだけが進路ではない。 受験受験で本当の気持ちがみえなくなっている、みる余裕もない高校生たちは、大学に入ってから、きっといろんな人と出会って「何がしたいんだろう?」「どうしたらいいんだろう?」と思うのだとおもう。 ひとりひとりの進み方は違っても、一人一人がもっているチカラを信じて、進んで行ってほしい。
受験って何だろう。積極的自己責任。
富山東高校の高校生にも聞かれて、それからしばらく考えていたこと。 一人ひとり受験の意味合いは違うことは本当だ。 ある人にとっては、親から離れたくて遠くに行くための受験。 ある人にとっては、資格を取るために是非とも進まなくてはいけない受験。 ある人にとっては、流されるままに勉強して時間がきたから入試を受けるような受験。 受験生にとって、受験とは、ものすごく特別な経験だとおもう。 受験が終わった後、就職、大学、いろいろある。 資格試験でテストを受ける、就職試験でテストを受けることもあるかもしれない。 これからもみんなテストを受けて行く。 けど高校生の時の受験は少し違う。 学校の先生、親、塾の先生、いろんな人と関わりながら 「あっちの人はこういう。こっちの人はこういう」のなかで「じゃぁ自分はどうしようか」という選択の連続を経験する。 その中で、合格するために、自分の将来を決めるために「私はこうだ」と言わなくてはいけないかもしれない。 いろんな人との関係の中で、自分がどうしたいのか、はっきりさせながら周りの人と関わりあう。 そして自分の出した結果に責任を持って、進んで行く。 受験という経験はそういうものだとおもう。 塾の先生はとにかく受験が終わるまで授業料を払ってくれるように「お客さん扱い」するところが多い。 そこでお客さんになるか、ちゃんと自分で判断して勉強できるか。 自立するということだ。 正しいことがわからない。 正しいことを誰も教えてくれない。 自分の目標と今の自分の差がありすぎる。 そんな時どうしたらいいか。 悩みながら、いい先生に出会う。 私はそれが受験という経験の醍醐味だとおもう。 今までは学校が全部やってくれた。みんなといっしょのことをしていればよかった。 高校卒業したら、ひとりひとり違う道をいく。受験という経験は、自立していく練習をすることかもしれない。 自立を助けてくれる先生を選ぼう。 いい先生がいないから、みんな困っているんだが。 otonone-オトノネ-を応援していただき、ありがとうございます。
夢がない、やりたいことがない人へ
大切なことを感じられるような、リッチな暮らしを目指してください。
「リッチネス」という言葉のこと、私も記事にしてきたのでみてみてください(検索できます)。
いろんな人の声を聞いてください。やりたいことがないぶん、他の人を手伝うチカラ、他の人が手伝ってほしいとおもうことを感じるチカラをあなたはもっています。
たくさんのことを感じられるように、あくせくせずに安心して暮らしてみてください(がつがつ稼いでみるのもいいですが)
共感能力、間主観性、人の視点に立てるなら、きっとあなたを必要としている人に、出会っていきます。どんどん進んでいってください。大切なものを、感じられるようになりますよ。
仲間と出会ってください。きっと、誰かが、あなたには見えない、大切なあなたを見つけてくれます。仲間と出会うために、一歩を踏み出してみましょう。
誰かの生き方に、自分の生き方を「見立てる」『思考のレッスン』丸谷才一
進路が決まらない、何をしていいのか。。そのつど答えを出して進んでください。また問いを立てたらいいのです。悩む進路を決める方法の一つとして、「見立て」があります。自分の人生を誰かの人生と重ねて「見立て」ることです。 本でもいいし、ネットでもいい、いろんな人がいます。 見立てることで、一歩先へ、進んでみてほしいとおもいます。 そこでまた問いをたててくださいね笑い
丸谷 同種のものが別の外観で存在することを発見する、同類を見つけて同類項に入れる。こ れは他の言い方で言えば、「見立て」ですね。この「見立て」は、もともと日本文化にとって 非常に大事なものでした。 われわれの文化は、日本のものを中国のものに見立てることによって始まっている。ほら、 『平家物語』の最初のところはまず、「遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の周伊 ……」と、中国の逆臣ども、栄華をきわめた悪人たちをずーっと並べる。その後に平清盛を出 して、つまり清盛を彼らに見立てる。その後も、ことあるごとに中国史から例を出してきて並 ベる。この方法は、『太平記』や『曾我物語』も同じですね。そういうふうになんでも中国見 立てで行くのが、日本文化の方法なんです。 『源氏物語』だって見立てから始まっているんですね。桐壺帝が桐壺の更衣に熱中した。これ はまるで唐の玄宗皇帝が楊貴妃に溺れたようなものであると、人々が眉をひそめたというところから、あの壮大な想像力が動き始めたわけです。あの見立てがなければ、当時の日本の貧弱 な朝廷で、あれだけの大長篇小説は書けるはずがなかった。 そういうことがあるから、ついには、たとえば乞食が後ろ向きで富士山を見ているのを見る と、あ、まるで西行みたいだなあと思って、「富士見西行」というようなことにもなってきた (笑)。 つまり見立てることによって想像力が動いたのであって、「見立て」は日本人のものの考え 方にとって非常に大きな方法だった。その方法をわれわれが学ばない手はないでしょう。 僕は『忠臣藏とは何か』で「人類は遠い遠い昔、春の王である若者を祭り、悼み、祝ふこと で豊穣を祈り、それによつて茫漠としてとりとめのない時間にリズムを与へてゐた」と論じま した。あのとき、あの本ではそこまで書きはしなかったけれど、心の中では、エジプト、ギリ シア、プリュギア(フリジア)、フェニキアの各神話の若い男神であるオシリス、アドニス、 アッティス、タムペに塩冶判官と勘平とをなぞらえていた。そしてそれらの神話の太母神であ りしかも若い男神の妻、恋人である(場合によっては母でもある) イーシス、アフロディテ、 キュベレー、イシュタルに顔世御前とお軽とをなぞらえていたんです。 遥かな昔、日本にもそういう若い男神と太母神をめぐる神話があって、それが民族の記憶に おいて消えたり褪せたり薄れたりしながら伝わってきて、それがあるとき、急にくっきりして、 塩冶判官=勘平、顔世=お軽という形でよみがえったと考えるのですね。 あれは、西洋の学問の類型学的方法と日本の戯作の見立ての方法との双方から学んだ結果でした。 ―壮大な「見立て」ですね。 丸谷あれがひらめいたときは興奮したなあ(笑)。(『思考のレッスン』丸谷才一 p.225)
なぜ学ぶ、なぜ勉強する、なぜ大学に行く、なぜ高校に行く
今日、偏差値が低い(客観的に低いだけで生徒のあたまがわるいわけではない)学校の生徒と話をした。 「期末テストの代わりにセンターの点数が使われるから、赤点とったら卒業できないんです!」 赤点とるかもしれないくらいヤバいの?と聞くと、はい。と。 高校に3年間通って、何を学ぶのか。 高校が終わったらどうなるのか。 日本の高校は多くの場合、社会と繋がっていない。 私自身もそうだった。がむしゃらにただ進んで行くしかなかった。 そして雇われ、余剰を余暇に費やす。 そうして日本の経済システムの中に取り込まれながら、人生を終えて行く。 なんのために働くのか。何のための命なのか。 社会の中に出て自分がこれから何かをする、その何かは、お金以外の何でもないのか。 学校の先生も塾の先生も教えてはくれなかった。 私は、インドネシアに行ったからこの日本の文化に気がつけた。 生きるために仕事をしなくてはならない。何のために? 好きな読書に時間を費やすため。 大好きなねぶたに毎年参加するため(そういってブラック企業に勤め続けている人がいた) 好きな食べ物を食べるため。 大切なものを守るために、学ぶのだろう。 大切なものを守るために、働くのだろう。 大切なものに気がついた時、学びなおせたらいい。 私もいつも学び直している。それでもまだ気がつけていない。 中学生、高校生の時にそれに気がつけた人は、なんて幸せなのだろうかとおもう。 そういう子どもたちの、大人たちの本気の勉強を支えたいなぁとおもう。
未来を変えるチカラ
「なんで勉強しなくちゃいけないの?」という問いに真面目に答えてきた。
受験という経験は積極的責任を持つことだとか、通過儀礼として生まれ変わる、自分のチカラの限界を知る、とか、いろいろ言ってきた。
今日も一つ、答え方を発見。
『未来を変える経験をする』『自分で努力して未来をつくりだす経験をする』ことが、勉強をする意味になる。自分の未来を変えるチカラをみんなもっている。
世の中は・・・とか、どうせ・・・とか愚痴をいうこともあるかもしれない。陰鬱としたニュースばかり出回る世界の中で、あなたがあなたらしく、笑いながら、あなたの未来に踏み出す経験。今まではみんな一緒だった。けど、これからは違う。ひとりで進むしかない、自分の未来と向き合う経験
自分には自分の未来を変えるチカラがあるんだ!と、信じることができるようになれば、受験は成功、というわけだ!(この点、私は失敗しているが笑)
世界は、そうやすやすと変わってはくれない。変わるのは、自分だ。自分が世界を変える。自分の見方が変わるから、世界が変わる。世界は変わらない。成長した分だけ、世界は違って見えるのだ。まるで赤ちゃんの時、立ち上がった瞬間、世界が突然、姿を変えるように。
高校選びは高校生活3年間、管理される場所を決めることだと考えてもいいかもしれない。
そのくらい、富山、高岡、金沢の高校は、管理するところはものすごく生徒を管理する。 例えばである。 なぜ商業高校の高校生は部活で忙しいのか。 若いエネルギーは、どこかにやらなければいけない。 できるかぎり、学校の中にとどめなくてはいけない。 非行、交遊は学校の評判、メンツに関わる。 たったそれだけの理由で、将来のことを考える暇もなく、考えるきっかけを与えることもなく、朝から晩まで部活をさせられる高校生がいる。 朝早く、大学に向かうスポーツマンな大学生と話をした。 「今3回生なんですけど、みんなで、大学決めるのって大切だったよねって話しています」と喋ってくれた。 高校3年間を、学校の中だけで過ごしたら、その先のことも見えなくなる。 それが高校生活だ。 卒業するまで管理される場所を決めるのが、高校受験だ。 どんな管理のされ方をしたいのか。 それが高校選びの基準であってもいいかもしれない。 もし「そんなの嫌だ」とおもうなら、自分で高校を選べるような学力をつけるしかない。 そういうモチベーションで、高校受験に望んでもいいとおもっている。 進学校に行くことがいいとはかぎらない。進学校にいったら、課題の海に放り出されてサバイバルしなくてはならない。 それでも平気な人もいる。それが好きな人もいる。君は? 大切な自分の心を守るためのチカラが欲しいなら、今、勉強を始めるのもいいかもしれない。 もちろん、どんな高校であっても、子ども達は、笑おう、笑おうと、心を磨いている。 私も見習いたい。 otonone-オトノネ-を応援していただき、ありがとうございます。
自分のホームグラウンドをつくる。
もし小林さんが、ランボーをホーム・グラウンドになるように読んで付き合っていれば、宣 長の描き方も違ってきたんじゃないのかなあ。 ――ただ、学者でもないわれわれが、ホーム・グラウンドを持つというのは、なかなかむずか しそうです。 丸谷 いや、ホーム・グラウンドがあるというのは、「何々学者」である、ということとは違 うんです。 たとえば、わが国には『万葉』学者というものがいますが、彼らはたいてい『万葉』のこと しか知らない。そもそも自分の専門以外について知ろうともしないし、考えようともしない。 それが日本のいわゆる「学者」ですね。 大野さんの言うホーム・グラウンドは、それとは違うんです。ホーム・グラウンドでの知識、 経験を抱えて、専門以外の分野へもどんどん出て行くわけです。ヴィジターとして他のグラウ ンドへ行って、そこで十分に戦うことができる、対等に戦える。そのことが大事なんですね。 日本の専門家というと、極端に細分化されていて、しかも狭い専門のなかに閉じこもること を大事にするという風潮がありますよね。学者の世界ばかりではなく、文学者の世界でもそう です。明治時代なら、先の窪田空穂のように、短歌だけではなくて、詩も書いたし、小説も書いた。北原白秋なんて詩人なのか歌人なのか、一概に言えないくらいいろんなものをやってい る。大正時代の小説家だって、ほとんどみんな芝居を書いてるでしょう。 ところが戦後、そういった風潮が失われつつある。近頃の小説家なんか、芝居どころか評論 すら書かなくなっちゃった。 |ホーム・グラウンドというのは知識とか学問というより、それをいかに自分の血や肉にし ているかということなんですね。 丸谷全人間的なものでしょうね、むしろ。(『思考のレッスン』丸谷才一 p.152)
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