草薙龍瞬『反応しない練習』ブッダの教えと子育てとマインドフルネス
自動的に反射していると、苦しい。
『反応しない練習』草薙龍瞬
メモ書きを始めると、長くなった。
心のしくみが、苦しさの原因が、体系的に書かれていたんだろうか。。。。。
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人は苦しむものなのだ。
なぜか。欲があるからだ。
これを渇愛(かつあい)という。
人は渇いているのだ。
私は今、心が、何かを求めている。
渇いている。
といういことをまずは認めようぜ!
というお話。
正確には、本には「正しく理解すること」と書いてある。
「過去の思いを、今日1日に感じる思いを、毎日見えてくるがままに、よくみること。そして、将来を信頼すること。それだけで十分です」と。
苦しみの正体(しくみ)を知ること。
苦しみは避けられることを知ること。
そうすれば、苦しみに溺れる必要はないと。
まぁ、言葉にしたら、簡単だけどさ。。。。
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「心の状態をみること」
今自分がどんな状態にあるのか、感情を持っているのか、言葉にする。
緊張している。
息苦しい。
泣きそうだ。
そうすると、体が反応したとしても、楽になる。
客観視できる。
楽な気持ちでいる。
落ち着いている。
楽しい気分だ。
ということも、感じて言葉にするといいのだろう。
言葉にする以前に、そのものをよく感じることも大切だ。
現代の言葉ではマインドフルネスという。
感じていることを、ちゃんと感じる、感覚に集中する。
そうすると心が落ち着いて、反応しなくなると。
苦しみにとらわれなくなると。
心の状態は3つに分離されるらしい。
・貪欲(過剰な欲求
・怒り(不満など
・妄想(ぼんやりなにかを思い浮かべている状態
心の外に意識を向ける。
体に意識を向けると心が落ち着く。
ふーん。
で、感じているものを的確に「3つのうちどれか」を当てていくと、モヤモヤは晴れるらしい。
これが「心を浄化する修行」と書かれています。
ふーん。
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心の状態の中でも、妄想が一番、身近だろう。
妄想、の中に、「判断する」ことが含まれているようだ。
この「判断する」ことが、苦しみの元、らしい。
妄想、の中には、期待や要求、願いも含まれる。
判断しようとする心は、どこかに「執着」している状態にあるという。
執着を手放せば、心は楽になると。
手放す、ということは他の本にも書かれていること。
『対象喪失の乗りこえ方』
「こうしなければいけない」「こうあるべきだ」ということも、妄想だと書いてある。
頭の中にしかないこと、実際には、ない、もの。
そうした判断(妄想)のなかでも、有益なもの、真実のものもある。
その判断が、現実に今役立っているのか。
子どもが熱を出したら、もちろん、手当てをしなくちゃいけない。
そういうことは、役立つ判断だ。
不安も、妄想だろう。
将来、、、、、将来、こうならないように。。。
将来??
「真実であるか」それから「有益であるか」を判断するといいと。
宿題をすることが、「有益」なのか。
「真実か」
「有益か」をはっきりさせるのは、いいことかもしれない。
宿題をしなかったらこうなる。
宿題をしたらこうなる。
どちらに「益」はあるのだろうか、ということを妄想(判断)することは、「益」があると僕はおもう。
宿題をしても、心は乱されるだけなのだから。その状態で得られるものは、他人の承認でしかない。自分は強くなれない。
他人(先生や学校や将来出会う誰か)に承認してもらうことに傾きすぎているような気がする。
みんな孤独を恐れている。
差別を恐れている。
「恐れ」によって育てられたコドモがどんな心のしくみをつくるんだろう。
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著者に言わせると、認められたい、成績を上げれば認められるから成績を上げる、とう思考は完全な妄想で、ヴァーチャルだという。それこそ、ゲームの世界。
「なんで勉強しなければいけないの?」と考える子どもは、学校の勉強がただの観念、記号、妄想に過ぎないということが直感的にわかっているのでしょう。別に楽しいわけでもなく、知的欲求を満たせるわけでもない。「快」でもないのに続けるなんて、心には管理不自然です。ただ、子どもにも承認欲はあるので、その欲一つで反応して、「成績の良し悪しで自分の価値は決まる」という価値観のなかで頑張ろうとしています。周囲は、そういう価値観で判断してくる大人たちばかりなので、成績による優劣・勝ち負けというバーチャルな判断が、実際に存在するかのように錯覚してしまうのです。もしブッダのような“悟れる”子どもなら、「犀のつののごとく、ただ独り歩む」のっかもしれません。が、「大人に認めて欲しい」という気持ちでいっぱいの子どもたちには、「よし自分も頑張ろう」と「イノシシのごとく張り切って」しまいます。こうして学力をめぐる「競争」に、いつしか巻き込まれてしまうのです。(p.160)
学校というヴァーチャルな存在が、学校という場所によってリアリティーを帯びている。
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自分が正しいとおもったことでも、相手にとっては正しくないことがある。
そういったものは真実ではない。らしい。
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同じようにして、怒りが「有益か」と考えたら。。
有益な時もあるだろうな。。・。
とおもう。
怒り自体は否定するものではなく、感じるもの。
「ああ、起こっているな、今」と言葉にしたり、ちゃんと感じるだけでもいい。
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自分はこういう人間だ、と考えることも、判断であり妄想であるらしい。
「自信がある」自分を思い描くのも、不安な現実を埋めあわせるための妄想だという。
「自信がない」というのも、妄想。「真実」でも「有益」でもない。
自分を判断せずに「今できることをやっていこう」と考えよう。
あ、これは引用しよう。
どんな世界でも、成果を出せる見通しがつくには、「10年かかる」と言われます。仕事なら、20代のうちにスキルや人脈を身につけて、30代に入ってから責任のあるぽsとを任されるうようになりまs。スポーツや芸術の世界で活躍している人たちも、経歴を見れば、幼い頃から激しい練習を積んで、10年あたりをすぎてよやく頭角を表し的明日。どの世界にも、“時間の蓄積”が必要なのです。本当は、今この瞬間に、なんの判断も必要ないのです。ただ「やってみる」だけ。そうやって、「体験を積む」だけでよいのです。(p.92)
ブッダは、ふつうの人なら腹をたてるようなことを言われても、「無反応」で返しました。というのも、「苦しみのない心」を人生の目的とする以上、「反応して心を乱されることは無意味である」と、はっきり知っていたからです。どのようなときも決して反応せず、ただ相手を見据えて、理解するのみーその立場に徹していたのです。このブッダの合理的態度から学べることは、「反応しないことが最高の勝利である」という理解です。仏教における勝利とは、相手に勝つことではありません。「相手に反応して心を失わない」ことを意味するのです。(p.100)
学校に行かない子は「小さなガンジー」で、学校でうまく生きている子は「小さなブッダ」といえそうだ笑
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けど、思うに、こうして「反応しない」ことで、世の中に暴力が蔓延してしまった、というのは事実だとおもう。
これも妄想だ!といわれてしまいそうだが。
仏教が、宗教が個人の、共同体の狭い中での生活を超えて影響力をもたないのは、こういう原理があるからか。
政治の仕組みが排他的なだけだろうか。
「世の中を変える」というのは、なるほど、確かに妄想に聞こえる。
そう考えると・・・・ブッダの考えは、、、、うーーん。
反応しないことで、心を守る。ストレスをコントロールする。
友達に言われた言葉で傷つく、怖くなる子がいる。
どうやってそういう心のしくみができるのだろう?
激しく、反応してしまう。
感じることは否定しない。
その次、感情のコントロールは、学べるものだと僕はおもっている。
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いじめる子にはどうやって反応したらいいのか?
いやいや、反応しないことになっている。
だったらこうしてみるか。
怒りを感じた。悲しみを感じた。
それを、きちんと感じてみよう。
文字に書いてもいい。
もちろん、話をしてもいい。
これが感情と付き合うということになる。
「ああ、あの時の怒りが、まだ残っているのだな・・・」
「ああ、こんなことが不安なんだな・・・」と自覚するだけでも、楽になる。
きちんと自覚すれば笑
心に残っているクセをとるのは、なかなか難しいのだけれど。
(物書きが文体を変えることが難しいように)
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反応しない、といったら、誤解があるようだ。
相手の感情をどう受け取ったか、相手の嫌な振る舞いをどう感じたかを相手に理解してもらうのは、よいという。
「やめてよ」というのもOK.「私はこう考えている」というのもOK。
ただ、相手がそれでやめるかどうかは、期待しない。
それで相手が自分の考えに賛同するかはわからない。期待しない。
とにかく自分の感じたことを口にして、今の自分を相手に理解してもらうのは、よいという。
言葉にして、理解されたら、感情はリセットされるという。
たとえ不一致だとしても。「そうか、あなたはそう理解したのか。」という理解が、受容が、お互いにできれば。というお話。
苦しめ合うために、関わっているのではない。
理解し合うために、お互いの幸せのために、関わっているのだ。 (p.120)
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欲求の満足が幸せに繋がるのは、本人が「快」を感じられる場合だけでs。逆に、もし欲が膨らみすぎて、「焦り」とか「不安」とか、「結果が出ない」「頑張っても認めてもらえない」という不満になってしまうのなら、その欲求はいったん手放さないといけません。「苦(不快)を感じたら仕切り直しなさい」というのも、ブッダの思考法です。(略)欲求を生きるエネルギーに変えて「快」を感じる生き方は、合理的です。(p.124)
心の反応は、「心がけ」次第で、強くもなり、弱くもなります。もしあなたが毎日の「快」を大切にして、楽しい時は「楽しい!」、心地よいときは「心地よい!」と、素直に感じ取るように努めていると、「快」は、もっとはっきりと、鮮明に感じ取れるようになります。
心地よさを、どうやってかんじたらいいか。
心地よさを感じる心のしくみがあるような気がする。
そうした経験をコドモ時代にできたら幸せだ。
「心地よさ」を感じられるような時間を、大切にする。
そのために瞑想だとか、禅だとか、マインドフルネスでドロドロした感情を手放すことを、この本はオススメしているのだろう。
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世の中は、煩悩、妄想を掻き立てるように作られている。
その方が、お金持ちにお金がたくさん入ってくるからだろう。
テレビを見れば、、、料理番組、家番組、、CMでは車、化粧品、新製品、、、
お金の話になって、生徒に聞いたことがある。
「お金を何に使いたいの?」
「おいしいものたべたい!」
なるほど。・・・
人間らしい笑
こうした欲が動き始めて「じゃぁ働くか!」でお金のために働いて得られる「不快」と「快」のバランスが壊れたのが日本なのかもしれない。
テレビを見ない、とか、会社をやめる、とか、「不快」の原因となるものを断つのも手だ。
人間関係を断つ、というのも、一つの手だ。
距離を置く、手元から、離していく。
「苦しみ」の渦の力(学校や会社)から離れていくのは、一つの手だ。
平均とか、偏差値とか、普通とか、比べたがる世界から一歩身を引くのは、一つの手だ。
ブッダは、こんなことまでいったらしい。いっちゃうんだ笑
関わりから愛情が生じる。愛情から苦悩が生じる。愛情からわざわいが怒ることを理解して、犀(さい)の角のようにただ独り歩め。(p.143)
心を守るために。
そうしてもっと別の「快」をみつけたら、笑えるかも!
(「快」を求めすぎてうまくいかなかったら、そこで修正していったらいい。)
心を守るために。
マイナスを減らすと同時に、プラスを増やしていこう(僕が苦手な分野だ)。
お気に入りの服を着る。
お気に入りの音楽をかける。
お気に入りの道を歩く。
お気に入りの人と喋る。
お気に入りの料理を食べる。
自分を変えていく、そういう意味で髪型やファッション、お化粧、アイテムを使いこなす女性を男性は見習ったらいいのか笑
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承認欲は誰もが何かしらの形でもっているものだとおもう。
それがプラスに働くなら、ひとりひとりが「成長」するなら、承認欲もいいものだろう。
けれども自分の承認欲のために他人の不幸を増やしている人がいる。
ここのところ、ブッダはどう考えたのかな?
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他人の物事のために、自分のなすべきことを捨て去ってはならない。自分の物事を熟知して、自分のなすべきことに専念せよ。(p.154)
ブッダも宿題はオススメしていないようだ。
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ここでまた元に戻る。
人はけして満たされることなく、何かを貪り、何かを勝ち得ようと望んでいる。それは、求める心(タンパー)に突き動かされて、心渇いている姿である。(p.158)
求める心には終わりがない。
心は、求めるものなのだ。
心は、渇くものなのだ。
この世界は、戦いと、言い争いと、心配事と、悲しみと、物惜みと、「わたしがいるぞ」という慢心と、傲慢と、誹謗中傷に取り憑かれている。やがて必ず喪失にたどり着くさまをみて、私は虚しくなった。(p.163)
時代や場所が変わっても、世界はみなおなじ、なのかとおもう。
喪失という言葉がでてきた。
子どもの自立と喪失経験『悲しみに言葉を』
『対象喪失の乗りこえ方』
競争社会、暴力の社会では多くのものを喪失する不安感に満ちている。
でもそれが現実。ヴァーチャルではない。現実をみよ。
で、心の仕組みも学んだら、現実でどういきるか、その答えはひとりひとり違う。
ブッダは3つの手順を話してくれているようにおもう。
まず心のしくみをしりなさい。
次に現実の世界を観察しなさい。
そうして、あなたの答えを導きなさい。
競争という価値観に埋もれる人もいるだろう。
勝ち組(自民公明党)になんとか入って差別(競争)を助長することで身の安全を守ろうとする人もいるだろう。(勝ち組=差別者だ)
したたかに、喜びに溢れる生き方を選ぶ人もいる。
今の日本はひどいというが、いつの時代も人間はみじめなものだと、ストリンドベリーという戯曲家はいっている。
私たちが目覚めるべきは、競争雨という現実、社会の現実に対して、日頃「どんな心で向き合っているか」という、最も根源的な部分です。外の世界は二の次。競争という現実も、後の話です。(p.168)
心が大事。
「なにくそ!政治が悪いからこうなんだ!」というのも、現実だが、それにどんな心で向かい合うのか。
政治のせいにして、自分の心を不快・不満で満たして、人生終わりでいいのか。
「なにくそ!学歴社会!(いやそれもう終わってるけど)」というのはヴァーチャルで、そんなこともうないけど、それに気がつかずに子供の心を「苦しみ」で埋め尽くしてはいないか。
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ここで、ブッダが教える、人生の大きな心構えー世界に対する向き合い方ーを知っておきましょう。それは、慈・悲・喜・捨と呼ばれる、4つの心がけです。(p.172)_
慈しみの心・・・相手の幸せを願う心。自分の都合や欲求を通すことではなく、純粋に「相手が幸せであるように」と願う心のこと。
悲の心・・・相手の苦しみ・悲しみをそのまま理解する心。相手の「悲」に共感すること。
喜の心・・・相手の喜び・楽しさをそのままりかいする心。相手の「喜」に共感すること。
捨の心・・・手放す心、捨て置く心、反応しない心。「中立心」ともいいます。たとえば、欲や怒りという反応に気づいて、ストップをかける心がけのこと。
かつて僕は愛について書いたが、この知恵と振る舞いと言葉遣いというのが、この慈悲喜捨にあたるといっていいかも。
愛とは何か。
これを僕は子供の時に学べたら、かなり幸せな人生を送れるだろうなぁ、とおもっている。
競争、偏差値教育で育てられたら、、、暴力を複製していくだけなんんだろうなぁ。。。
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五つの妨げに気をつけよう。
ということが書いてある。
快楽に流される心
怒り
やる気の出ない心
ソワソワと落ち着かない心
疑い
こうした心が、よりよい人生を妨げると。
妨げられないようにするためには、「現実をみる(妄想だと理解する)」「反応せず、心の今の状態を受け止める」とう既述の方法をとったらいいのでしょう。快のエネルギーを使うのもいいでしょう。
強い自分もいれば、弱い自分もいる。
「快」のエネルギーを使う自分がいるとおもえば、それを弱めてしまう自分もいる。
ということを認めて、その全部を「ああ、これも、あれも、僕の一部か。全部か。。」などと平然としていられたら、それこそ「平和」なのかなと。おもいます。
苛立つときもある。
嬉しい時もある。
動的に、平衡をたもっていく心。
人の心は明鏡止水とはいいがたい。
人間は、清濁併せ持つ心をもっている。
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承認欲はある。ただ、相手に求めるのではなく、自分に求めていく、成長していくのでなければ、苦しみを生む。
他人は、別の宇宙に住んでいる、と僕はおもう。
別の宇宙の他人と関係を結べることが、幸せなんだとおもう。
今、という時間をどう使うか。
自分が認められるために、できること、なすべきことをやろうというのは、すでにお伝えした「正しい努力」です。外の世界を見ないで、自分の内側にある「同期」や「今、自分がもっているもの(できること)」を見ることから始めます。
自分が持っているものー性格、資質、スキル、才能、経験などーは、他人と全く違っていることは一目瞭然です。もともと立っている場所が違うのですから、嫉妬しているその相手と同じ成果が手に入るはずはありません。また努力の方法、いわば「歩く道のり」だって、かなり違ってくるはずです。(p.195)
僕自身がオトノネでつくりだしたキーワード、「個性化」というのがそれだろう。
誰かと比べるのではなく、その子が今もっているものを最大限に使う。
それは強さになる。
もし誰かの作った土俵に上がるなら、相手と比較できる強さが必要かもしれない。
競争は、自然なものだ。
だが競争は、共生の一部であり、一つの側面にすぎない。
森の中に種が落ちれば、タネから芽が出る。
芽が出ない種もあるだろう。
芽がでたら?命が吹き出してきたら?
種がもっていたチカラで伸びていく。
大きな木の梢から漏れてくる光を浴びて。
(もし「光を!」といってお父さんお母さんがその芽を植木鉢に入れて一番高いところに置いたとしよう。風が強かったり天候の変化をもろに浴びて育ちません笑定期テスト対策はやめましょう)
誰もあるかない、誰もいったことのない道をみつけるのは大変かもしれない。
勇気がいるかもしれない。
けどそれも、自分への、子供への信頼があればできるはずだ。
天の才を信じよう。
命のチカラを信じよう。
僕も、、、、
道中、楽しみながら。
道中、出会いを、楽しみながら。
自分の歌を歌おう。
嫉妬から自由になるというのは、まずは、相手に目を向けている状態から「降りる」ことです。相手は見ない。「相手は関係ない」と考えて、怒りからも降りる。さらに、「他人と同じ成果を手に入れたい(他人と同じになりたい)」という妄想からも降りることですそうやって、しっとという感情から、まず完全に降りてしまいます。
その上で、もしまだ認められたいという気持ちがあるなら、「では、自分に何ができるだろう?」「わたしは、今自分にできることをじゅうぶんにやっているだろうか?」「まだできることがあるのではないか?」と考えるようにします。すると、自分自身の能力を高めていくこと、仕事・生活を改善していくことに心が向かうようになります。(p.196)
自分を見つめ続けて、やってみて、歩いてみて、それでも満たされなかったら、その都度、考え方を変えたらいい。
決まったコースなどはない。
「わたしには別の役割がある」
(それを、頭のお堅い人生の諸先輩たちは「我慢がたりない」とか「飽き性」とかいうけど、気にすることはない。)
大人になってもいつだって、人生は曲がりくねったり、岐路にたったりする。
日蓮宗の「蓮」の由来は聞いたことがあったが、ブッダの言葉としては初めて読んだ。
道の者たちよ、例えば青い蓮、紅の蓮、白い蓮が水の底に生じ、水の中でせいちゅ雄牛、自ら上に現れ出て、しかも水に汚されていないように、道を遂げたものは、この世の中で成長し、この世のうちに生きているが、この世に汚されていないのである。(p.200)
ーーーーー
興味深いのはブッダ自身が、「自分自身」と「正しい生き方」のみをよりどころにして、他のものに決してすがるな、と伝えていたことです。現代の仏教では、「ブッダ」と「サンガ」(僧侶・長老の集団)への帰依を人々に求めますが、ブッダ自身の思考は、そうではなかったのです。
最晩年のブッダは、旅の途中、長年付き添ってきた弟子のアーナンダに、こう語りかけます。
何時はもう、何者にも頼る必要はない。この世界でただ自らをよりどころとして、他の何ものもよりどころにしない(依存しない・執着しない)ことだ。正しい生き方(ダンマ)をよりどころにして、他のうつろう者、人間の思惑や言葉にすがらないようにせよ。(p.207)
思惑・言葉に溢れた時代の中で、それにすがらないとは、、、、
誰かが言ったことを「正しいこと」と思うわけでもなく、自分の心の外の移ろう世界の一部として捕らえろいうことだろうか。
すがりつこうとする心は、苦しみを生み出す、ということだろう。
それらは喪失するのであるから。
喪失の経験は避けられない。喪失した後の、喪失という経験をするとうのは、ブッダのいう「正しい生き方」に向かうプロセスの一部なのだろう。
『対象喪失の乗りこえ方 ~別れ、失恋、挫折の悲しみを引きずらないために~』加藤 諦三
子どもの自立と喪失経験『悲しみに言葉を』
現実は、汚い。
現実は、酷い。
現実は、苦しい。
そんな現実を認めた上で、
現実にどう関わるか?
ブッダが教えるのは現実を「変える」ことではありません。「闘う」ことでもありません、現実は続く人生は続いていく。そうした日々の中にあって、せめて自分の中に苦しみを増やさない、「納得できる」生き方をしようーそう考えるのです。(p.217)
「納得解」という考えは、テストではわからない大切なチカラとして藤原和博さんが「よのなか科」でつくりだしたものです。
正解のない人生を歩むチカラを。。。
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