- メッセージを受け取らなければ、言葉は用をなさない。
- 言葉の重み(俳優と演出家の役割)
- 【心ある言葉を届けるために】佐々木圭一『伝え方が9割(2)』
- 言葉を「問う」か、行為を「乞う」か。
- 教育と福祉の架け橋がない。お母さんが学ぶべき子どもの発達のこと、現代の社会のこと、現代の育児本に書かれていないこと。
- 個別化とは何か『クシュラの奇跡ー140冊の絵本との日々』
- 言葉が受け入れられるということ。
- 「子ども」に先生の値打ちを「問う」
- 言葉のチカラ
- 感情の言葉が少ないと前頭葉が「ホットな回路」に凌駕されてしまう件
- 「メデタシメデタシ」の物語には要注意!?『絵本と童話のユング心理学』より学ぶ
- 【都知事選と前頭葉と大西つねきさん】選挙というコミュニケーション方略ゲームに勝つ方法【言葉のリスクを冒さない】
メッセージを受け取らなければ、言葉は用をなさない。
どんな言葉も行動も、何らかのメッセージを伝えている。子ども(または生徒)はその メッセージから、自分がどのように思われているかを感じとる。「おまえの資質はもう変えよ うがない。私がそれを評価してやろう」という硬直したメッセージの場合もあれば、「あなた はこれからどんどん伸びていく人間。私はその成長ぶりに関心があるのよ」というしなやかな メッセージの場合もある。 「子どもたちは、こうしたメッセージに驚くほど敏感で、しかも、そのメッセージに大きな関
心を寄せている。 1950年代から70年代にかけて活躍した育児の達人、ハイム・ギノットが こんな話を紹介している。
5歳のブルースが、お母さんに連れられて幼稚園の見学に行ったときのこと。部屋に入る なり、ブルースは壁に貼ってある絵を見上げて言った。「あのへたくそな絵はだれがかいた の?」母親があわててたしなめた。「すてきな絵じゃない。へたくそなんて言うんじゃありま せん」。けれども先生は、ブルースが何を知りたいのかちゃんとわかっていて、こう答えてく れた。「ここでは、じょうずな絵なんて描かなくていいのよ。うまくなくていいから、好きな 絵を描いてね」。ブルースは先生に向かってにっこりほほえんだ。絵がじょうずに描けない子 はどうなるんだろうという本当の疑問に答えてくれたからだ。
次に、ブルースは壊れた消防車を見つけ、それを拾い上げて、とがめるような口調で言った。 「だれ、この消防車をこわしたのは?」またもや母親があわててやってきて、「だれが壊したの かわかっても仕方ないでしょ。知らないお友だちばかりなんだから」
でも、先生はちゃんとわかってくれた。「おもちゃは遊ぶためにあるのよ。だから、ときに は壊れちゃうことだってあるわ」。今度も先生は、おもちゃを壊した子はどうなるんだろうと いう、ブルースの疑問に答えてくれた。 ブルースは元気よく幼稚園に通いはじめた。この幼稚園は自分に優劣の評価を下すような場 所ではないとわかって安心したからである。 (『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.252)
言葉の心ーオトノネー
生徒がやってきた。 (生徒っていうのもなんだな・・・人がやってきた) 先週出していた「やってくること」の話はさておき、いろんな話をしてくれる。 喋りたい様子。 聞く。 適性診断をやってみた!「占いを研究し尽くした人がいるらしいんですけど、当たる確率は1%くらいらしいですね!」と。 よく情報を集めているではないか。 「この間、おとのねさんが言っていた女の人の記事みたんですけど、私は・・・・」 なるほど、調べてくれたのね。 「冷房の設定温度、環境省のオフィスが20度だってどういうことですか!しろくまが困っているから節電節電っていうのに!」 しばらく、動物の話題になった。 で、んー、どうしようかな、と考えながら・・・ 「君は、言っていることとやっていることが違うのが、気になるの?それとも、動物が苦しんでいるのが嫌なの?」 こういう問答をしているうちに、ああ、この子が今もっているのは、怒りなんだなっと感じた。 聞いてみた。 「今喋っているとき、感じている感情って、何?」 怒り、だという。 うん、伝わっているよ。 そうか、怒りの感情はそれ自体、悪くない。 何かの理由があって、怒りも怒りの事情があって出てきているのだから。 「その怒りって、いつ頃から感じてるの?」 20年前だという。 生まれる前からかー けど、それが、怒りが外に、言葉になって出てきたのは、1ヶ月前、その子が不登校になってかららしい。 お母さんの証言でも、そうだという。 「こんなに喋る子じゃなかった」と。 ーーー ーー 不登校を認めてくれたお母さんは賢明だ。 そうしてオトノネを訪ねてきたのも、何か、お母さんの素敵な直感だろう。 その子は、ヒトカゲからリザードに進化したのだ。 一人でカラオケに行ったり、料理をしたり、今までやっていなかったことも急に、やりはじめた。 そう、今は、今まで溜めてきた怒りと向き合う時期なんだろう。 宿題どころではない。 といいながら、そのエネルギーを、いずれ、掌握することになるだろう。 怒りのエネルギーを、どう使ったらいいか。怒りとお付き合いを上手にして、怒りに助けてもらうことができるようになるだろう。 そのためには、、、、いろんな人との出会いが、経験が、場所が、大切になるのだろう。 今は、宿題どころではないのだ。 が、現在、発散しているエネルギーを、収束させることで、その子が次のステップに行く力を得ることにもなる。 その子は今、生まれたばかり。リザードになってから、まだ1ヶ月。 新しい自分と付き合う時間が、必要だとおもった。 ーーー ーーー けどお母さんは不安。 将来のことを考えると、計画的に勉強をしてほしい、、、 お母さんは、不安と付き合っている。 リザードに進化して、思春期を華々しく迎えた子と、どう付き合って行くか。 不安なのは、お母さん。 子どもは、進化して、今、ドキドキ中。 目には見えないけど、その子は、土の中で芽を出そうとしているタネのごとく、エネルギーに渦巻いている。 大丈夫。 自分で職業適性診断を探してやるくらい、将来のことを考えているから。 その子に、その子の時間をください。 と、僕は、伝えた。 といっても、お母さんは、不安! だから、お母さんも、いろんな人に出会うといいかもしれない。 新しいことを始めるといいかもしれない。 新しい場所、新しい人、新しい気持ちで、不安と付き合うバランスを取れるように。 一人で心をなんとかするのは、とても大変だ。(無理無理!) 大丈夫ですよ。 人は、自立するチカラをもって、生まれてきます。 ーーー ーーー 大人も子どもも、それぞれの段階で、別々の課題をもっている。 おとのねさんも、思春期真っ只中です。 帰り際に、お母さんの一言。 「オトノネは、はっきりものを言うから、ふつうのお母さんたちは、怖くてこれないですよー」 生徒が増えないわけだ! ーーーー ーーー 音が聞こえていても、その根、音色が聞こえていないことがある。 言葉には心がある。 オトノネに、耳を傾けて、みませんか?
おとのねさんと鳥の声
鳥が鳴くのを聞いた瞬間に あ、やってしまった、とおもう 英語:GOOD MORNING 日本語:おやすみなさい おもしろいこと、今、僕、言ったなぁとおもう。 うれしくなってFBにも投稿しちゃおっ
言葉を鍛える『教えない授業』アート・コミュニケーション・プロジェクトのメモ
『教えない授業』鈴木有紀
ACOP
アート・コミュニケーション・プロジェクト
京都造形芸術大学アート・コミュニケーション研究センター
なぜそうおもう?ではなくどこからそうおもう?と問うことで、「何を見てそうおもったか、どこをみてそうおもったか」に答えてくれる可能性が高くなる。
愛媛県立美術館
対話型朝鑑賞
前回見た作品、習った学習内容と比較しながら見られる作品を探すと盛り上がったりする。国が違う。時代が違う作品とか。
ニューヨーク近代美術館の手法
VTC VTS
抱いたイメージをためらいなく口に出すこと。
1。作品の中でみつけたこと、きづいたこと、考えたこと、疑問でもなんでもいいので話していきましょう
What is going on in this picture?
2。どこからそう思う? 子供の考えを聞く
What do you see that makes you say that?
さらに作品をみることを促す・考えを引き出す。論理的思考を促す・話を共有しやすくする
どうしてそうおもう?ときくと、知識で答えてくる場合がある。根拠を今見ている絵の中に求めるためには、どこからそう思う?と聞くといい。
3。他にはありますか? 視点を広げる
what more can we find?
4。そこからどう思う? 考えを深める
さらに思考を深めて、どんな物語がでてくるか。
「まずはよくみる!ぱっと目に入ったところから、隅々までみる!」
ポインティング 絵を指さして、いまどこに注目しているか、明示する。
「新たな視点がでてきたよ」今までとは違う見方がでてきたら、述べる。
作品の中に物語がみえてくる。
パラフレーズ 子どもの言葉を言い換える。
フォーカシング 子供達のみているものがバラバラになっているとき、見る箇所を絞る。
コネクト 言い方が違くても、同じことを言っていることをつなげてまとめる。
Try again, fail again, and fail better.
目隠しアートツアー
言葉の重み(俳優と演出家の役割)
演劇の話をしても、わかる人いないだろーと思いながら。 ーーーーーー 僕はよく俳優に言うセリフがある。 (というか劇団の外、外部の劇団と仕事をするときに) 「君の体はこのセリフの重みに耐えられますか」 音楽は、その力を俳優に与えるためのものだ。言葉の重み、場面に流れている空気の重み(もしくはその色や形、人々の呼吸、心)を感じることではじめて生まれてくる響きがある。 軽くて淡く、光り輝く色をする言葉を鈍く、重々しく、そして真っ黒にして喋る俳優もいる。 それは、アカンのです。言葉のセンスがない。 重たいセリフを重たく喋れる俳優がいなければ、演出家は、「重たいセリフを軽くする」ための演出をする。 (訓練法を知っている演出家なら訓練させるが、時間がかかる) セリフの重みを感じられないで喋れば、言葉は崩壊するからだ。そうすると舞台は崩壊する。 だから初めから、ある程度壊しておくのだと。 言葉を別様に生かすのだと。 けどそれは俳優の力量のなさによることがほとんどだ。 (そしてほとんどの俳優がこれができないがために、舞台はほとんど崩壊している。喋らないほうがいい。それでは全部ダンスにしたらどうか?ダンサーもほとんど、体が死んでいる。本当にいいダンサーは、自分の体と心をつなげている。多くのダンサーは、体を機械にしてしまったようだ) 言葉の、セリフの「あり方」を感じられないことがほとんどなのだ。 (本当に感じられるとういことは、本当にその言葉の「その通り」に話せるということだ。つまり「重たいセリフの重みを支えられる」ということだ。) だから観客は「言葉」を味わうのではなく、「ストーリー」を楽しむことになる。 演出、設定、舞台装置、衣装・・・「言葉」は舞台の上で、観客に届くことなく、ただただ、力なく横たわっている。 それが多くの「俳優」の世界だ。 (僕が音楽に感じている魅力は、言葉の本質が、まだまだ一部の音楽には残されているからだろう) ーーーーー 「お母さん、学校行きたくない」という一言はどんな響きをしているだろう。 もしかしたら、そのセリフすら、言葉すら、子どもから奪われているかもしれない。 その一言すら言えない心。 「宿題」という言葉を使う以前に、「宿題」にがんじがらめにされている身体。 「宿題」に心が開かれるわけがない。 どうしてそんな心が、歪まずに成長できるだろう? 沈黙の舞台。 言葉を使う、価値のない世界。 言葉が暴力になる世界。 (僕はあまりにも煩すぎて劇の途中で出ることが多々あった。学校にも耐えられなかった。学校に溢れている、あの公然なる暴力の世界が、日本の標準であると考えると本当によくいままでみんな生きてきたなとおもう) ーーーーーー 舞台音楽の作曲家とは、演出家とは、こうした「ダメな俳優」をどう「舞台」に上がらせるかに腐心する。 その限界を超えた音楽を与えたら、俳優の存在意義がなくなってしまうから。 未熟な俳優が多すぎる。 (本当は「重い言葉」はちゃんと「重く」喋ってほしいんだよ) すべてがコマーシャリズムに吸収されて、実力のある俳優が、でてこない。 短命な、俳優。 どうか、命を粗末にしないでほしい。 命を大切にすることを、演出家は俳優たちに教えることがない。 俳優とは、子どもとは、どういう「役割」をもった人間なのか。 演出家よ、音楽家よ、大人たちよ。 まずその問いに答えよ。 大抵の俳優は、まだ世の中(演劇)のことをしらないのだ。 知らない言葉を語るなどできない。 知らない言葉の響きを知らないなら、できない。 「君の心はこのセリフの響きをつくりだせますか」 それこそ、舞台の上でなにをするか、なにができるか、ではなく、 俳優という存在がどのようにして「ある」のかを見られている。 一生懸命演じるのはいい。 けどそれで、観客に媚びへつらうのではいけない。 媚びへつらう、心の「あり方」が伝わってしまう。 (その点、みんなで踊る群舞の伝統は、もともと遊女がお客をとるために編み出されたもので、よくよく伝統を受け継いだグループが、現代でも活躍中である。ちなみに、映画というものの多くは、俳優が空間、時間を意識しなくとも「編集」によってうまくみせられるようにできている。力量のない俳優でも映画に出て、商業として成り立つのはそのためだ。文字通り「売れる」のである。というか、そういう、カメラやマイクがなければ成立しない、生身の声や体を使えない小手先の「定期テスト対策」的な俳優が増えてくる。まぁそういう生き方も、あるのだが。。。) 言葉は心。 心は言葉。 体が開かれていなければ、心も開かれない、かもしれない。 もし学校の中でガチガチになってしまった心があるなら、離れてみるといい。 自分の心がちゃんと「ある」のだと、確かめられる、感じられるようになったらいい。 学校でも平気!になるための強い心、強い体をつくるためには、まず、自分の心が体とつながっていて、体はこの世界とつながっていて、学校の「日常」で埋もれた心からは出てこない言葉が、体が、心が自分の中にあることを、感じて見たらいい。そしてそれらを、強めていったらいい。心をシステムを、楽器を、作り出していくことだ。(音を増幅させる仕組みが、楽器には施されている) それが大切な学びだと、僕はおもう。 ーーーーー ーーーーー 日本のとある演出家は、「重たい言葉を支える身体」をつくるトレーニング方法を生み出した。 その結果どうなったか? ちょっと昔に、その演劇を見にいって直接感じたこと。 俳優のひとりひとりが、死んでいたことである。 俳優として、作品の上で与えられた役割をこなしたかもしれない。 ただその後、舞台から降りた俳優に、「人間として」言葉をかけたいと思えなかったのだ。 俳優は人にあらず、という言葉がある。 人にあらず、だがしかし、 憂う人でもある。(優れた人とは、憂う人なのだ!!?) こうした俳優の両面性が削り取られた、黒一色の影が、舞台の上で動き回っていた。 「自分の声」を失った世界で、ただ何かの音が、耳元でざわついていた。 心を舞台の袖に、置いてきたのだろうか? (俳優が舞台に載せられなかった心を補うように、この演出家は文章を書き、評論を書いているようにおもう) 「人間」という言葉の重みは、日に日に、重くなる。 俳優は人間の専門家であり、演出家は俳優を育てる専門家である。 俳優は演出家から学んだことを、今度は、観客に向かって伝えるわけだ。 だから俳優は、観客が人間を学ぶ先生でもある。 ーーーーー 人間を育てる意思のない社会で、演劇が衰退していくのも、当然といっちゃ当然だ。 俳優も演出家も、社会の中で生きているのだから。 演出家も俳優を、手駒として使う。 会社の社長も、社員を、、学校も、先生を・・・・ これが当たり前の人間関係として、普通のこと、になってしまった。 病院に行く医者と患者の関係、学校の先生と生徒の関係、会社の上司と部下の関係、、、 たいていの場合、人間らしさが、欠如している。 その中で、人間でありつづけようとする意志が、試されている気がする。 ーーーーーーーーーー 駄文が続いてしまうが。 演劇の伝統といえば、日本には歌舞伎というものがある。 歌舞伎は昨日あった事件を1週間後には公演、みたいにして俳優のアドリブで成り立っていたようなところがある。 言葉が出てくる「基礎」になる身体、そして、心が出来上がっているから、あとは言葉を放つだけなのだった。 それは過去の話だ。 今の歌舞伎は?(博物館のショーケースの向こう側にいる感じだろう。実際、海外に「伝統」という商品を売る時のパッケージのひとつである。あ、ちなみに、地の文が、なんていうんだっけ、、舞台で動く俳優でなくて音曲専門の人たちが歌って、その音楽にのっかって俳優が動く、という形式は多分、浄瑠璃の影響を受けているんじゃないかと思う。ただの憶測だけどどうなんだろう。歌舞伎と浄瑠璃はライバルだったからね。たぶん、いろいろ学び合っていたのかな。) 僕らのチカラの一部であった「日本」は、すでに横たわって、死んでしまった。 今目の前にいて、不気味に振り返り、こちらを見ているのは、一体何者なのだろうか。 「君の名前は?」 「僕の名前は、○○だよ」 問:○○に入る言葉はなぁに?(二文字でなくてもいいです笑)
音の音(オトノネ)
この写真をみてふとああ、だいぶそっちの感覚と離れてしまったなとおもう。 ーーーーー この写真の中で、風景の中で、曲が始まる前、誰か一人が歌を歌い出したとしよう。 木遣りのように長く長く、遠くへ、心を渡り響かせる、声。 空にしみ、雲にしみ、人の心にも染み込んでいく。 歌い手は感情を揺さぶられる。 揺さぶられ続ければ、自分の声をコントロールできなくなる。(歌うというのは、他の創造的知的活動がそうであるように、とてつもなく感情的で、理知的な活動だ) もしそこに、歌詞がなければ、歌は続かなくなってしまうかもしれない。 感情がこみ上げて来て、言葉を失えば、それは慟哭、叫びになる。 歌詞はそれを整える。 整えて、道をつくり、声を導く。 規制、不自由、制約、決められたなにがしかによって、振る舞える自由がある。 ーーーーー 言葉の音は、決められているかもしれない(朝起きれば、おはようということになっている)。 けどそれを歌う歌い手の声、言葉の音の響き、音の音は、心を映し出していて、言葉の意味を超えて、いろんなものを伝えてくれる(今年はこんなことがありました。という心の反芻や、こんなことがありますようにと、心の祈りが伝わるかもしれない)。 人の心を表すのは、音ではなく、オトノネ。 オトノネに、耳を傾けてみませんか。
繰り返し同じことをはなす音楽に耳を傾けよう。小林秀雄の『考えるヒント』より「本居宣長の歌論」
「けいちゃん、きょうプール入ったの」「(言いたそうにしているから関心をしめすようにして、話題を変えない)ふーん、プールに入ったのね」「お水ぱしゃってなって、こわかったの」「(ここでリズムができたことを感じてくる)お水が怖かったのね」「けいちゃん、きょうプールはいったの」「ふんふん」「お水ぱしゃってなって、こわかったの」「こわかったんだね」(以上の同じやりとりが10分間に4度つづく) 2歳半のケイちゃんとお母さんの会話の記録。保育所帰り。 こわかったこと、楽しかったこと、悲しかったこと、なんといったらいいかわからないこと、とにかく話す。言葉は「経験を味わう」経験を助ける。1日でたくさんの出来事があるなかで、プールで怖かったことをはなしたけいちゃんにとって、水の経験はものすごい意味をもっている。心が動いた経験だ。たった一度の、一瞬の経験をどう整理したらいいかわからない。それを言葉にすることで、口にすることで、脳の中で「お水の経験、怖かった」が整理される。一つ整理して、また次の経験も整理されていく。子どもの声を聞くことは、子どもの声に心を開くことは、子どもの言葉のチカラ、心のチカラが育つことを助ける。
「自然の情は不安定な危険な無秩序なものだ。これを整えるのが歌である。悲しみに対して精神はその意識を、その言葉を求める。歌とは情を整える行為である。言葉にはその浄化作用がある。歌は情を整える順序即ち礼という形式である。」(『考えるヒント』小林秀雄)
日本の古典文学を研究した本居宣長の研究をした小林秀雄の言葉を思い出した。子どもにとって(人間にとって)、言葉とは歌であり、心を整えるために、心をつくるために、育てるために、そして味わうために使われる大義を忘れないようにしよう。 少し長いが、小林秀雄の『考えるヒント』の「言葉」より抜粋。 宣長は、「歌は言辞の道なり」と言う。歌は言葉の働きの根本の法則をおのずから明かしている、という意味である。彼が歌で言葉を第一とする理由は、歌は情を述べるもので、先ず情があって詞があるには違いないが、詞は求めて得るもの、情は求めずとも自然にあるもの、と考えたからだ。歌の発生を考えてみると、どんなに素朴な情が、どんなに素朴な詞に、おのずから至るように見えようとも、それはただ自然の事の成り行きではない。形のないものから形が、不安定なものから安定が求められているのだ。これは生きとし生ける物の努力であって、鶯は鶯、蛙は蛙で、その鳴声にも文がある。世間には、万物にはその理あって、風の音、水のひびきに至るまで、ことごとく声あるものは歌である、というような、歌について深く考えた振りをした説をなすものがあるが、浅薄な妄説である。自然は文を求めはしない。言って文あるのが、思うところをととのえるのが、歌だ。思うところをそのまま言うのは、歌ではない、ただの言葉だ。而も、そのただの言葉というものも、よく考えてみたまえ、人はただの言葉でも、決して思うところをそのまま言うものではない事に気が附くであろう。 自然の情は不安定な危険な無秩序なものだ。これをととのえるのが歌である。だが、言葉というもの自体に既にその働きがあるではないか。悲しみに対し、これをととのえようと、肉体が涙を求めるように、悲しみに対して、精神はその意識を、その言葉を求める。心乱れては歌はよめぬ。歌は妄念をしずめるものだ。だが、考えてみよ、諸君は心によって心をしずめる事が出来るか、と宣長は問う。言葉という形の手がかりを求めずしては、これはかなわぬ事である。悲しみ泣く声は、言葉とは言えず、歌とは言えまい。寧ろ一種の動作であるが、悲しみが切実になれば、この動作には、おのずから抑揚がつき、拍子がつくであろう。これが歌の調べの発生である、と宣長は考えている。この考えからすると、彼の歌論で好んで使われている、「おのつから」という言葉は、自然の動きにつかず離れず、これを純化するという意味合いに自然とネネなって来る。その点で、彼の歌論には、アリストテレスの「詩学」にあるカタルシスの考えと大変よく似た考えがあると言える。 歌の言葉は、知的理解を容れぬものだ、そんな事なら誰も言うが、歌が言葉の生活のうちで、どんな位置を占めているものかを反省するものは少い。歌人にも少い。だから歌は技芸の一流に堕して了ったのだ、と宣長は言うのである。歌は読んで意を知るものではない。歌は味うものである。似せ難い姿に吾れも似ようと、心のうちで努める事だ。ある情からある言葉が生れた、その働きに心のうちで従ってみようと努める事だ。これが宣長が好んで使った味うという言葉の意味だ。宣長が、言葉というものの働きについて開眼したのは契沖の仕事によってであるが、ある人が、ろくな歌も詠めなかった坊主に、歌道のわけがわかった筈はないと言ったに対し、歌を詠んでも歌の味を知らぬ者もあるし、歌の道の味をあまり深く知ったので、歌が詠めなかった人もあった、と宣長は答えた。何々風が正風と教えられれば、いくらでも歌が詠める歌人がある。これは意から詞に、宣長の言い方では、「飛ばんとする」愚かな人々である。人々には、歴史的な言葉の姿の、めいめいの似せようがある、今世の人には今世の人の似せようがある。それが歌人の個性である。勿論、宣長は、個性という言葉を用いていない。「歌道ばかりは、身一つにあることなり」と言った。
愚痴
かつて私が学校で先生をしていた時、別の先生から「授業をしなくちゃいけないよ」と言われたことがある。 この言葉ひとつで人は変わる。大切なものが見えなくなっていく。本当はそのとき、もっと別のコトバを聞きたかった。 コトバの選び方ひとつで、人はどうにでもなる。私は今、愚痴を言っている。 「どうして学校に行くの?」 と、ある人が聞いた。 「みんな行くからだよ」 「子どもの仕事なんだよ」 「勉強するためだよ」期待したのが悪かった。ムリゲーだ。 ウマイ先生はウマイことをいう。タバコを吸ってはいけないとタバコを吸っている先生が授業で教える時に、ウマイ言い逃れをしていたのだが、忘れた。その先生はとてもイイセンセイだった。 コトバではわかっても、違和感が残る。それは本当に、ちゃんとわかったとは言えないのだと私はおもう。 頭ではなるほど、納得するし分かった気になる。けどぜんぜんよくわからないでまるめこまれたように感じる。 ヘビをよく知っていても、本物のヘビを触ったことも出会ったこともないなら、わかったとはいえないのだと私はおもう。 そう考えると、本当のことを学ぶのは、とてもムズカシイことだと思える。ムリゲーだ。 さて?どうしたものか? 私は今、ぐちを言っている。 感情を装っても、論理を装っても、カッコイイ漢字を使っても、愚痴は愚痴だ。 どうしたものか?といっても別に困っているわけではないのだ。愚痴りたいのだ。 本当に自分をずっと困らせていたら、病んでしまう。 誰かに聞いてもらわないと溜まってしまう。だからこそ話す。ハナスとはよくできたことばで、離す、放す意味もあるようだ。愚かである。結構。愚かではいけないと誰が決めたのだ。 「どうして学校に行くの?」 「学校が君の家にやって来ないからだよ」 これがボクの知る限り、一番ちゃんとした返事だ。「問う」という行為にもいろんな働きがある。「話す」という心の動きは、その人のどんな気持ちを映しているんだろうか。 すぐになんとかしようとする、答えをだそうとするのはオトナの悪い癖かもしれない。私はいつも、反省している。 言葉には、声には、いろいろな力がある。 それをどう使うかは、人次第。
近代ではなく現代に必要なことを学ぶ学習塾
多くの言葉が失われている。
多くの心が失われている。
多くの体が失われている。
うすっぺらい言葉と薄っぺらい心と薄っぺらい体が溢れている。「ムカつく!」という言葉は「むかむかする」であって、相手を叩くようなバシッとした言葉ではなく、心の中で処理しきれない、もぞもぞしている段階の言葉、「胃がムカついている」という使い方をしていた。それが今では「イライラ」するになっているかもしれない。むかむかする経験わまだコントロールできている感じがするが、イライラとなると、もう棘が立って痛々しい。
教科書で学ぶ言葉は漢字二文字の堅苦しい学術用語だ。そんな言葉を学ぶよりも、もっと豊かに生きるために必要な語彙を学ばないのか。(もちろん、二字熟語を学ぶのは悪いことじゃないが、大切なものを忘れては困る)
豊かな言語環境(時間をかけて、自由に話せる)、豊かな心の環境(信頼できる人間関係)そして身体の環境(リラックスでき、自分の姿勢を保てる場所)が最上の勉強環境であって、それは塾でも学校でもない。
体の感覚を失えば感情も言葉も失う。
心や感情を失えば言葉も身体も失う。
言葉を失えば感情も身体も失う。
そのバランスをとるために、オトノネにきてくれたらいい。ヨガも教えるよ。(まじです)
やってみようよ。
【心ある言葉を届けるために】佐々木圭一『伝え方が9割(2)』
著者の佐々木圭一さんはこういっている。
1000回、今まで「ノー」と言われたものを「イエス」に変えることができたら人生変わると思いませんか?
こうした一言が、相手の心に残るコトバをつくるのだろう。 ただこの方法が「相手の行為」を引き出すための技術として使われるのがほとんど。 注意してほしい。 言葉を「問う」か、行為を「乞う」か。 相手の心のために使うかどうかは、自分次第だ。 この技術は、相手を支配するために使うこともできる。 心が大事。 そもそもコミュニケーションとは?が知りたい方は次の記事をどうぞ^^ コミュニケーションのための『経済学の船出-創発の海へ-』安冨歩【伝わらないのは自分のせいか?】 【学びのプロセス】先生によるいじめとは何か『生きる技法』『経済学の船出』安冨歩
3つのステップ
自分の頭の中をそのまま言葉にしない。 相手の頭の中を想像する。 相手のメリットと一致するお願いをつくる。 相手の頭の中を想像する、というところまでは誰にでも必要なこと。 これが長けている人は、その力を詐欺に使ったり、脅しに使うことだってできる。 昔、番組制作会社で働いていた時に、プロデューサーが言葉たくみに相手を「取り込む」会話をしていたことを思い出す。「人」を取り合う時代になった。そこに「心」があるのだろうか。 心が大事。 「お金」の世界で「心」を叫ぶ。
「イエス」に変える7つの切り口
1相手の好きなこと(自分へのメリット)
(特別なものであることを告げる) 「最後の一点で在庫がない」「こちら人気で、最後の一着なんです」 「魚しかのこっておりません」「ハーブをまぶし、ミネラル豊富な天然の岩塩でおいいしくソテーした白身魚か、ただのビーフでございます」 「山田サツマ」「生キャラメルいも」 「高価格のハイスペックモデルをつくりませんか?」「御社のフラッグシップモデルをつくりませんか?」
2嫌いなこと回避(自分へのメリット)
「展示品に触らないで」「薬品が塗ってあるので、触らないで」 「トイレのふたを閉めて」「トイレの蓋を閉めないと、金運が下がるってよ」 「外尾の客様のご迷惑になるので、お子様を席に着かせていただけませんか?」 「アツアツの料理を運んでおります。ぶつかってこぼすと、お子様に大変な火傷をさせてしまいます。席に戻るようお伝えいただけませんか?」 「万引きは犯罪です」「みなさんのおかげで、万引き犯を捕まえることができました。ご協力ありがとうございます」
3選択の自由(意思決定を簡易化)
「デザートはいかがですか?」「デザートはマンゴープリンか、抹茶アイスがありまs。どちらかいかがですか?」 「靴を履いて」「赤い靴と、青い靴どっちがい?」 「打ち合わせに出席してください」「打ち合わせのお弁当が選べます。夜勤行く弁当か、カツ丼、どちらがいいですか」
4認められたい欲(承認欲)
「窓くらいふいいて!私だって忙しいんだから」 「あなただとたかいとこまで手が届くから、窓がピカピカになるのようね。お願いできない?」 「それくらいできなくてどうするの」「大丈夫、鈴木君なら、絶対できるよ!鈴木くんの言葉で言ってくれることを、お客様も望んでいるよ」 「危ないから、手を繋いで」「私一人だと不安だから、手を繋いで一緒に渡ってくれない?」 「ごめん、仕事が入っちゃって。今日はキャンセルさせて」「ごめん、仕事が入っちゃって。でも、もっと会いたくなっちゃった」
5あなた限定(承認欲)
「飲みに行かない?」「市川君が来ないと盛り上がらないから、市川君だけには来て欲しいんだ 「こちら無料で交換させていただきます」「ご愛用卯いただいている佐々木さんだけには、こちらで無料で交換させていただkます」 「ごめん。でも俺だって、好きで仕事ばかりしてる訳じゃないし」「ごめん。でも誰よりも裕子にだけはそんなふうに思わせたくなかった。ごめんな。自分が情けないよ」
6チームワーク化(承認欲)
「飲み会の幹事やって」「いっしょに、飲み会の幹事やらない?」 「車道にでないいでください!交通ルールを守ってください!」「おまわりさんもみなさんのチームメートです。どうかチームメートの言うことにも耳を傾けてください」 「お父さん、運動しなよ」「夜に走ろうと思うんだけど、私ひとりだと怖いから、いっしょに走ってくれない?」
7感謝(承認欲)
「この机、移動して」「この机、移動して。ありがとうね!」 「すみません、値引きはできないんです」「私の真心をプラスさせていただくことで、なんとかならないでしょうか?ありがとうございます」 「私のことはキラでも、AKBのことは嫌いにならないでください!」 「髪の毛が後退しているのではない。私が前進していいるのである」 「人生はクローズアップで見れば悲劇、ロングショットで見れば喜劇だ」 「意味がなさそうなことに、案外と意味があるのだ」
「強いコトバ」をつくる8つの技術
1サプライズ法
「ちょ!待てよ!」 「全米が驚愕した!」 「アッと驚く為五郎」 「おお!心の友よ」 「お、ねだん以上」 「海賊王におれはなる!!!!!」 「え!わずか30分で自転車デビュー」 「わっ、大きなたこ焼き」
2ギャップ法
「夢だけど夢じゃなかった」 「最高で金、最低でも金」 「天は人の上に人を造らず。人の下に人を造らず」 「コクがあるのに、キレがある」 「美女と野獣」 「海賊になったほうが面白い」「海軍に入るくらいなら、海賊になったほうが面白い」 「倍返しだ!」「やられたら、やり返す。倍返しだ!」 「皿が小さく見える、大きなたこ焼き」 マザーテレサの言葉 人は理不尽で、自分勝手なことをします。 それでも、許しなさい。 あなたが親切にすると、誰かは裏があると疑うでしょう。 それでも、親切にしなさい。 あなたが成功すると、裏切られ、敵が現れるでしょう。 それでも、成功しなさい。 あなたが正直であると、誰かが騙そうとするでしょう。 それでも、正直でいなさい。 あなたが時間をかけてつくったものを、誰かが一晩でこわすでしょう。 それでも、つくり続けなさい。 あなたが安らぎと幸せを見つけると、誰かが妬むでしょう。 それでも幸せでいなさい。 今日善いことをしても、明日には忘れられるでしょう。 それでも善いことをしなさい。 何を与えても、充分ではないと言われるでしょう。 それでも与えなさい。
3赤裸々法
「超気持ちいい!」 「好きだ。気がおかしくなるほど惚れいる」 「かーんち、セックスしよ!」 「こんなにしびれたゲームはないよ。嬉しいねぇ。本当に涙がでちゃうよ」 「夢は考え出すものではない、心の中から湧き出すものだ」 「頭の中が真っ白になるくらい、おいしい」 「緊張しています」「緊張しています。喉も乾いていますし、手に汗もかいています。自分ノン体にこんなに毛穴があったんだ!と驚いています」 「感動的なプレゼンでした。変更箇所は特にないです」「泣けた…。そのままでいい。見ているクラスの仲間も、そう思っているはずだ」 「息が止まるほど、大きなたこ焼き」
4リピート法
「あわてない、あわてない。一休み、一休み」 「私には夢がある…私には夢がある…」 「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ」 「おおロミオ。、ロミオ!あなたはなぜロミオなの?」 「コマネチ!コマネチ!」 「じぇじぇじぇ」 「隣のトトロトトロ」 「大きな、とっても大きなたこ焼き」
5クライマックス法
「ここ、テストに出ます。三角形の面積はー」 「よくやく守らなければいけないものができた。君だ」 「選択肢は二つだけ。必死に生きるか。必死に死ぬか」 「ズバリ答えよう。金と名誉を捨てたら、人間の生命が残るんだ」 「ひとつ、よろしいでしょうか?」 「この部分を聞くだけでも、来た甲斐があります。例題をみてみましょう」 「ここから撮影禁止です。大きなたこ焼き」
6ナンバー法
「ひとつぶ300メートル」 「伝え方が9割」 「銀河鉄道999」 「101匹わんちゃん」 「3分クッキング」 「天才はわずかなひらめきと、膨大な努力である」「天才は1%のひらめきと、99%の努力である」 「300%大きなたこ焼き」
7合体法
「妖怪ウォッチ」 「ゆるキャラ」 「カルピスウォーター」 「クールビズ」 「壁ドン」 「子供店長」 「消極的な男子」「奥手な男子」「草食男子」 「結婚相手を探しています」「婚活しています」 「野球ボールたこ焼き」 「重量級たこ焼き」
8頂上法
「一番搾り」 「お菓子のホームラン王」 「トップ」 「地域No.1」 「店長イチオシ」 「とっても受けたい授業」「世界一受けたい授業」 「原宿で一番、大きなたこ焼き」
言葉を「問う」か、行為を「乞う」か。
言葉の内実とは何か。 「言葉はいろいろなことを表現する。その内容は何か。実態は何か。」ということだ。 言葉に人間のような姿形があるなら、いったいどのようにその人は暮らしているか、という問いを自問自答してみる。 ———- 僕は日本の精神文化は「源氏物語」と「浄瑠璃」に集約できるとおもう。 それは日本人の「感情」の表れであり表現だ。 どちらの作品にも「日本仏教」が付いて回るが、とにかくこれらの作品には「泣く」「怒る」という感情がよくよく表れている。官能もよくよく、含んでいる。世界中でもコンビニでポルノを売っている国など、日本の他にない(あるの?)。 それを例えばキリスト教を文化にもつ人たちに求めるなら? 長い間、聖書の物語が彼らの精神活動を支えていた。 聖書を紐解き、聖書の中に答えを見出そうとした。 そこで「解釈」のための論理学が精神の重要な部分となった(元をたどればポリス時代にその素地ができていた)と僕は考える。 海外の人と話をしていると、日本ではほとんど、ほとんど聞かない言葉をよく使っていることに気がつく。 「Why」という言葉だ。 この言葉は相手の論理、思考、考えを問う言葉。相手を解釈・理解しようとする言葉。 (日本人なら「どうして?」「なぜ?」を使う代わりに、驚きや拒絶、好き嫌いなどの主観的な感情を表現するだろう。) 日本人が「why」を使う状況は、、、大きな人間が小さな人間に問いかける時くらいだろうか。日本の大きな人間同士がこの言葉を使うのだろうか。。。 これは僕の印象だ。 人が誰かに助けを求める、お願いをする姿を思い描いてみてほしい。 どんな状況? どんな言葉で? 僕は日本の農民が苦しんでいる、困っている状況を思ってみた。そこでその人は「どうか〇〇してください」と誰かにお願いするだろう。「行動」を「乞う」わけだ。「わたしたちの村は飢饉でもうこれこれこうで」と「感情」に訴えかける。 西洋の人が困っている状況でお願いするイメージを描いてみた。教会で人が神に祈りを捧げているイメージがでた。その人はこういう。「神様、私は、どうしたらいいでしょうか?」問う。「行動」するのは自分であり、「乞う」のではなく、「問う」。 人の感情に訴え行動を「乞う」日本。 神の理性に訴え言葉を「問う」西洋。 対比的にみると、僕はこうなんじゃないかとおもう。 今の内閣総理大臣がいろんな批判を浴びせられているが、「問い」に対する誠実さがない、「問い」を理解できていない、「問い」かけられているという認識すらない、「問う」という言葉の価値がないのは内閣総理大臣が変わればよいのではない。批判は内閣総理大臣という個人に浴びせられるものではない。少なくとも今の「問わせない」教育システムをつくりだした自民公明党という組織への批判であるべきだし、根本的には、この日本人の「乞う」精神文化、「問わせない」しくみを変えようとしない教育への批判であるべきではないのか。言葉の内実は歴史につながっており、それほどまでに深く人の意識を規定している。 しかしこの時代遅れの精神文化と呼ぶべきものは、本当に変えるべきなんだろうか?なにしろ相手は「歴史」である。 むしろ、この歴史に抗うことなく、ただただ「感情」と「行為」レベルの動物的な共産体制を保持して行くのも「自然」だろう。選挙に参加するということは歴史の流れに自分をどう位置付けるか、という大きな仕事だとつくづく思う。 ーーーーーー こちらは
富山市の個別×子別指導学習塾オトノネ堀川教室
の宣伝です!クリックするとHPがでてきます( ˶˙ᵕ˙˶ ) ーーーーーー 日本人が「言葉」を「解釈」し始め(ようとし)たのはいつか。 明治になって、新しい言葉を吸収しようとした時からではないか。そうして文豪たちは、西洋と日本の間を行き来しながら、新しい言葉の文化を作ろうとした。 現在、若者たちが、大人たちが、自分が使っている、触れている言葉、心を育てている言葉はどんな言葉か。 「源氏物語」や「浄瑠璃」の世界とどう違うか、少し立ち止まって、「問う」のも一興だ。 かの有名な言語学者が言った通り、言葉は意識そのものである。意識の道具ではない。意識そのものである。 言語環境は、その人の心をつくる。 保育所、幼稚園や学校で殺伐とした言語に日常的に囲まれている子どもたちの心が作る次の世の中は、どうなっているんだろう。 ーーーーー この文章を書きながら、「問う」ことはすなわち考えることだとおもう。 「問う」ことで、心が満たされて行くように僕は感じている。(おとのねさんは学者らしい) 「乞う」ことで満たされるものは何か? いくら食べても飽くことのない獣であるように思ってしまうのは私だけだろうか。 「問う」ことで満たされる心も、次の「問い」を飽くなきまでに求めるのだろうけれど。(こういう逆説的な、矛盾するような文章に楽しみを感じる人はオトノネの門をたたくと面白いのかもしれない)
C・S・ルイスが「子どもの本の書き方3つ」という評論の中で、児童文学のよくない書き方の1つとして、自分の生まれてきた世界には死や暴力や負傷や冒険、英雄的行為や卑怯さ、美や悪が並存するのだということを子供に知らせてはいけない、という見解に基づくものをあげている。また、子どもの欲するものだけを与えようとする書き方も戒められている。(略)もし子どもたちのことばでルイスの言葉を書き換えるとしたら次のようになるだろう。「大人のみなさん、あなたがたが勝手に頭で考えたものを私たちに与えないでください。ユートピアもモラルも、私たちが自分でつくるからこそ、すばらしいものができるのです。私たちにそれをつくる場と自由な時間をください」と。それにしても、ルイスがこのような忠告をしなければならなかった理由があったのだろうか。たしかに、子供達をとりまく大人たちの考え方の中にこのような忠告を必要とするような状況がある。(『子どもとファンタジー-絵本による子どもの「自己」の発見-』守屋慶子 p.54)
子どもたちは自分で「問う」ことで世界を作って行く。 人の顔色を見て世の中を渡る「行為」レベルの処世術ではなく、「心」のレベルで人と関われるようになってほしいと、僕はおもっている。 だってそっちの方が、僕は人が人らしく輝けるとおもっているから。 日本人は逆に、「問われる」ことで、輝きを失っているのが現状だろうけれど。 うーん、どうしようかな。 目の輝きが問われる前に、目をつぶって念仏を唱えるのが、日本人の言葉の内実、意識なのかもしれない。 ーーーー 言葉にチカラを。 これがオトノネのテーマだと、「問う」ことで僕は発見した。 「問う」ことは学びのメタスキルだ。 — ところでおとのねさんはHPやフェイスブック、ブログでいろいろな「問い」を読者に伝えてきただろうか。 「情報」は「問い」ではない。 オトノネは「問う」ことを続けていこうとおもっている。 たとえそれが「わかりにくい」HPだったとしても? 「乞う」HPも作って両方の人がオトノネに来てくれるようにしようかとおもった。 二本立て! オトノネはHPから、心を大事にしようとおもいます。 お腹すいた。
引き金を引く
「そこに立って、正面を向いて、引き金を引きなさい」 「それって、“人を殺せ”ということですか?」 ・・・ 具体的な行為の連続が、抽象的な言葉になるとき、真実があぶりだされる。 ナチスの誰かが、「いかに効率的にユダヤ人を輸送するか」を考えた。 その人は、有罪だったか、無罪だったか。 名前は忘れた。 収容所で人が殺されることは考えていない。 とにかくいかに効率的に「人」を運ぶかを考えただけだ。 それだけだ。 「こうする、ああする」と言われたことをこなしながら、 引き金を引いた後に血を流す誰かの姿を思い浮かべることができるだろうか。 誰かの魂を殺してはいないだろうか。
『思考のレッスン』丸谷才一より「生の言葉」
現在でも、日本の文学にはなんとなくいやな感じの重りをつけないと、軽薄である、文学的 でないと見るような風潮がある。それがどこからきたのかが、僕はあれでかなりわかったような気がするんです。そもそも近代日本文学は不機嫌から始まったわけだから。 うん、それで思い出すことがあります。谷崎松子さんが「谷崎は何かいやなことがあると、 『不愉快だ』と言いました。何もそんな大げさな言葉使わなくていいときなのに、そう言いま した」と思い出話をなさった。あれこそ不機嫌の時代の後遺症で、それが谷崎さんのようなあ まり不機嫌でない人にも残ってるんですね。でも『不愉快の時代』じゃ、題にならないね (笑)。 不思議なもので、西洋の、たとえば世紀末文学などでも、かなりいやになるようなことを扱 っている。しかし、その扱い方がちょっと違うんだねえ。中村真一郎さんにそのことを聞いた ら、やっぱり近代日本文学は、言葉の扱い方が生なんじゃないかというんだけどね。 生で思い出しました。ここでちょっと話が飛びます。 いつだったか歌舞伎の勘九郎さんと、彼が『森の石松』だったか、テレビの撮影を終えた直 後に、一緒に飲んだことがあるんです。そのとき、勘九郎さんが、こんなことを言うんだねえ。 「先生ね、テレビっていうのは生のセリフでしょう。あれをやると喉を傷めるんです。歌舞伎 だと喉を傷めないんです」 「え? その生のセリフってどんなやつ?」って聞いたら、 「たとえば、『バカ野郎!』なんていうセリフです。あれは歌舞伎にはないセリフです」と。 なるほどと思った。 |レッスン1に、レトリックがない文明という話がでましたが、それと関連しそうですね。 丸谷 そうそう。様式がある文学ならば、たとえいやなことを書いても、いやな感じの迫り方 が違うわけ。ところが近代日本文学は様式がないから、生な不快感になっちゃうんだね。 そういう生な言葉を避けようとして、石川淳さんは江戸に学んで、あの文体をつくったんで しょうね。 淳さんのあの文体のことを、女の小説家が、長唄か清元の詞章みたいにずらずら続いて行く と評したそうだけれど、これは森鴎外『そめちがへ』の弟分みたいなあの文章の、うまい形容 であるだけじゃなくて、出所をかなり言いあててますね。そして長唄や清元のかなり川上のと ころにはたぶん『曾我物語』がありそうな気がします。いつか僕が『曾我物語』を読んでます と言ったら、 「文章がいいでしょう」 と一言だけだったけれど弾んだ返事が返ってきたことがありました。石川淳と『曾我』とい うのはいい主題だと思いますよ。 (『思考のレッスン』丸谷才一 p.94)
文化って何だろう
日本の文化ってなんだろう。 今日、インドネシアのイベントに参加してマカッサルの人と話した。日本のひきこもり現象とカウンセリングによる治療の話した。するとそのはなしは彼女もしっていたようで、「インドネシアだったらみんな友達いるし、喋れるからね。日本でカウンセラーにお金を払ってはなしを聞いてもらうなんていったら、私の(インドネシアの)友達はゲラゲラわらっていたよ」と。日本が紹介できる文化、ひきこもり。 日本の文化ってなんだろう。 お茶?武士道?武芸・芸能と文化は同じだろうか。 日本の文化を紹介して下さいといわれたら、なんといいますか。 アニメ、マンガ、オタク。なるほど、それも文化といえるかどうか。 語源を頼りにものを考えてみると。 cultureは動詞cultivateの名詞だから。育てたもの、育てられたもの、もしくは育てるという行為そのものを表しそうだ。 育てたものは風土だとしてみよう。 育てられたものは何か。 まさしく、日本人そのものだ。 僕はインドネシアにいったとき、Abdiが「インドネシアの人が日本の文化を知りたいというとき、彼らは、日本人がどんな人間かを知りたいんです」と教えてくれたのを思い出した。これを頼りに考えると。 日本の文化=日本人という人間 だとしたら、アニメやマンガ、武士道やらは、文化の産物といえる。文化そのものではない。日本人がそれをつくったわけだ。 例えば、Abdiは勤勉さ、規律正しさを日本の文化だとした。「働きすぎるのは日本の文化の産物だ」というと、どこかおかしい気がする。 日本人がそもそも文化を語るというのが、どこか居心地が悪い。僕自身、文化というものを捉えそこねている。 アニメを作り出した日本人のこころは? オタクを作り出した日本人のこころは? お茶は?武士道は? そう思うと、僕たちは文化という言葉も、cultureの意味ではなく、日本という島国の中だけで通じる新しい言葉として使っていることになる。言葉の響きが、空虚だ。 日本の文化ってなに?寿司? 生ものを食べるその歴史がわからなければ、文化をつまり人を育ててきたなにがしかを知らなければ、寿司を食べるという行いを生み出したそのものをわかったことにはならない。僕は、世界で生肉を食べる文化の分布を調べたら、きっと新しいつながりが、それこそ本当に今までとは違う文化交流ができるのではないかとおもっている。 例えば、日本の食べ物は、西は味が薄く、東は味が濃いという。どうしてか、考えてみたらいい。 それが日本人を育ててきたものを知るというもので、それが日本人を知ることになるかもしれない。 極楽浄土にいければいい、という人が多いのは、いうまでもないが。 この言葉の意味の空虚さが文化産物だとすれば、日本の文化のひとつには、言葉の意味よりも、言葉をつかう状況で理解し、行動を決めてきた日本人の姿が、こころがおもいうかぶ。「この状況ではあの言葉をつかい」「あの状況ではこの言葉をつかい」という言葉の体系。マカッサルの彼女が言っていた。マカッサル人は、ものをはっきり言い合ってコミュニケーションする。なぜかといえば、彼らは航海しながら人と商売をすることがナリワイだったから。全部ちゃんと言葉にするんだと。一方で、ジャワの人は農民が多いから、言葉以外の状況に頼ることも多々あると。農業大国だったから?じゃぁどうして今の、農村部でもない都会部でも人は農村と同じコミュニケーションをするのか。実際どうなのか。誰か、研究者の人、調べてくれませんか?この研究はうまくいかないだろう。自分のことはうまくみえないことがおおい。同じことはキリスト教の文化に浸ってきた西欧の国にもいえる。気がつかない。そとからみれば「いやいやどうかんがえてもちがうでしょう」ということも、外の目線から、外からの言葉がけによって気がつくことがある。これこそ「異文化交流」であり、「自己欺瞞」を改める、困難な仕事であるようにおもう。異文化交流は、つらいことなのだ。 こころがだいじ
教育と福祉の架け橋がない。お母さんが学ぶべき子どもの発達のこと、現代の社会のこと、現代の育児本に書かれていないこと。
嗚呼情けない。 情けないけど私もその一部かもしれない。 あまりにも言葉が使えない小学生、中学生、そもそもコミュニケーションができない子が多い。 そこで絵本でも読もうかとおもったが(そもそも文字を読むことすら面倒臭い子と何ができるだろう) ふと思い出した。 アイヌ文化では、子どもに神話を聞かせる。 その神話の、おもしろさといったら!そしてその長さといったら! こうやって、生活の中に、言葉があった。 現代は? 物語をゆっくり「聞く」時間があるだろうか。 学校の先生が喋っているのは暗号だし、家に帰ったら「宿題した?」という一問一答形式。 どう考えても、現代人は昔の人よりも言葉の力がなくなっている。 AI時代、人間に求められるのは言葉の力であるという。 もうあまりにも悲しすぎて、私は教師を続けられそうにない、かもしれない。 あまりにも、日本語が、通じない。 時代が変わって、一人のお母さんが子供をたくさん育てられなくなった。 試行錯誤ができなくなった。だから学ばなくてはならない。 マタニティースクール、オトノネをつくろうかとおもう。 学校じゃなくて、ただ一緒にやるだけなんですが!
自分の中で対話する『思考のレッスン』丸谷才一
丸谷 前回は文章のさまざまなテクニックについてお話ししました。今回は、ものを書く上で の心構えから始めましょう。 当り前ですが、ものを書くというのは、何か言いたいことがあるから書くわけですね。その せいで、つい自分の思いのたけをひたむきに述べる、訴えるという書き方になりがちです。でも、どうもこういう書き方はあまりうまく行かない。 趣味の問題かもしれないけれど、僕はむしろ「対話的な気持で書く」というのが書き方のコ ツだと思う。自分の内部に甲乙二人がいて、その両者がいろんなことを語り合う。ああでもな い、こうでもないと議論をして、考えを深めたり新しい発見をしたりする。そういう気持で考 えた上で、文章にまとめるとうまく行くような気がします。 以前、この『思考のレッスン』でバフチンのポリフォニック理論について話しました。二人 の人間の対話に似た発想によって、世界が立体的になって、話が前へ進んで行く。これは文章 を書く上でも同じで、対話的な書き方によってポリフォニックな効果が生れるんですね。 | テニスのラリーにたとえるとわかりやすいかもしれません。テニスの試合で甲と乙が戦う。 もちろん二人は勝敗を争うわけだけれど、ゲームを成立させ、続行させるという点では協力し あっているわけですね。好ラリーの応酬があれば、試合はますます盛り上がる。その呼吸で文 章も書いて行くとうまく行くような気がするんです。 たとえば景色を描写するときも、対話的に書くことで平板な描写を避けることができます。 甲「おや、あそこに高い山がある」 乙「右の山のほうがもっと高いね」 「こんなきれいな景色を見るのは初めてだ」 乙「どこそこの景色にちょっと似てるね」 そんなやりとりを頭の中でおこなった上で、それを文章にまとめる。もちろん論文的な文章 の場合はもっと具合がいい。 甲「PはQではない」 乙「Qである場合もあるけれど」 甲「それはこれこれの理由で無視してかまわないでしょう。ところがPはRである」 乙「まあ、そう言ってもいいだろうな。でも、PがRである理由は?」 甲「SおよびT」 乙 「Uもあるんじゃないか」 こういった調子で論理を展開しながら書いて行く。 ここで注意。僕は対話体で書けといっているんじゃないんですよ。話は自分の頭の中でやる のであって、文章はあくまで普通に書く。 よく二人の人物の議論を対話体で書く人がいますね。 「やあ、いらっしゃい」 「久しぶりに君と議論をしようと思ってきたんだ」 「そういえば、いい酒がある」…… なんて(笑)。 あれはうまく行くとおもしろいんだが、むずかしいんだなあ。なぜむずかしいかというと、 冗長になりがちだからです。それに頻繁に改行しなくちゃならないから、スペースがなくなる。 考えるときには対話的に考える、しかしそれを書くときには、普通の文章の書き方で書く。そ れがいいと思う。 例文をあげます。モーツァルトのピアノ・コンチェルトでは、ピアノは名人芸の発揮のためにあるのではな くて、管弦楽と相対し、一つに組みあって、それまでの音楽の歴史にかつてなかった一つの 新しい音響の殿堂をつくりあげたのである。ピアノは全体の中の一員なのだ。ただし、この 楽器は、ほかの楽器とちがい、それだけでオーケストラの全体と張りあってみることもでき るし、そういう量的な次元だけでなくて、何個もの音からなる和音を出すことができるとか、 それだけで旋律と同時に伴奏もやれるとか、音質上の特性をもっているとか、そういったい ろいろな点から、ちょうど歌い手の中でのプリマ・ドンナのような役割を消化することも可 能だったわけである。こういうことは、誰も知っている。 しかし、その逆の面、つまり、一方で独奏のピアノが鳴らされているときに、オーケスト ラの中でどんなことが行なわれているかについても、これまで、人びとはとかくそれが値す るだけの注意を払わずにすごしてきた恐れがあるのである。というのは……吉田秀和さんの『モーツァルト』のなかの文章です。うまく書けてますね。ごく自然に読め て、しかも論理のはこびがわかりやすい。その理由は、この文章が、対話的な構成でつくられ ているからですね。 まず「ピアノは名人藝を発揮する楽器だ」というよくある見方に対して、「そうではなくて」 と反論し、「全体の中の一員なのだ」と言う。 次に「ただし」で、また別の対話がはじまります。ピアノはどういう楽器なのか。 「ピアノはオーケストラ全体と張り合うこともできる」 「いや、そういう量的な問題ではなくて、和音を出すことができるのが特色なのだ」 「旋律と同時に伴奏もやれるしね」 「まるでプリマ・ドンナのような役割だね」 みんなでピアノについて討論でもしているように、さまざまな意見が出される。反論があり、 同意があり、その中から新しい見方が導かれる。つまりこの文章は、極めて劇的な構造を持っ ているんですね。だからこそ、論理の展開を追うのが楽しいし、わかりやすい。 僕が文章を書くとき対話的に考えると具合がいいと思うようになったのは、山崎正和さんと 対談をやったお蔭です。なにしろたくさんやったからね (笑)。 ――なんと通算百十回の大記録です (笑)。 丸谷 それだけやれば気がつくのは当り前かもしれない(笑)。山崎さんと対談をやりながら、 「ああこういうふうに二人が互いに批判したり同感したりして論じて行くのと同じことを、実 は自分は普段から頭のなかでやってるんだなあ」と意識したわけです。 そういう自分の心のなかの対話を、登場人物を二人出すのではなくて、一人称の文章のなかでやればいい。そう思って僕は書いてきました。 |対話的な気持で書くという心得は、歌仙の方法で書くというのと似てますね。 丸谷なるほど。どちらも他者がいるわけだ。 (『思考のレッスン』丸谷才一p.262)
誰にでもできる、あんまりみんなしない、ナラティブアプローチ
カウンセリングの手法に「ナラティブ」というものがある。 「喋る」という意味だ。 ナレーションのことだ。 自分のことを喋る、話す、ということで心が整理できてくる。 そうすると新しいものが入って来る。 心が落ち着いて来る。 頭の中で考えているだけでは、本当にわからない。 自分自身を語って、自分の物語をつくって、そこにはいっていく。 本当に自分が感じているものを、「話す」ことによって体験する。 そういう手法だ。 手法といっても、昔からやっていたもので、新しいことはない。 困っている人にカウンセラーは耳を傾ける。 営利型の塾ではその子の成長を願うよりも「やさしく」するための耳を傾ける。 マニュアルの一部だ。 カウンセリングの経験がなくても、一対一で話を聞いてくれるアルバイトがいるだけでも、子供は嬉しいものだ。 これからの教育業界は「やさしさ」が流行る。 誰もが持っていて、誰もが必要としているものだから。
「名詞」の抽象性
一番抽象的なのは、「固有名詞」だろう。 君の名前はなんですか? それはつまり「私って何者」ということですが。 それを「私は何歳で、どこどこ生まれで、どこどこ高校出身(?????)で」という言葉で済ませてしまうかどうか。 ーーーー かつて、障害者ということばは英語で disabled personsだったという。 それが今は障害を持った人という意味でpersons with disabilityになったという。 person firstという運動が、どこかの国で起きたらしい。 (日本では障害者を「障がい者」と書き表したり、健常児を「定型発達児」というようになってきたらしい。「障がい者」は音が変わっていないから、おとのねさんとしてはいただけない) 名詞は、形容詞や動詞を含んだ文とちがい簡素で心に残りやすい文、抽象化され、わけがわからなくなるから、使用には注意が必要だ。 「全国学力テストでいつも上位である」とか「教育県だから」という言葉を聞いたら、こいつは怪しいとおもってもいい。 全国学力テストが何なのか、ほとんどの人はわかっていない。 富山県は《教育県》か?(その1)全国学力テストの見方(情報リテラシーを身につけよう) メディアも、メディアの都合があって、その本質を記事にしない(メディアにはメディアの都合がある) ーーーーーー 多くの文字が名詞にされる世の中である。 それが指し示していることがわからなくなっている世の中だ。 それで人の心がすり減っていることがよくある。 「あなたは◯◯だから」「それは◯◯でしょう」 対話に時間をかける心もなく、ゆとりなく、せわしなく日々「あれやれこれやれ」で過ごすのが、学校でも、会社でも普通になっている。 (そうでない会社を探してみてほしい) ーーーー 「学校って何?」「高校生って、こんなものなの?」「命ってなんだっけ?」 命は大切だ、という。では、本当に大切にできていますか? あなたは、あなたの命を大切にできていますか? あなたの心と、頭(言葉)が、遠く離れていませんか? 体が、トラウマが、癖が、今までに過ごしてきた過去が、あなたをそうさせているだけかもしれません。 呪いのように「名詞」がついてまわります。 「お母さん」として正しく生きようとしている人。 「高校生」として正しく生きようとしている人。 「会社員」として正しく生きようとしている人。 いろんな人がいる。 「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』) いろんなきっかけがある。 とにかく、名詞は、大切。 算数ができないのはLDかスローラーンなだけか、それとも経験不足か。
個別化とは何か『クシュラの奇跡ー140冊の絵本との日々』

生まれつき障害を持って生まれた子。クシュラ。どんな障害かはさておき、両親の染色体の異常が組み合わさって先天的に障害を持って生まれた子の物語。
本人の個人的な欲求と、それらを満たしてやる立場にある周囲の大人たちがとった手段とが、本に対するクシュラの姿勢を育てた、ということである。クシュラが絵よりも活字に強い関心を持つのは、明るい背景に印刷された輪郭のはっきりした活字は、協調性の弱い目にも鮮明な像を結ぶから、と考えるほかなさそうである。クシュラが平均的な子どもと比べて、幼い頃から記号になみなみならぬい関心をいだいていたことは確かである。(p44)
詳しくは本を読んで欲しい。。。とにかく、目が弱く、体も弱く、「生きてるの?大丈夫なの?いつ死んじゃうの?」という状態の子に、お母さんが文字通り四六時中、つきそった。何をするときも、抱いて過ごした。
クシュラに外界を見せたり体験させたりするためには、大人の腕で支えてやり、助けてやらねばならないようだった。(p27)
母親は一番肝心なことをした。その子にとって大切なことをした。そして一緒に過ごす時間をどうするか?なにせ長い1日だ。起きるかと思えば寝て、寝るかと思えば起きる。首はなかなかすわらない。腕も動かせない。そんなクシュラを安心させ、クシュラが世界に目を向ける機会を奪わないために、お母さんはクシュラを文字通り支え続けた。で、家にあった絵本を読むことにした(クシュラの家では日常的に絵本を読む文化があった)。その時、クシュラがなみなみならぬ関心を抱いたことを母親は感じた。見逃さなかった。クシュラは目がほとんど見えない。焦点を合わせるのにも時間がかかる。そんなクシュラの暮らしの中で、絵本は世界の窓口としてクシュラの前に大きく開けていたのだ。
発達のテストをしてももちろん、点数がでないクシュラであった。17ヶ月の段階でおもちゃを押したり引いたり、上手にあるくこともできなかった。粗大運動はできない。しかし、だ!腕もろくに使えないのに、絵本をめくる動作はできた(微細運動)。また、笛を吹くとかガラガラを振るといった課題をさせたところ、「集中力と努力」をもってしたという。さらに、言語の項目に関しては、17ヶ月の通常の発達段階に位置していると診断された。
このようなわけで、クシュラは絵本を読み始めた8ヶ月のときから、個別化されて育った。とことん本気になれる世界を、たまたまではあったが大人から与えられ、大人はそのことに気がつき、クシュラを世界に繋げ続けた。施設に預けていたとしたら、誰がクシュラをちゃんと〈見つけて〉くれただろうか?
健常児が育ちながら、たとえば子どもの時から「命」に関心があって、生き物係や保健係をしてきた子が医療の道に進むように、生まれてきた段階で、小さい頃の経験で、指向性が決まっているといってもいいかもしれない。大人は子どもをよくみて、その指向性を阻むことなく、肯定して、育てていくこと。(ある本には、規制されてつぶれるようなものは個性ではないと書いてあるが、本当にそうだろうか)クシュラの物語は、大人が子供をちゃんとみることで、子供が育っていく物語だと僕は思った。
僕自身、作曲家としてのチカラ、言葉への、人間へのオモイがある人間だと発見して、育ててくれたのは韓国で出会ったイギリスの作曲家だった。みながみな、自分を一人で発見していけるわけではない。誰かが〈見つけて〉あげなかったら、出会えない自分がいる。僕を見つけてくれた演出家は、僕が作曲したマクベスの劇ができあがった後で、笑顔で、英語でこう言った。「I found him!」僕は彼をみつけた、のだと。彼は、演出家の仕事は、俳優のチカラを見つけてあげることだと言っていた。大人の大切な仕事は、子供をちゃんとみて、見つけてあげることなのかもしれない。(自分で見つけられる子どもももちろんいるだろうが)。少なからず、子供はそれに励まされる。
こうして絵本を通じて言葉と出会い、お母さんに支えてもらい、肉体的な発達は遅れていたクシュラであるが、
おどろいたことに、クシュラはでんぐり返りができた。もっともばねが弱いために、返ったあとすわった姿勢はとれなかった。この特技は、当時プレイセンターで子どもたちの絶賛を浴びた。その子たちの大半が、肉体的にはクシュラより恵まれていたのに、気が弱くて、でんぐり返りに挑戦できなかったのである。(p.81)
扉の前に立っているとき、その子は笑っているだろう。大人の顔をしているだろう。全身で扉の向こうから流れてくる空気を感じている、そんな子どもの姿をみたら、大人は、その扉を決して閉めてはいけないとおもう。
ある3年生の高校生に今の状況を比喩で例えて見てよと聞いたところ、「出口のない部屋にいるみたい」だと答えてくれたことを、思い出した。
言葉への意欲、それは食欲の如し。
遠慮はいらない。
かぶりついて
指でつまんで汁をなめなさい
あごにたれないように……
芯も
軸も
内皮も
核も
種も
外皮も
捨てるところはないのだから。
『クシュラの奇跡―140冊の絵本との日々』の中で紹介されている、イヴ・メリアムが命ずる「詩の食べ方」
言葉が出ない、とか、言葉が遅れている、という話をよく聞く。それで支援センターなどに行く人も大勢いる。支援センターはてんてこ舞いだ。それよりも食べる時間、味わう時間をつくるのはどうだろうか。
「この子、もしかしたら…」といって不安になるお母さんがいる。「診断」をうのみにして「治療」をさせようとしてしまう。クシュラの母親も医者に「知能障害時センター」に通って治療を受けるように申し出た。けれども、母親は施設に預けるのではなく、クシュラの“正常な部分”をみつけ、決意を持って不断の刺激を与え続けた。たった一つ、開かれた扉を見つけ、開き続けた。
18ヶ月の時に、クシュラがかなり進歩をとげつつあり、その進歩は、自分たちがあたえた励ましと刺激が、少なくとも一部には成果をあげていたのだ、とそう信じる根拠を、両親はつかんでいた。そのときに「正常でない」と烙印をおされたのである。両親は、それを的外れだと思った。施設へ、という忠告は、自分たちの努力に対する嘲りだとも思ったのである。
医者は診断はできても、人間を育てる「専門家」ではない。人間を育てるのは人間だ。
ジョアン・タフ著の『意味の焦点ー上手な幼児との対話』は、「教師、親をはじめ、成長期の子どもたちとつきあうすべてんぼ人たちが、乳幼児期に言語が果たす役割をより深く認識する助け」として書かれた。著者は、子供が考えていることをヒュオプ原子、同時に思考を深めようとするようにする言語の発達にとって、もっともよい機会を与える家庭環境を規定している。著者がとりあげたのは、3歳の男の子のマークが育つ家庭環境で、とくに大人との関係に注目している。「マークにとって大人とは、情報を提供する人、思考や議論にさそう人である……マークは、質問をすると情報が得られる、問題を解決する努力はほめ言葉となってかえってくる、そして言葉は過去の経験をよみがえらせるものだ、ということを学んだ。」このような大人と子どものかかわりあい、つまり複雑な言い回しを使って、議論し、予見し、計画し、熟考する両親という手本が、マーク自身の話し方に反映されている。こうしてマークは「考える道具」を獲得していく。(p.185)
食事も、言葉も、家が基本だ。そう考えた時に、オトノネができることなんて、本当に小さなことで、もう適当にやってもいいんじゃないかと思えてきた。僕は少し力を抜いてもいい気がする。家庭教育をお手伝い、くらいにしておこうか。
多くの「個別指導塾」がアルバイトの若い学生、学校と関わり合いのない先生との「会話の場所」になっているのも、子どもの心の表れなのだろうとおもう。子どもは大人を求めている。
フロイトとエリクソンの心のしくみ
ふむふむ。
超自我とイドという言葉がある。超自我は前頭葉や側頭葉を含む大脳新皮質で、イドは本能、欲望の部分、扁桃体や視床、小脳を含む大脳辺縁系だ。喜びたい、幸せになりたい、怖い、イライラする、自慢したい、かっこよくなりたい、また性的欲求。そういう辺縁系の働きをコントロールするために新皮質があるというイメージだ。人の生きるエネルギー、活力は辺縁系にあり、それを社会化する、人間らしくあるために新皮質が辺縁系の働きを抑制するようなイメージ。
その間に、自我というものが想定される。「わたし」だ。極端に言えば、「わたし」は大脳新皮質と大脳辺縁系の信号の流れ、神経そのものであるといえるかもしれない、そういうイメージを僕は感じる。
自我は、イドと超自我の、二人の言い分を聞きながら、言葉により、二つの力を使いこなす、統合する作用である。自我は、対話する力である。
本を読むこと、本を行うこと。
本は読んだ方がいい、とかいう。 いやいや。本を読んでも、新しいアイデアを得ても、それが実行されなければ、意味がない。 とおもう節がある。いくら学んでも、それを発揮できる場所にいかなければ、意味がない。 いくら勉強をしても、学校教育でそれを役立てるには、いくつもの問題をクリアしなくてはいけない。 発達障害について学んでも、結局現場は作業、マニュアル、そして愛嬌。 専門的な知識はすべてハウツーで、深く学んだ人はほとんどいない。 教育の価値が低いのは、本を読む価値が低いのは、それを実現する、試してみる、行動することが社会的に認められていないケースが多いから。 本を読もう。 そして読んだ後に、行動してみよう。 情報を発信するだけでもいい。 できれば何か新しい何かをつくってみたらいい。 おもしろいだけで読んでいたら、思春期以前のファンタジーの段階だ。 それもいい。それでもいい。楽しいものは楽しいでいい! けれども・・・ ーーー 新しい考えを実行するために他人の承認を得るための作戦をたてるチカラがなによりも大切だとおもう。 学んだことを、社会の中で受け入れてもらうためのしくみ。 それは実は、ビジネス、経営なのだと最近思えてきた。 学んだことが生かせるような場所を見つけること。 学びたいと思えることを学びながら、それを生かす場所も同時に作っていくこと。 それが自然にできる人はしあわせだ。
言葉が受け入れられるということ。
それは言葉が伝達される以前に、子どもの感情や身体、心が受け入れられている時だ。「かけがえのない場」にあって育つ言葉がある。言葉を信じる、言葉を、心の中に取り入れるしくみである。
おとなの指し示しを真(信)として受け入れること、誤解を恐れずに言えば、他者の言明を己の言明として需要するそうした態度決定(広義にいえば、反応態性)を示すこと、それがおとなの眼から見た、つまり、日常的常識的な意味での言葉を理解することに他ならない。さらにいえば、他者の変名を“真=信”として受け入れるこつした反応態勢は、身体がすでにそうした反応態勢を取るべき場に置かれていることによって、原初的には成立可能になっている。先に見たように、子どもは生まれ落ちた時点から「応答し得る者」としての存在の場を与えられている。子どもを「応答し得る者」として在立させる場は、同時に、自らの生命の維持さえも保証する場であるからこそー言い換えると「あなた(赤ん坊)と私(母親)にとってかけがえのない場」であるからこそー子どもがおとなの言葉を“真=信”として受け入れざるを得ない態勢がいち早く形成されていると言わねばならない。(『こどばが誕生するとき』p.153)
学校の先生は上手にこれを使っている。学級担任になった人は、ゴールデンウィーク前に、生徒に自分の言葉を信じてもらえるように「しつける(とある先生が使っていた言葉だ)」、ゴールデンウィークまでが勝負なのだ。ゴールデンウィーク後に学校に来ない生徒がいるのだろう。
大人は少なからず大人の価値観、学校の価値観、社会の価値観に応じて言葉(価値観)を信じてもらうようにする。言葉を信じてもらえるような振る舞いをする。これは宗教団体でも同じだ。言葉を信じてもらえる出来事(きっかけ)、環境を作り出すことが、子どもの言葉をそだてることになる。
韓国の劇団員の一人がこう言っていた。「舞台に上がってから、俳優は自分の言葉が観客に信じてもらえるように、受け入れてもらえるように、一生懸命になる。“自分の発する言葉”が信じてもらえるように努力をする。そんな俳優の姿をみて、観客は、少しずつ俳優の言葉に力を感じ、受け止めるようになる」のだと。言葉を学ぶことの大前提は、関係性をつくるということ。
受験生なら、どうしても進路に反対する親がいたとする。お父さんお母さんに言葉が伝わるにはどうしたらいいだろうか?言葉を信じてもらえるような振る舞いを、努力をするといいのかもしれない。(大人も人間だ。いろんな大人がいる)
言葉の持つチカラは言葉に内在しているわけではない。言葉をとりまく振る舞いや表情、使われる場が言葉にチカラを与える。
言葉の広がりと世界(意味)の広がり
さっき、皿回しの棒を折った子の記事を書いた。
頭の中は何処か不思議と、相似形をしている気がする。
たとえば動物は昔、bow-wowだったのが、つぎにmooとbow-wowがいるとわかり、gee-geeも動物だとわかり、baaという動物もいるとわかるようになる。こうやって分類は細分化されていく。(mamaがご飯の意味で使われるのも同じだ)
それと同じで、「棒」ときたら「折る」という動作以外に「大切なもの」という選択肢がなかった、といったらいいのだろうか。「それは折ってはいけない棒」だということを条件(たとえば、人の家にあるもの。その棒がなかったら皿が回せなくなるということ)から推理できなかったといおうか。野山にある棒なら、いくらでも折っていいのだが。
棒を折って、こっちをみてほしい(お母さんと喋っていたが、一緒に遊びたかったんだろう。いやぁ、ときには一人で遊んでくれ、子供よ!)気持ちを出したのは、自分一人の目線。自分一人の目線だけで「棒」と関わってしまえば、棒に関わる他の人たちがどうなるか、予想していなかった事態になる。
失敗したら、そこで成長したらいいんだぞ!子どもよ!大人もよ!ハッピーになろう!
言葉のプロになるための1万時間の4段階『ことばでつまずく子どもたち』
プロになるには1万時間練習しなくちゃいけない法則があるのだという。(科学的な根拠は知らない。嘘かもしれないしまぁどうでもいいけれど発達の目立つ時期が『ことばでつまずく子どもたち』(p.91)に書いてあって少なからず2年のサイクルがあると書いてあるので少しは信じられるとおもう。
)
簡単なメモ 3−10ヶ月:言葉を理解する 2−4歳:会話力を獲得 6−8歳:文字を読む(促音、濁点などを音読しながら意識して読む。字と音韻の一致) 10−12歳:文字を書く 14−16歳:文章を書く
で、生まれてから言葉が出る、二語文、会話らしい会話ができるようになるのが2歳の終わり、つまり0歳からの3年間だとしよう。1万時間を3年で割ると、1日あたり9時間。まぁ子供が起きている時間、ずっと学び続けているとすればそのくらいになるか。
で、3歳の段階では、言葉のプロ、というよりも、言葉の学習者として一流だとおもえばおもしろい。(興味関心をもって意欲的に他者の会話を聞こうとする、聞ける、安心してこの世にいられる感覚)
と考えると。。。。
で、3歳になってから6歳になるまでの3年間で、言葉のプロ、になれるはずだ。けど話し言葉に限られる。
というように、次々と考えていくと・・・!!!
次の3年間でプロになれるとしたら・・・文字を(口に出して、意味を知って)読むことのプロ、になれる。書くことはできないかもしれないが。文字を、気持ちを込めたり、速度を変えたり、いろいろな表現で、書かれた文字を読むプロにはなれそうだ。小学校低学年。
小学校が終わるころには、文字を書くプロになっている。いやでもこれ、どうなんだろ・・・文字、小学生とか中学生の時とかまだ僕はかなり(今以上に)汚くてうーん。。。。まぁいいや。
とりあえず行けるところまで想像の羽を伸ばしていこう!
中学生になったら、話し言葉で表せていた心を紙に写し取る、書き言葉のプロになっている。そのときには本居宣長や小林秀雄の言葉を思い出しながら先生は指導にあたるべきだろう。書くとはなんぞや。心のどういう営みだ。「丸々した。面白かった。」ではないはずだ。
小学校で理科や社会を、高校受験のように「系統的に習う」必要性を私はあまり感じない。理科はただの不思議をおうあそびだし、社会はおもしろそうな人の写真をみて物語を読む時間だ。言葉の時間、音楽の時間、美術の時間、図工の時間、あそびの時間、それだけでどれだけ、人間らしく、人間が成長できることか。もちろん、言葉の時間に算数や第二外国語を入れてもいい。
中学生なら、もう達人の域に達しているはずだ。ただどうしてだろう?大人が想像する中学生、未熟な中学生、まだ高校生になっていない中学生、自立していない、未発達な中学生というイメージが子供を幼くしてしまっているだけだと僕は思っている。
「蛇」は抽象語か
ヘビという言葉はよく聞く言葉だ。
へびさんへびさんとみんないう。
が、実際に見た人は少ないのではないか。
昔の子供たちは、空き地で遊び、蛇を捕まえ、蛇で遊び、蛇を食べ、蛇と一緒にいた。その時は具体的な、目に見える、生々しい蛇との経験がある。だから蛇という言葉は全然抽象的ではない。
国語が苦手、というのは、自分と関係ない世界の、よくわからない物事の「実体」が不明だから、その「名前」もあやふやなものになって、語彙が増えない、という理由があるのかもしれない。今の子どもたちにとってヘビは抽象語であるような気がする。
つまり言葉が生みだされる世界、言葉が育つ世界との関わり合いの少なさは、一人の人間の中で生み出される言葉の少なさに関係しているかもしれない。
テレビを見れば、蛇は拝める。蛇はわかる。
けど蛇の本当の姿とは?どうして「虫」がくっついているの?古代中国の人たちが「虫」という意味に込めた「ものもの」の意味がヘビにこめられている。ヘビはもともと日本語ではツチとかなんとかいった(ような記憶がある)。神であったし、大きな力をもっていた。時代が映ると蛇は忌まわしいものになって嫌われ出したり、聖書では悪者みたいに書かれている。
さて、蛇とはなんなんだろう。たぶん、ゲームの中で出会う蛇が、彼らにとっての蛇なんではないだろうか。くねくねして、噛みついて攻撃してくる。もっとやさしい蛇もいるんだけどね。(マハーバーラタをよもう)
赤ちゃんがお母さんと一緒に何かを見る、いわゆる共同注視という振る舞いがある。言葉によっても、ここにはない、ファンタジーに浸る共同幻視をしたらいい。おとぎ話には、言葉を鍛える力がある。物語は言葉を育てる。
さて、「自由」は抽象語なのだろうか?
「自由」を具体語として生きられるような暮らしをしてみたら、どうだろう。
心はしあわせの所作を生む『ことばが誕生するとき』
「私がカクカクシカジカのことをする」という意識における行動のプログラミングをすることなく、自転車にまたがった途端、身体はそうあるべく動き出す。いわば、身体が自転車に“乗られ”、身体は自転車とともに目指される行動を実現する。自転車と一体になったとき初めて、身体の個々の動作がひとつながりの運動の軌跡を描き出すという、こうした日常のありふれた出来事は、「この身体を操作する私」という“意識体”に完全には還元しきれないある種の“意識体”の存在の想定を可能にする。(『ことばが誕生するとき』p.156)
ある行いをするとき、すべてが意識されるわけではない。ある程度、何かしら意識されるものはあるが、それで人間の不思議な身体の全てをコントロールできているわけではない。スポーツ、芸術、武術、経験があれば理解できることだ。
笑うという行いも無意識で行われる。赤ちゃんが0才でも、誰にも教わらずに「人に笑いかける」という引き金が大人の心に触れ、赤ちゃんは大人とコミュニケートする機会を得る。そうして成長していく。笑うということは、人と繋がる、学ぶしくみといえるかもしれない。
語りかけるのは言葉によってだけではない。表情、もちろん周りの雰囲気も人に語りかけてくる。しあわせとはなんだろう?美しさとはなんだろう?「しあわせ」や「美しさ」の場で「しあわせだね」とか「きれいだね」、「うん、しあわせ」「うん、きれい」という言葉を交わすだけで、目に見えないしあわせや美しさがどんなものか、子どもは学んでいく。大人も、学んでいく。
意識しなくとも、考えなくとも動き出す心、生み出される言葉がある。心を大切にするとは、言葉になっていない「場」を含めて、意識されない「行為」を含めて、しあわせになる所作を身につけることなのかもしれない。
言葉の質。分析的方法とゲシュタルト的方法の違い。『子供は言語をどう獲得するか』
分析的方法とゲシュタルト的方法の違い。p.174
難しく聞こえるかもしれないけど、「パズル」のように言葉を組み合わせるか、「写真」のように言葉を見せるかの違い。例えばこういう状況ではこういうといった言葉の使い方はゲシュタルト的に覚える(文章をまるまる覚えて使う)方法が有効だろう。
例えば「本日はお忙しい中・・・」みたいなものだ。
分析的方法とは、言葉の使い方を知っていて、自分で新しい語と組み合わせる方法。(中学生から習う英語の文法の学習のよう・・・)「●●ってどういう意味?」の●●にいろんな単語を入れて文をつくる方法だ。もちろん、この分析的方法で文を作り出す以前に、ゲシュタルト的に、まとまって、一つの塊として、区切らずに、言葉を真似て使っていい。
で、この話が何につながるかといえば・・・
言葉には指示的な、記述的な言葉が(指示的用法)ある一方で、感情的な表現(感情表出用法)もある。
「これはおおきな犬だ」「お母さんが帰ってきた」などは指示的用法であり、「ありがとう」とか「やめてよ」というのは感情表出用法である。感情表出用法はゲシュタルト的である。指示的用法は分析的である。
で、子供はなぜか(親からの影響か、何らかの原因があるかわからないが)どちらかの「戦略」を優先的に使って言葉を覚えて行くのだそうだ。ある子は分析的に言葉を使う。覚える語彙が多い。ある子は感情表出的に使う。多彩な、質的に豊富な彩どりある言葉をたくさん覚える。
学校で評価されるのは指示的・分析的方法である。けど実際に人間同士が感情を伝え合う時にはゲシュタルト的な、まとまった、感情表出用法が大切になってくると僕は思っている。
こんな生徒がいた。
僕が採点したテストを返却して、僕の採点が、計算が間違っていないかチェックする時間。ある子がひとり、前に来て、ゆっくりと、ごくごくいつもどおりの口調で、(やややさしめに)こう言った。「私の回答用紙、もう一度計算してもらえませんか??」。。。僕は感動した。そんな言い方があったなんて!なんて素敵すぎる表現なんだ!「ここが違うんですけど」とか「ここおかしくないですか?」とか「ここ丸です」という生徒はいたけど・・・
心が開けることば、心が、思いやりが感じられる言葉が育つように、私自身が言葉を選んでいかないとなぁとおもう。もう大人だけど。もう一度!
たぶん、心は言葉、言葉の響きがつくる人の気持ちのことなのだ。人に言葉をかけるとは、誰かに対して喋るとは、人の心の音楽に自分の音楽を重ねることだ。もし他人の心を、音楽を乱すような言葉を使えば、他人は怒るに違いない。言葉は響く。自分にも返ってくる。
「子ども」に先生の値打ちを「問う」
「今日はなにを学んだの?」 と聞いた時に、「足し算」とか「漢字」とか、単元の名前とかがでてきたら、多分その子は大切なことを学べていない。 「今日は何を習って来たの?」「エチュードの○番」とか、「クリスマスの歌!」とか。 僕が聞きたいことはそこではない。 「今日はなにを学んだの?」 という質問をわかりやすくしてみよう。 「今日は先生は、どんなことを話していたの?」 こう質問してみるといい。 心に残っている部分が、その子がその先生から学んだことの印象であり、実態だ。 それが「足し算」とか「文法」とかそんなものであってはいけない。 さっそく、新学期がはじまったら子どもに聞いてみよう。 「今日は先生は、どんなことを話していたの?」 「宿題を期限までに出さなかったら○○だって」みたいな返事が返ってきたとしよう。 それが、その子と先生の関係なのかもしれない。 もう少し聞いてみてもいいだろう。 「一番、心に残ってる、大切な話はなかった?」 「うれしくなった言葉は?」 「かなしくなった言葉は?」 子どもたちは、どんな大切なことを、大人から学んでくるんだろう。 いいものを、先生からもらわずに、いったい何を先生からもらっているんだろう? 魔王の言葉??? 学校は、ただの場所を表している。 「学校」という「自然」、「校舎」という場所。 先生は、学校の管理人であって、学びを与えてくれる人ではない。 囚人に日課(作業)を与えてはくれる警備員のようにもおもえてしまう(富山県の議会の部署(委員会?)で、教育と警察は同じ場所にいる。これは全国みんなそうなのか?)。 これは批判でも悪口でもなく、事実だ。(事実すら、見えない人には見えないのも、また事実) 先生の「子ども」にとっての値打ちを知りたければ、「問う」ことをしてみよう。 その答えから導き出される「子ども」にとっての先生の値打ちが、なんか変だな。とおもったら、オトノネに遊びに来てください。 「どんな先生?」 という言葉で聞いたら「やさしい」とか「いや」とか「たのしい」とか。いろんなエピソードを聞かせてくれるかもしれない。 それなら、学校に何をしに行っているのか、僕にはわからない。 聞き方も大切。 ん?学校に「しつけ」のために行っているのか????? 学校にいる子どもたちをみると、崩れていく日本の社会を新しくするチカラではなく、ただ崩れていくものに埋もれていく人柱にみえてしまう。 それは僕の偏見だろうか。いやいや。事実です。 言葉を育てず「躾」つまり体裁を整えるように、世の中は動いている。 その魔王の代表格が「学歴」とか「成績」という言葉だ! 事実に気がついたお父さんお母さんが、オトノネを大切にしてくれたらいいなぁと強く思っている。 しつけとけじめ 言葉を喋るまでのケジメが大事すぎる件。 しつけと道徳的行動の関係の研究
言葉を味わう
「あのねきょうねこうでねああでねそれでこうなってああなってこうだったんだよ!」 その中身が、誰が何をしたという話なら、こう付け加えて聞いてみるといい。 「その時どんな気持ちだった?」 一つの出来事、話して聞いて欲しい、数ある経験のうちからそれを無意識に選び話始めたその経験はその子にとってとても大きいことで、 きっとそれをもう一度ちゃんと味わいたくて、消化不良で、話をするんだろう。 ちゃんと味わうために、目の前の風景をキャンバスに描く人もいる。 心のあり方を言葉に止める人もいる。 ご飯も、味わって食べよ・・・ ーーー 長い長い話に耳を傾けて、受け止めて、一緒に体験し直す経験を子どもとしていくやり方は、実はカウンセリング、認知療法のやり方だ。 大人になって、大切な出来事を、大切な気持ちを閉じ込めてしまう癖をつけて調子が悪くなる人がたくさんいる。 味わうための、時間と、味わうために安心して過ごせる場所と、願わくば、一緒に味わってくれる人が近くにいる人はしあわせだ。 味わう時間と、場所と、仲間を守るために、人はいろいろ苦労するのかもしれない。 大切なものは何? 幸せも、苦しいことも、味わって、そのまま次の瞬間、空気と一緒に吐き出すこと。 子どもはいつからか、どこかで、大人になってこれを忘れる気がする。 「あそぶ」というのは、次の瞬間に泣いて、次の瞬間に笑うようなことなんだろう。 思い出すこと。 乳児院で実習をした時、夜、赤ちゃんの顔を見ていた。 暗い部屋の中にしみてくるような鈍い光の中で、その子が怒っているし、泣いているし、笑っているし、眠っているし、一体なんなんだと思ったことがある。 「いい顔で死ぬ」という言葉がある。きっとこういう表情なのかもしれない。 死ぬ時くらい、清濁併せ呑んで喜ぶことも悲しむこともどれということもなく、あそんでいたいとおもう。 ーーーーー コップに注がれる一杯の水すらも、味わってのめば、どれだけの時間がかかるだろう。 そういう〈大切な時間〉の経験が、きっと大人にも子供にも必要なのではないかと思う。
論理を伝えること、論理の前提が崩れているとき、先生としての責務を果たすことと課題の多さの関係について。
論理的に話すということが無意味に感じることがある。 例えば学校で授業中に友達と話す子。 「なぜ授業中にはなしたらいけないとおもう?」 こういう問いをしてくれる先生がいるだろうか。 論理的に話すとこうなる。 「授業はみんなのためにやっているのであって、他の人の邪魔をするのは、他の人の迷惑になるから」 とても簡単だ。 教室は静かにするところ、では納得がいかない。論理的にそれがなぜか、落とせるところまで落とすとそういう答えになる。 もしこれが子どもに通じないとしたら? 話ができないとしたら? 大人はその子にどうかかわればいいのだろう? 私はいつも「教えなくてはならないこと・教えてはならないこと」を考えている。 それをはっきりさせるのが教育者の務めだと考えている。 教室の中で授業中友達と喋ることを黙認することは、身体的にそれを許していることになる。 「授業中、友達と喋っていてもいい」ことを教えていることになる。 私にとって、先生としての責務を果たすとは、「教えなくてはならないこと・教えてはならないこと」をはっきり伝えることだ。 ーーー ちなみに、いつもでも友達がいないと何もできない、時間が過ごせない、というパターンは1歳すぎたらもう出来上がっているようだ。 先天的なものもあるだろうが、養育者との関わりも大きな要因になっているようだ。 保育園で働いているからわかることかもしれない。。。。 ーーーー 子どもの言い分もあるだろう。 「だって授業がつまらない」「意味がない」「役に立たない」 こういう言葉を聞いた時に、大人は何を感じるだろうか。論理の前提が違うとき! 私ならこう応える。 「意味がないと感じるなら話を聞かなくてもいい。それは自分の責任で。ただ、他の人の時間を傷つけるのは悪いことだ」 それで無言になって、結局喋り続ける子がいる。 論理の前提が、そもそも違う(ただ喋りたい一心なのだ!)ケースだ。 もっとよくあるケースは「勉強してなんの役に立つの?」という疑問がでるほど、学校生活が窮屈な場合。 どちらの場合も、生徒の心は擦り切れている。 健康的とは言えない。 そんなとき、僕はこう考える。 「本当にその子にとって有意義な、成長できる時間をつくるためには何をしたらいいのだろう?」 授業という形態、学校というシステムにも限界がある。 果たして、学校は、組織は、大人は、こうして育ってきて今も成長している子どもたちに何ができるか??? (ちなみに、学校の先生は、生徒が同感・同情してくれるような言葉かけ、振る舞いを日常的にしていることがある。「この先生だから、静かにしていよう」というやつだ。生徒指導の怖い先生の前では静かにしている、というパターンをつくりだす。それも一つの手なのだが。人を見てコロコロと態度を変える就学以前の子どもたちと同じだ。もちろん、それは人間関係の基本ではあるが、その「手」が新任の先生がどんどん辞めていく原因のひとつとなっている) ーーーーー 全ての学校に、通信課程を導入するのも手だ。 友達と喋りたい!なら単位は通信課程で。 自習室で友達と喋りながら勉強したらいい。(そっちの方が勉強になるかもしれない!???) 授業が嫌だ!意味がわからない。それでも単位が欲しいなら、友達とおしゃべりしたいなら、通信課程で。 通信課程と一斉授業の仕組みが流動的に使えるようになればいい。 決して他の人の邪魔をしてはいけない。 学校の本分が、教室という場所が、そのようにできているから。 「教えなくてはいけないこと・教えてはならないこと」をはっきりと伝えて、なおかつ、生徒の教育上の安全も確保しよう。 学ぶ意味がわからない、こんなもの役に立たない、とおもう子のための学校があるだろうか? 友達とのおしゃべりを楽しむ以外で、《行き甲斐》のある学校があるだろうか? 大人がそういう問いを立ててもいい。 (私なりの答えがotonone-オトノネ-なのだが) ーーーーー その子を否定するのではない。排除するのではない。 そのためには、 その子が学校でその子なりに、高校生活という経験を全うするための手立てを、学校が持っていることが必要なのではないか。 (その一つの答えに「特別支援級」があったりする) そして大人がきちんと「教えなくてはならないこと」を伝えること。 学校の先生には、こういう意識が必要なのではないかとおもう。 (教えるという言葉が妙な響きに聞こえるかもしれない。心を表すこと、と言い換えてもらえてもらってもいい) 論理を、そしてベースとなる「相手の気持ちと自分の気持ち」という人間の根本原理を教えること。 それはいい子になる、というものではない。それさえあれば、世の中やっていけるというくらい大切なことだと僕はおもっている。 ーーーーー 「難関国立大学に合格させる」という責務を負った進学校を選んで入る人は、課題を当然ながら、あまんじてこなすべきだと考えてもいい。 そこを選んで入ったのだから。 先生はその責務を果たそうとしている。 ただ、大量の課題や途切れのない模試・テストという方法にあまり実りがないことは、大人がきちんと考えなくてはいけないことだと思う。 大人は「課題についていけないない子に対して、学校が本分を果たすにはどうしたらいいか?」考えているだろうか。 業務(先生たちにも「課題」がある)から自立して、考えているだろうか? 業務自体が「教えてはならないこと」を伝えていないだろうか?(潜在的カリキュラムという) 考えていない、工夫ができていない、先生自身が成長できていないとすれば、先生としての責務を果たせていないことになるというのは、論理的に正しいだろう。しかしこの論理の前提が崩れているから、困るのだが。 otonone-オトノネ-は壊れた前提の中で、それでも成長していこうとする子どもたちを応援しています^^
毎日反省しているおとのねさん
otononeの代表は毎日反省しています。 ふとしたときに、気がつきます。 ああ、あの子は、こういう状況で、こうだったから、otononeに来てくれたんだ。。 その気持ちを、その時はきちんと受け取れていなかったなぁ とついさっき反省しました。 気が付ける、振り返れる、人の言葉や素振りの意味、重みに気がつけるような心でいることは難しい。 もっといい先生になるには、いつでも、どこでも、どんな状況でもちゃんと生徒の気持ちをみれる心の状態でいなくちゃいけないとおもう。 時間がなくて焦って授業を終わらせると、後悔するなぁと思った。 その時気が付けなくても、次会った時に、心を改めて、新しくして、その子と向き合いたい。
言葉のチカラ
私は言葉に力があると信じている。 だから文字の形とか、言い方とか、言葉が置かれる場所とかをよくよく整えようとはしている。 それで言葉が力を持つと思っているからだ。 この間、高校生から、「あの言葉、家で何度も読んでいます。励まされています」という話を聞いた。 うれしかった。 いつも出しっ放しの言葉、帰ってこない音、声にこだまする別の音が聞こえる、心地が、いい。 音楽を一人でやり続けてきた私がグンデルに出会って、誰かと一緒に演奏することをしっかりとわかった。 言葉も、こうしてブログのように一方的になってしまわないように、もっと生徒と、コドモたちと出会って、言葉を、交わしていきたい。
悪とは何か
世の中にはいろいろな悪がある。 「責任」という言葉についていろいろ考えてきたが、最近は「悪」について考えるようになった。 考えるというか、きにするようになった。 悪大名などという言葉がある。 うんうん。 悪臭という言葉もある。 うんうん。 私の考えはこうだ。 「悪」を教えるべきか。 教えるべきとすれば「悪」とは何か。 大切なのは「悪はどのようにして生まれてくるか」だろうか。 もし悪が生まれたら? それは自分の中に生まれるかもしれないし、外に生まれるかもしれない。 痛みという「悪」の言い分を聞いてみる。 不正という「悪」の言い分を聞いてみる。 暴力という「悪」の言い分を聞いてみる。 うんうん。 同じ体験をしても「悪」だと感じない人もいる。 「善」だとおもっていたことが「悪」だったりする。 「悪」だとおもっていたことが「善」だったりする。 平和か戦争か。 「怒り」という感情は「悪」だろうか。 そうおもえば、悪は本当に、どこにでもある、大切なことで、ほとんど教わる機会がないものだ。 自己肯定感とは、「悪」に対するお守りを手に入れることなのかもしれない。 「悪」をどれだけ理解しようとしているだろうか。 (ちなみにバリ島では「怒り」=「戦争」だそうだ。冗談でそういっていた人がいる) プールの中にはピラニアはいない。 ピラニアだと思っていたものは、実はみじんこだったと、よくよくみてみるだけでいい。 それだけで安心して泳げるというものだ。 プールの中にはピラニアがいるかもしれない(一匹、空から降って落ちてきたかもしれない)。 だから、全身鎧を着てプールにはいろう! よくよくみないと、楽しいプールの時間が「悪」で満ち満ちてしまう! 外にあるものの観察と同じくらい、中にあるものを観察すること。 言葉のレッスンの大切さを、私はつくづく、感じている。
ユーモア
humor を日本語でいうとユーモア。 もともとhumanity人間性と繋がっている言葉だということがわからなくなる。 日本人のhumorは何かとおもう。ユーモアと書けば「あのひとはユーモアがあるよね!」と、人の笑いを取るとかいう意味になってしまう。 humorというのは、もっといろいろな感情を含めている。笑うこと、泣くこと、悲しいこと、怒ること。そういったものをバランスよく出したり引いたりするのがhumorだし、人間性humanityなんだろう。 日本人のhumorは、どこか暗くてどろどろしたイメージを持つのは、僕だけだろうか。 恐らくそれが、日本人の「語り」の文化なのだろう。
日本の文化と言葉
今、音楽教室専用のHPを作ろうとしている。 音楽の習い事で思い出せる言葉はいろいろある。 リトミック、ソルフェージュ、わらべうた、体幹、情操、微細運動、いろいろな言葉が溢れている。 結局、いろいろな人が音楽教室をやっているけれど、いくら言葉を尽くしても、結局違いは「一緒に音楽をやる人が違う」ということだ。 ギター教室、音楽教室、リトミック、うーん、全部のキーワードを入れたい。どうしたものか。 インドネシアのバリ島の事情。 「ああ、あそこにはこんな先生がいてね、こんなのを教えているよ」 全て会話の中で伝えられる。人間が、情報を持っている。人間が情報を喋る。必要なことは質問できる。 今私はHPを作ろうとしているのだけれど、インターネット、スマホ、パソコン経由以外でもみんなに音楽教室のことを知ってもらいたいと私が思うのは、言葉はいくら尽くしても、結局、人間の声、面と向かって話すことでやり取りされることの方が、感覚的であり、直感的であり、信じられるからだ。うまい広告は世の中にたくさんある。その中から、私の音楽教室を選んで、誰か会いに来てくれるだろうか。話にきてくれるだろうか。わからない。 だから私は道に出る。 ところで本題、日本の文化と言葉。日本で新しい言葉が生まれる時、大抵、外国語からやってくる。もしくは、コマーシャルからやってくる。新しい言葉を私たちが目にするのは、広告の中がほとんどだろう。それらはほとんど、文化にはならない。インドネシアなら「サンガール」という文化がある。日本では「お稽古事」だろうか。寺子屋、読み書きそろばんが町人の、商人のたしなみであり、おかげで高い技術力を維持してきた日本の文化。今その文化は、学校教育のなかに閉じ込められ、新しい文化を生み出す力は、学校にはない。受験勉強という高度経済成長に支えられて来た文化は、風習は、これからどうなるのだろうか。もうすでに、たくさんのコドモたちがあきれてオトナをみていることに、オトナはいつ気がつくんだろう。私はそんな冷たいコドモの視線に合うと、背筋が凍る。
感情の言葉が少ないと前頭葉が「ホットな回路」に凌駕されてしまう件
傲慢という言葉よりも
中学以来の友達と話をしていた。その人のパートナーが図書館で絵本を読む研修をしているという。その人の課題図書の一つに「子どもに残酷な物語を読み聞かせていいのか」みたいなお題の本があった。 絵本を読む子どもの読み方を決めつけるこの傲慢さに気がつくオトナは少ない。コドモの感じる世界を、オトナが決めつけるのは、しかしながら、フツウだ。「この子の幸せのために」という言葉を私は聞いて育ってきた。いやいや。私は私の感じ方があるから。 さて、ここまで書いて、ふと、気がついた「違和感」がある。言葉の一つを使った後に、相手に与える影響もあれば、自分に与える影響もあるのだ。私は、私の中に違和感が産まれたことに気がついた。 傲慢という言葉は、他の人に使えば攻撃になる。非難する声になってしまう。ただ、私が今まで生きてきた時間の中で、コノような誰かを攻撃する言葉をたくさん覚えてきてしまったのだ。語彙は大切だ。人を攻撃する言葉を避け、生きるのに役立つ言葉をオトナが使っていくことが、コドモにとって一番大切なことだとおもう。言葉だけでなく、ものの言い方、態度、性格と呼ばれるものも、だれもが生きながら、学んでいく。人を傷つけるやりかたで暮らしていれば、コドモはそれを真似てしまうかもしれない。コドモは、ちゃんとみているのだ! だからごうまんという言葉を使わずに、二字熟語、漢字に頼らずに、ちゃんと伝えるために、もっと身体的な、日常的な言葉を、ちゃんとした言い方で、話すといい。傲慢さに気がつく=「コドモの感じていることを決めつけていること」に気がつくと言い換えるのだ。抽象的な言葉に振り回されてはいけない。 傲慢という言葉を使うとき、私の心に少なからず怒りが生まれたことに私は気がついた。そしてそのとき、私も傲慢になっている。言葉は、感情を生み出す。ちゃんと選んで、使えるようになろうと、私も気をつけている。言い方、言葉の選び方、これが自然にできる人こそ、私は先生になってほしいとおもう。だから、保育所をつくりたい!
『たいようのおなら』子どもの言葉
塾っぽいことを書いてみようとするが、ムズカシイので諦める。 最近、引っ越しの準備をしながら、よくもまぁこんなに買ったものだと、本を整理しながらおもった。美術関係の本、整体、身体に関する本、数学、歴史に関する本、文庫本、詩集、音楽の本、いったいこれからどうするつもりなんだろう?建築家になるといっていた時期もあった。ランドスケープ、庭園、持続可能社会にこだわった時期もあった。多分僕は、自分が進まなかったその道を進む力を生徒たちに感じるのだとおもう。ある理系の生徒から「動物行動学おもしろいんですよ〜」「え?もしかして日高さん知ってる?」という話になって楽しかった思い出がある。別の生徒は、ストレッチにこだわっているというから、ヨガのおすすめの本(英語)をプレゼントした。最近、翻訳されたらしいが、分野によっては翻訳が追いついていないものもたくさんあるのだ。。。。 生徒は、コドモは、少なからず僕の人生の一部をどこかしらにもっている。遠いつながりかもしれない。あのとき僕がああだったら、ああなっていたかもしれない。その一部を、子どもたちが僕にみせてくれているように思える。幼稚園、小学生なんて、僕にとっては大先生なのだ。 早く生徒と出会いたいとおもう。 来てくれるかな? 『たいようのおなら』 子どもたちの詩をオトナが選んで一言添えている詩集。 詩ってそもそもなんだ? 世界のみかたが、どうも固くなって、本当の世界をみられなくなりがちになったなぁというかいつもそうだと自分のことをおもう。もっと直感的に、そのまま、ありのままの世界を、ありのままのココロでつかんで、ことばにする。なんてすてきなことなんだろうとおもう。 僕がある日、本当に奇跡のような日に、こんな文句が浮かんできた。 「おならがでたよ ぷん 生きてるっていいなぁ」そのコトバが産まれたときに、そのコトバを抱きおろしてくれる人がいたからこそ、このコトバは本当に産まれてこれたし、僕のこころのなかにも残っているのだとおもう。孤独の中で生み出される詩は、たいてい、私の場合は、固くなって出てくるようにおもう。そんな気がする。
イイコトとワルイコト
イイコトとワルイコトで世の中ができているように思っていた。 「それはワルイことだ」というワルの意味がわからないまま育った人がいる。 こんなにも世の中にはワルがたくさんあるのに、どうしてそれをワタシに押し付けるの? そのままオトナになって、「イイ」ことも「ワルイ」ことも知らないまま、 そもそもイイワルイってなんだ? 他人の迷惑になることがワルイなら、他人の言いなりになることがイイのか! といわれたら、オトナはなんて答えるのだろうか。 「あなたはしつけがなっていない!」 「社会人失格だ!」 「おまえをみせしめにしてくれるわ!」 「生徒指導室にきなさい!」 本当のココロをもって接してくれるオトナに出会えるコドモは幸せだ。 ワルは別にワルになりたくてワルになっているのではないんじゃないか。 「ワル」が強調されて「イイ」が見えなくなっているのではないか。 「ワル」いことはどうしてうまれるのか。 ワルにはワルの言い分がある。 「ワル」はどこにでも産まれてくる。 いつだれもが「ワル」になれる。「ワル」は「ワル」同士で「イイ」ことになる。 「ワル」にとっては「イイ」が「ワル」だ。 本当にそうなのか?やっぱりワルイコトもあるんじゃないか? ワルはこの世界に、自分の中にも、溢れている。よくあるものだ。普通だ。 肝心なのは、ワルイモノにどう反応するか。どう応えるか。 ワルにはワルの言い分がある。 人を殺したらどうしてダメなんですか? オトナはどう答える? それは殺しても「イイ」という人にとって、本当に分かち合える答えになっていますか。 排除、回避、罰を与える以外に、「ワルイ」人と関わり合う知恵を、あなたは持っていますか。 それはあなたの中にも、あなたの一部としてアナタの中にあるはず。 もちろん排除も回避も罰も、悪いことでは全然ないのだけれど。 排除、回避、罰を与えた数%のワルが一人の人間の内側で、世界で、どれだけ不調和を起こしているだろう。 ヒトラーは悪い人なんですか? 彼は罰せられるべき人だったのですか? 私たちは、ナニを彼から学んだのですか? 彼を無駄死にさせてはいけない。人が死ぬことの重みを私は問う。 この離別が、私たちにとってちゃんとドラマのひとつになっているだろうか。 彼がどこかで、オトナに出会えていたらよかったのにと思う。 本当のココロをもったオトナが、少なくなった。 みなそれぞれの業務で忙しいのだ。 「どうして勉強しなくちゃいけないの?」 「良い質問だね!」といって、笑ってくれるオトナがこの世界にどれだけいるだろう。 誰もが苦しんでいる。 そう思えば「キモチイイコト」をもっとみんなで探そうという気になれるだろうか。 私はもっとイイワルイにこだわらずに、キモチイイコトをしていけばいイイのになぁと思ってしまう。 ココロというものは、コトバというものは、とても不思議なものだ。
愚痴
かつて私が学校で先生をしていた時、別の先生から「授業をしなくちゃいけないよ」と言われたことがある。 この言葉ひとつで人は変わる。大切なものが見えなくなっていく。本当はそのとき、もっと別のコトバを聞きたかった。 コトバの選び方ひとつで、人はどうにでもなる。私は今、愚痴を言っている。 「どうして学校に行くの?」 と、ある人が聞いた。 「みんな行くからだよ」 「子どもの仕事なんだよ」 「勉強するためだよ」期待したのが悪かった。ムリゲーだ。 ウマイ先生はウマイことをいう。タバコを吸ってはいけないとタバコを吸っている先生が授業で教える時に、ウマイ言い逃れをしていたのだが、忘れた。その先生はとてもイイセンセイだった。 コトバではわかっても、違和感が残る。それは本当に、ちゃんとわかったとは言えないのだと私はおもう。 頭ではなるほど、納得するし分かった気になる。けどぜんぜんよくわからないでまるめこまれたように感じる。 ヘビをよく知っていても、本物のヘビを触ったことも出会ったこともないなら、わかったとはいえないのだと私はおもう。 そう考えると、本当のことを学ぶのは、とてもムズカシイことだと思える。ムリゲーだ。 さて?どうしたものか? 私は今、ぐちを言っている。 感情を装っても、論理を装っても、カッコイイ漢字を使っても、愚痴は愚痴だ。 どうしたものか?といっても別に困っているわけではないのだ。愚痴りたいのだ。 本当に自分をずっと困らせていたら、病んでしまう。 誰かに聞いてもらわないと溜まってしまう。だからこそ話す。ハナスとはよくできたことばで、離す、放す意味もあるようだ。愚かである。結構。愚かではいけないと誰が決めたのだ。 「どうして学校に行くの?」 「学校が君の家にやって来ないからだよ」 これがボクの知る限り、一番ちゃんとした返事だ。「問う」という行為にもいろんな働きがある。「話す」という心の動きは、その人のどんな気持ちを映しているんだろうか。 すぐになんとかしようとする、答えをだそうとするのはオトナの悪い癖かもしれない。私はいつも、反省している。 言葉には、声には、いろいろな力がある。 それをどう使うかは、人次第。
物語の世界がそだてる心
ふと思い出す物語がある。
赤ちゃんを身ごもっている時に、何かをお母さんがして、それでモノノケが赤ちゃんに入り込むという話。
何かの拍子で、物の怪に取り憑かれる話。
そういう話が、昔、たくさんあった。
物の怪の世界があった。
今の世の中、物の怪の物語が語られることは少ない。
ヒーローものの物語は「強くなっていく」「強い心をみせる」「仲間と出会っていく」ような流れ、「こんなんに立ち向かい、克服する」「執念を曲げない」みたいなこと。
いろいろな漫画が溢れている。
アニメは、SFのような、特別な能力をもった登場人物たちがどんちゃかやるかんじ。もしくは、青春のドラマを甘酸っぱくみせるかんじ。
憧れを抱いたり、「すげー」とかおもうような内容。
そんなアニメの中で多くのことを学べる。僕も「殺せんせー」から学ぶことがたくさんあった。日常生活では出会えない言葉たちとの出会いがアニメの中にはある。
哲学的なアニメもたくさんある。「涼宮ハルヒの憂鬱」とか「PSYCHO-PASS」とか。世界とは何か。法とは何か。正義とはなにか。漫画でも「思考・認識」を意識させるものがたくさんある。「バカボンド」とか。誰かに感情移入しながら、俯瞰的に眺められる、耳を傾けられる物語は、心の成長のために大切なことだとおもう。
一番肝心なのは、自分自身が今、置かれている、演じている物語だ。自分劇場。自分の心をみつめ、言葉を発する劇場。
話がそれた。物の怪の話。
世の中には物の怪が集まっている。物の怪には力がある。物の怪の世界がある。物の怪の世界はすぐ近くにあるが、たいてい、みんな蛍光灯の下で働きすぎで気がつけずに取り憑かれてそのままになる。みんなが物の怪に気がつかない方が、得をする人たちがいるのだ。気がついても、どうしたらいいかわからないことがしばしば。
世の中にはお化けが、物の怪が、怨霊が、妖怪が、モンスターが、たくさんいると思っておくだけで、気が楽になれないだろうか。その人は、取り憑かれているだけなのだ。
親から子どもへと、受け継がれる類の怨霊も、いる。
よし!絵本!
「メデタシメデタシ」の物語には要注意!?『絵本と童話のユング心理学』より学ぶ
子どもが死についてよくよく考えていることは前にどこかの記事で述べた。 で、最近本を読んで感動したので書き残しておきます。子どもすげー!!!!! 子どもは、大人の都合、不自然さ、不条理、違和感を敏感に感じるのでしょうね。
『かさじぞう』に関して、私が大変驚いた出来事をひとつ話そう。たしか小学6年生になる女の子であった。この『かさじぞう』を読んで、こんなことをつぶやいていたのである。「おわりの方が気に入らないな、なんだかうそだって気がするもん。私だったら、こんな終わり方にしたいな」 1、2年前でしたか、文部省がこの作品は非常に暗い、日本にはこんな貧乏人がたくさにるのかと、アメリカやソ連に思われたは困る、だからこれを削除せよ、と先生方に指示しました。それが話題になり、新聞記事になったことがあります。 娘の小学校の先生も、やはり賛成はできないが、子供たちの反応を見ようと思って話され、あとでどう思うかと聞かれた。その時、うちの娘が「こんな話はうそだ」と言ったそうです。私はその話をたまたま小耳にはさんだので、娘に、お前だったらどうする、と聞いてみたのです。娘はすでに作文に書いてはっょうしていたのですが、先生はそれに✖️をつけていた。それで娘は、大変怒っていましたが、それにはこう書いてありました。「おおみそかの晩、外はすごいふぶきなのに、じいさまとばあさまは食べるものがないので、つけなかんで、お湯飲んで、寝ました。(つけなってなんだと聞くと、「知らへんの、つけもののことや」)。正月になって、とうとう何もなくなり、二人は静かに息を引きとりました」ええ!とびっくり、これでは先生が✖️をつけてあたりまえだと言うと、娘は黙って聞けと言う。 「さて、次の年のおおみそかのことです。一人のしょうにん(この「しょうにん」というのを、私は親鸞上人とか法然上人の上人と解釈して、えらい話になるなと思ったのですが、これは商人のことでした)がふぶきの中を歩いておりました。すると向こうに、かさをかぶったおじぞうさんが立っています。かさからは、つららがさがっておりました。かぞえると、かさをかぶったおじぞうさんは、全部で8つでした。おかしいな、去年はたしか6つだったはうだが。何回もかぞえなおしましたが、やはり8つにまちがいありません。8つとは珍しいことだわい、と承認はそっと手を合わせましたが、ああ、道くさくっとると日が暮れるわい、早く帰って正月のもちつきのよういさするかと、ふぶきの中に消えて行きましたとさ」 こういう文章です。私はびっくりしました。この八地蔵の話は誰が教えたわけではなく、彼女が自分なりに作ったものです。(『絵本と童話のユング心理学』p.238 山中康裕)
「めでたしめでたし」の物語は、編集されている可能性がある、ということです。 学校の進路指導も同じですね。
理解できない行為への問い「なんでそんなことするの?」への答え方
人は人を理解できない。
他人はとなりの銀河のごとく、まったく離れていて、計り知ることができない。
と私はおもっている。
けどもその銀河にも、別の宇宙にも、きっと僕のいる宇宙と同じ法則が働いているのではないかという期待もしている。それは人間らしさであり、人間性であり、「相手には自分の知らない意図や意識がある」という世界の捉え方だ。理解不能な行為がなされたとき、だれでも素直にこう心で呟くだろう。
「なんでそんなことするの??」
この問いへの答え方は、2つあると僕は思う。
一つはタテマエの空間。問いへの典型的な答えは「そうすることになっているから」だろう。組織によくある空間。新しいこと、心の動きではなく、過去を引きずって今と向かい合えない空間だ。後ろ向きで喋っているようなものだ。タテマエ空間では、人間が意図していない。過去が、心なき組織が作り上げた過去の亡霊の口ずさむ呪文のような響きが帰ってくるだけである。(組織を守るためには仕方がない!?)
もう一つはホンネの空間。これはまさに、今、目の前の他者に感じる“不自然さ”を、〈かつて・あそこ〉ではなく〈いま・ここ〉でおこっていることとして理解しようとする切実な要求である。
もちろんこのタテマエの空間とホンネの空間は混ざり合うことができる。混ぜ方によっては人を騙すこともできるし、人を救うこともできる。(心の仕組みを知っている人が人の心を積極的に操作することで、人を救うこともできるし、殺すこともできる)
「なんで学校に行かなくちゃいけないの?」この問いに、この問いを発した心に、面と向かって答えることができるだろうか。答えられることはないかもしれない。それでも向き合うことができるか。本気で、心からふり絞られた言葉を、意識を、タテマエ空間に分離して切り離される経験を重ねてしまえば、心はきっとバラバラになってしまうだろう。切り取られる苦痛に耐えられなくなってしまうだろう。
理解できぬ他者との切実な出来事が、心を他人に開く、ホンネの関係をつくりだす心を生み出す。この“切実な出来事”が生まれる場所は、いったいどこにあるだろう?
共感する心を、向き合う心を働かせたとき、人は自分の宇宙を超えて他人の宇宙へと飛び立つような、もしくはお互いの宇宙を離れてその真ん中で出会うような感覚になるかもしれない。(シャーマンなどは完全に向こうの世界にまで行ってきて、また戻ってこれるからすごい)人はいつでも、宇宙旅行にいける。
世の中は多くのタテマエ空間がある。この空間で心をすり減らしているのは子どもだけではない。大人もだいぶこの空間にやられている。タテマエ空間は、社会的な空間と言えるかもしれない(心あるタテマエ空間といえる場所もあるだろう)。このタテマエ空間でいかに生き残るか、と言う課題が、多くの子どもにとっては、重すぎる。学習環境として、タテマエ空間が適しているのか。会社と同じでいいのか。その子が判断できなければ、親が判断して、心を守ってあげるのも、いいかもしれない。
【都知事選と前頭葉と大西つねきさん】選挙というコミュニケーション方略ゲームに勝つ方法【言葉のリスクを冒さない】
都知事選での山本さんと小池さん
「政治の話をしましょう」と生徒から話がでてきた。 「都知事選で学んだこと」がテーマだ。 生徒から、すごい人を教えてもらいました。都知事選に出ていたみたいです。 都知事選に投票できたら、後藤輝樹さんに票を入れていたそうです。「選ぶ基準は?」と聞いたら、「面白い人だから」だとのことでした。 たしかに、まともなことを言っている・・・まともなこと(正しいこと)じゃなくて、綺麗事を言う人が当選するようだ、ということを僕は学んだ。(もちろん、自分が所有している「株」の価値を上げるために小池さんに票を入れる人もたくさんいるだろう) 山本太郎は「東北の食べ物」を食べないといってアンチの人がいるのがツイッターでわかった。 実はユーチューバーのヒカキンも「東北の食べ物」を食べないと発言した動画があったらしいが、消した、のだという。(生徒情報) 健康のことをきちんと考えている、と思えばいいのだが、「ひどい!」と扁桃体で感じてそのままの人は「ひどい!」と感じてそのままだ。お金のために「原発事故」をそのままにしても「ひどい!」といわずに、「食べ物安全、福島にきてね」アピールがお金のためであって健康のためではないということをきちんということを「東北の食べ物を食べない」と言葉にした人が、「ひどい!」といわれる。 安全の検査が・・・というが、コロナの件、学力テストでもわかるように日本の検査のズサンさはごくごく自然なこと。 防腐剤、保存料、調味料漬けのマックを食べても死なないように、放射能がかかった食べ物を食べてもすぐには死なないだろう。けどそれは「健康的ではない」と言っただけのこと。 けどその言葉は多くの人の「反感」をかった。(健康のことを考えるのは、いいことじゃないの?) 言葉にはリスクがある。 どのようにも「感じる」ことができるからだ。 「感じる」人の心次第で、言葉は祈りにも呪いにもなる。
「理解し合えない」のは、伝わらないのは、どちらのせいか。安冨さんから学んでいます。 https://t.co/oFSGHwVNY5 https://t.co/X0FVnoavaq
— otononeオトノネさん (@otononesan) July 16, 2020
「反感」する人は、前頭葉が発達していない。 と僕は解釈する。 なぜ、「言葉には齟齬がある」ことを知り、その発言が「彼は健康を大切にしている」という意味でとらえられないのか。 なぜ、他の候補者が「沈黙」していることをきちんと話す心が感じられないのか。 扁桃体で直感的に「きらい」か「すき」かを判断して、その言葉の解釈ができない。 すぐに「嫌悪」や「快楽」の反応にして受け入れてしまう。 前頭葉が発達していなければ、自然とそうなる。 もちろんその反応は「自然」だ。 だけど「ちょっとまてよ?」というのが、前頭葉。 「沈黙」は、「前頭葉の未発達」な大人同士のコミュニケーション方略なのだ。 ということを、都知事選で、学んだ。 「脳」が関係しているのだから、「すったもんだ」言い合ってもしょうがない。 お互いに伝わらない、「ひと」と「ひと」にありがちなコミュニケーションだ。
これが「ひと」と「ひと」は理解し合えないと割り切った人間同士のコミュニケーション方略。 https://t.co/U7iPB1o5oj
— otononeオトノネさん (@otononesan) July 17, 2020
SNSでもなんでも一方的に言い合うだけ、だ。。。。。 だから、子どもは、大人と関わらない方がいいのかもしれない。 「沈黙」するコミュニケーションを学んでしまうから。 「学び合わない」コミュニケーションを学んでしまうから。 ということを、都知事選で、学んだ。
言葉はリスクが伴う。行動は安全。やってしまえば角が立たない?それもコミュニケーション方略の一つ?「当事者がないから角が立たない」という前提があるのだろうか。政治界のゲームマスター?? https://t.co/wN9LEIqqDj
— otononeオトノネさん (@otononesan) July 17, 2020
ヒカキンとはじめしゃちょう
面白くなってきたので生徒に聞いて見た。 「ヒカキンとはじめしゃちょうが都知事選にでたら、どっちに入れる?」 ヒカキンに入れる生徒の理由 「はじめしゃちょうはルックスもいいし地位も名誉も金も持っているからはじめしゃちょうにはいれたくない」 はじめしゃちょうに入れる生徒の理由 「富山県出身だから」 うーん。 大人も高校生もあんまりかわらないのか。 興味や関心、情報量が少ないから、選ぶ基準がない、という状況は大人も子どももかわらないようにおもう。 僕は、次の二つの動画を見比べたことがあるから、はじめしゃちょうにいれる。 はじめしゃちょうは実験の重大さをきちんと伝えている。
ヒカキンは危険な実験に子どもを巻き込んでふざけている。 逃げながら笑っているのは、多分事前に「爆発する」ことを知らせていたから。
抽象の効果ーそれは芸術か、それとも、残骸か。
僕のはなしは、デカイ、でかすぎだ、抽象的だと言われていた時がある。社会ということば、たしかに大きい。話の対象になる言葉は抽象的かもしれないが、話自体は具体的、「ニク」を伴っているとおもってはなしているのだが。今気がついた。societyという言葉を、日本人は、どうして「世間」と訳さなかったのか。日本語は誰のものか。日本の文化は誰のものか。そうか!「社会」という言葉は学術用語なんだ!けど「社会」という言葉は小学校二年生で習うらしい。「シャカイ」とカタカナにしてもまったく違和感が感じられないほど、この言葉は奇怪だ。「社」に「会」。まるでこの言葉に戦後復興のオモイがかかっているかのようだ。誰だ、この漢字を充てたのは。福地源一郎さんだ。戦前だから僕の仮説ははずれた。しかし日常的に社会なんて言葉は使わない。社会貢献、社会活動、社会的発言、そんなものは会社とか組織が使う言葉だ。私たちの暮らしとどれだけ関わっているだろう。「世間の人のためになる」でもいいじゃないか。ハイカラなのだろうか。たしかに、そういう時代もあった。日本は、自ら西洋文明を取り入れる選択をした世界唯一?のアジアだから。だから僕たちは世界一おかしな人たちだともいえる。僕たちは日本語を本当に使っているんだろうか。「社会活動」=「ゴミ清掃」のような翻訳を通じてしか理解されない「社会」。「社会」そのものはわからない。この言葉の使用法を、だれか本当に研究したらいい。その文脈を、洗いざらい調べたらいい。教師は「社会に出て役に立つ人間になれ」とかいう。犯罪者がテレビで「社会への恨みだ」という。「社会に出る」とはなんだろう。=「学校を卒業して」といういみだ。どこに行くことになるのか。「学歴社会」とはなんだろう。人が恨む「社会」とはなんだろう。こうして生身の体を失った亡霊がそこらじゅうを歩き回っているとおもうと、身の毛がよだつ。(身の毛がよだつとは、なんとしっくりくる日本語なのだろう!)日本語はいま、誰の言葉なんだろうか。亮仙センセイはいっていた。日本人の歩き方は日本の本来の歩き方でもないし、西洋の歩き方でもない、どうなってんだろうね、と。日本語は誰のものか。 木戸センセイが言葉を謹んで使わなかったかもしれないその気持ちも、わかる気がする。木戸センセイが気になって展示会のHPをみてみた。
今回、コンピュータによるプログラミングを時代に先駆けて作品制作に取り入れつつ、一貫して「らせん」をテーマにステンレスを中心とした金属素材における彫刻の可能性を追求し、彫刻科を牽引してきた木戸修の作品を、初期作である1980年代から新作を含む約30点の彫刻の展示に加え、
云々とある。ステンレスだった!ポイントは「金属素材における彫刻の可能性を追求し」という言葉。なぜ、どこかの展覧会の紹介文をコピーしたかのような文章になるのか。本人が口に出せないことなら、誰かその意を汲み取って、意味を足してあげてもいいんじゃないか。せっかく言葉を使うんだから。とおもったら、足してくれていた。
本展は、東京藝術大学が130周年を迎える今年、生命の根源や、時空の連続性を思わせる作品を、本学の歴史を感じさせる陳列館という場に提示することに大きな意味があります。
作品と同じ、抽象的な言葉。この如何様にも伝わりうる抽象的な言葉から、何をおもうか。どんな解釈にも耐えるからこそ、便利に使われる。それを力強い渦に例えることもできる。それを音楽だとすることもできる。無限という概念にしたのであれば、応用はいくらでもきく。また円であるから、融和のシンボルにもなる。この抽象さをささえる強力な文脈はどこにあるのだろう。きっと世の中にあるのだろう。ではその世の中とは、なにか。「世」とは?僕は教育者として、治療者として「世」に関心がある。抽象で溢れている。解釈で溢れている。直接ずばっと身体にはいってくる言葉の使い方をすることが難しいこの世の中。蛇という言葉を知っていても、蛇を動物園で拝むしかない子どもがいる。現在、蛇はペットであり、恐ろしいものではなくかわいい生き物になっている。もっと血なまぐさい、別の現実をしらない。蛇を通じて象徴化されてきた生々しい現実、災害、祈りを思い出すことができない。僕は思うのだ。「この世」の蛇と「かの世」の蛇は違う。体験を欠く言葉、体験を欠く概念と子どもをどう結びつけるか。語りのチカラが試されるところだ。社会という言葉があるなら、それをいかにか使っていこう。例えばこういうことだ。バブルが終わった今、経済成長とは何を意味するか。僕らは、新しい時代の人は、経済成長という言葉を別の意味で、別の経験として、別のチカラとして、別の文脈で使ったほうが、いいのではないか。 ぼくがこうきかれたとしよう「こころってなんですか」。僕はどう答えるだろう。生きて死ぬだけなのに、いろいろ悩んでしまう。言葉など、知らないほうがよかったのかもしれない。だけどやっぱり僕には伝えたいものがあるから、声に出してこういおう。「それは君がたいせつにしなくちゃいけないものだよ」。言葉は少なめに、行動してみよう。大切にしてみよう。大切にする経験こそが、大切さという言葉を支える。時空の連続性を思い起こすには、時空の連続性を経験したほうがいい。しかしどうしたらそれができるだろうか?アーティストとして、僕はまた考えてしまう。 まずは、身の毛がよだつ経験を、みんなしてるのはどうだろう。 怖い映画を見に行こうか。
東京藝術大学の芸術家教育
民俗学を勉強していたときから東京芸術大学にはお世話になっている。門をくぐると、どかんとぐるぐるしてキラキラしたオブジェがあった。このぐるぐるをみて、日本人が何をおもうのか。この人の考え、というものが、あるのだろうけれども。僕にはその声を聞き取ることができなかった。木製で、朽ちていく作品はどうだろうか。僕は夢想する。一本の立ち木を、人工的に、ぐるぐるにする。それはすごい技術だ。そして、一本の気がぐるぐるになっているのなんてみたこともない!そんなものが人を動かす。驚かせた後に、作品は何を語るか。言葉ではない語り。インドネシアのアーティストはvisual textといっていた。言葉とは便利なものだ。 その後、ベンチに座ってコーヒーをしばきながら学生に話しかけた。何を専攻しているの?三味線。なんで大学で勉強してるの?習い事でもいいのに。文献調査をしているから。といった会話。僕は聞いた。「あの門に置かれていたぐるぐるしたオブジェ、みましたか?」そうすると、卒業生だ、という人が一口でこういった。「この景色の方がいいですよ」そこには落ち葉がふらふらと風に流されながら落ちていく、時間が、日差しに彩られた光景があった。キレイだな、と思えた。僕は彼らに話しかけるのに夢中で、風景に気がついていなかった。一言で、僕の感じていた世界がかわった。彼の一言は、僕にとっては、お金を相当つぎ込まれてつくられた芸術作品よりも彼の一言に価値があった。彼の一言は芸術だと僕はそう感じた。その言葉を、その場面を、どのように再現し、もしくは何かに止めようとするか、そして語りつづけるか。たとえばそれが、芸術家の仕事といっていいと、僕はおもう。 はなしをしていくうちに、「芸大の8割は世の中から消える。消息が絶たれる」というはなしを聞いた。大学で社会に出る方法を学ばないの?ときくと、それは大学を出てからひとりひとりが勝手にやることだから。と割り切っているようだった。いや、そこは教育でしょう。教育はどうして、社会に無関心でいられるのか。ああ、そうか!大学は教育機関ではない!研究機関だ!生徒は自立しているものとして、迎え入れられていると。なるほど。納得だ。そうあってほしいものだ。日本には社会がなくて、世間がある。だから仕方がないのだ。 はなしをしてくれた学生と卒業生に別れの挨拶をした。「お互い、消えないように努力しましょう」と。儚く散るも一興、それも日本人の人生感なのだろうけれども。この世とあの世の間で、霞を食べてでも。さて、世間という言葉はいつから使われるようになったのだろうか。 ーー 追記 あのあと、もう一度コーヒーをしばきにいった。石をトントンしている人がいたから聞くと、学生で、彫刻専攻だという。あのオブジェのことを聞くと、展示会をやっているからみにいったら、いろいろわかるのではないかとはなしてくれた。「作者がどんなこと考えてあの作品をつくったのか」とはなす。すると彼は「考えて作る、というつくりかたもあるけれど、僕はおもしろければいいとおもっています」みたいなことをはなしてくれた。どうして自分の作品にこの石を選んだの?と聞くと、好きだから、という。どうして角々したのを砕いて使ってるの?ときくと、表面がキラキラしていていいとおもったから、と。さて、せっかくだから展示会に行ってみた。木戸修センセイが定年を迎えた記念の展示会だという。会場の最初に書かれている説明には作者の作品が「なぜスパイラルなのか、なぜ金属なのかということをきかれても、うまく答えられた試しがない」というようなことが書いてあった。受付の学生に「なぜかってきいても、答えてくれないんですか?」ときくと「あいまいにされていました」と。 試しに僕が、この作品を、作者の何かの表現だとしてみてみよう。それは言葉で語られていない。ただそのこころを知ろうとしてみよう。コレはすべて予測だし、作品と僕との関係であって、作者と僕の関係ではない。作品が独立している以上、その生みの親が誰かということとは別に、僕が向かい合ってかんじたことを言葉にしてみよう。そして僕の想像は間違いなく、作者のこころに向かう。 展示品をみて、この作品の作者が、幼いころにみた万華鏡になにか思い入れがあるのかなとおもう。自分の作品のことを言葉ではなせないというのは、それを自覚することなく、ひたすら作品を作り続けることで、その思い出と付き合おうとしていたのかな、という想像がでてきた。おもいを別様にめぐらせることもできる。この作品は、孤独な作者と誰かを結びつけて遊びの場を準備するものだと。人にわかるようにいたずらをする子どものこころ。もしあの会場に作者の木戸センセイがいたら、「こどものあそびが、むかしとかわりましたねぇ」と、きっと僕は話しかけただろう。鋳型に流し込まれ、計画され、傷一つなく完成しうる作品生成のプロセスにも(もちろん切断面を磨く工程はあるのだろうが)、作者のこころが潜んでいるかもしれない。今になってきになる。あれは、錆びない金属だったか。錆びないだろう。だってピカピカしていたから。係の人がいつも手入れをしている?手のかかる作品、もしかしたらそれが狙いか!作者自身を、僕は作品に映し出す。だって、その人が生み出したものなのだから。 作品が、何かを語っているとしよう。そして僕はそれに耳を傾けてみた。 しかし僕が語り返す相手はいない。芸術作品をみて、どうして僕は孤独を感じるのだろう。
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