スクール・バイオレンス

小1プロブレム・中1ギャップ・高1クライシスと不登校・ひきこもり

 

小1プロブレム・中1ギャップ・高1クライシスはすべて「環境の変化」がお子さんにとって「つらい」ものであった場合に起こってくる現象です。

大人と同じで、子どもにとって大切なものは人間関係です。

同年代の子との関係。

先輩や後輩との関係。

先生との関係。

そして、親との関係。

これらはすべて「心のお守り」や「命の強さ」を育てていくきっかけになると同時に、子供の成長を大人が助けなければ、学校という戦場に子供を送り出すのと同じになってしまいます。

お子さんは、どんな心をもっていますか?

どんな命をもっていますか?

もし「小1プロブレム」「中1ギャップ」「高1クライシス」だとおもったら、お子さんの姿をみつめる、そして学校という世界を見つめ直す機会にしてほしいとおもいます。

なによりも、お子さんが「よりよい自分」に成長していくきっかけになれるように、大人が子どもを支えていきたいとおもいます。

小1プロブレム:保育園・幼稚園の影響がある

2つのケースが考えられます。

  • 保育園で命と心の発達が阻害されてきたケース(対応が不可能)
  • 小学校という場所で心を守るしくみができていないケース(大人が助けたら対応可能)

 

保育園は子どもにとって安全なところだとは限りません。

そこにいる大人が子どもにとって最大の環境です。

僕が見た最悪の保育園は・・・・

神戸のカレー事件を覚えていますか。

 

あれと同じことを毎日子どもがされているのを、想像できますか?

前頭葉は愚か海馬まで萎縮する暴力が行われている保育園があります。

イライラを子どもにぶつける大人、たくさんいます。

大人が、子どもを壊している現実があります。

 

子どもを愛する技術をもった、心をもった大人と出会えた子どもは、幸せです。

 

子どもの発達についてはオトノネのページで学べます。

放課後の図書室☆オトノネ
放課後の図書館☆オトノネで「知」を育ててやさしい人になりませんか? おとのねさんが新曲作ったってよ! 最上川舟唄くずれ【巡音ルカさん】くずれました(´∀`∩ こっちはその一つ前のです。 成長した【初音ミク五重奏オリジナル】雨の日に/落ち着く

ストレスが子どもを成長させる面もあれば、助けがなければ、ストレスに圧倒されれば、子どもの脳は壊れます。

壊しているのは大人です。

ーーーー

小学校という環境で戸惑う、という程度のプロブレムもあります。

それは「椅子に座る」ことであったり、「話を聞く」ことだったりします。

でも実はこれも、保育園で発達が阻害されていることが原因であることがほとんどです。

姿勢を保てないのは体が発達していないからです。

話を聞けないのは、姿勢が保てずに不安定だからです。

また、言葉を使ってやりとりする、家でも保育園でも言葉を使って会話するという経験がなければ、「話」など聞けるものではありません。

発達は積み重ねです。

 

もっと個人的、性格が影響する「プロブレム」もあります。

「学校が合わない」という子です。

小さなガンジーです。

自分の命を大事にするためには、小学校が「プロブレム」になる子がいます。

 

小一プロブレムだ!とおもったら。

小学校に入るまでに育った子どもの心、命、そして脳(体)を見つめ直してほしいとおもいます。

そして、学校という暴力で暮らす子どもの気持ちに耳を傾けてほしいとおもいます。(といっても、小学生で自分のことをそのまま話せる言葉の力、自我が育っている子は少ないと思うのですが。読み取ってあげてほしいとおもいます)

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中1ギャップ

中一ギャップの前に、小学校中学年、高学年の頃に子どもは質的な変化をします。

「良い子悪い子」の価値観が強くなったり、「わたしは・・・」という内言が強くなる時期です。9歳の大切さについてはこちらのページをご覧ください。

発達心理学の棚
発達心理学を学んでやさしい人になる 発達心理学を学んでやさしい人になる 児童発達、発達心理学の参考にした本は主に次の4つです。たくさんの本を読みましたが、次の4つをお勧めします。 『“わたし”の発達―乳幼児が語る“わたし”の世界』岩田純一

 

この時期を経て、中学校に入ります。

新しい人間関係をつくらなくてはいけません。

小学校の時には「子どもと子ども」が自然に仲良くすることができたかもしれません。

けれども、中学生になると、9歳を超えて自我が強くなっている状態です。

前頭葉、認知能力、社会的なスキルを使って自分で人間関係を作らなくてはいけなくなります。

 

小学校のときにもいるかもしれませんが、中学生になると「破壊的な関係」をつくる子が目立ってくるかもしれません。心が荒んでいる子とも関係しなければならないかもしれません。

アニメを見ると、子どもたちが人間関係、友人関係に多くのエネルギーを使い、消耗している姿が描かれています。(楽しい!アニメがほとんどですが)

また学校では「テスト」「成績」がストレスになります。

 

学校の大人たちは成績で子どもを評価しがちです。

そして、評価するだけで、一人一人の悩みや関心ごとには無関心な大人が多すぎます。

そうした無邪気な、無神経な大人たちとも関わらなければいけません。

これは大変なことです。

中1ギャップと呼ばれている現象は、こうした人間関係に子どもが耐えられない、という現象を表す言葉です。

 

大人の助けが必要です。

 

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高1クライシス

高校生になると、中学校のときに「高校に行ったら!」という願いが打ち砕かれる子がいます。

高校になると、中学校よりもさらに学校という場所が暴力的になる傾向があるからです(特に自称進学校)。また、中学生の間に人間関係を通じて育っていくはずだった命や心が成長していなかったり、逆に弱まっているケースもあります。

自称進学校に行った場合、学業についていけない、ということもあります。

中学校では「できる」子が、高校では「できない」子になる。

それは当たり前です。「できる」子が集まっているわけですから。

 

自分がもっていたイメージが変わってしまい、心が追いつかなくなる。

そういった子は無理をして体を壊すこともあります。

高校になると、部活動が過激になることもあります。

中学校では楽しくやれたのに、高校になったら・・・というケースもあります。

「部活動」のために学校に来ている教師が自分のプライドのために子どもを傷つけていることもあります。

 

すべては、大人が作り出したクライシスです。

プロブレムも、ギャップも、クライシスも、すべて大人が作り出しています。

そして大人が手助けすることでしか、子どもは助からないかもしれません。

 

助かったとしても、学校という場所に適応するために自己欺瞞、自己憐憫、自己嫌悪を募らせているかもしれません。問題は、積み重なっていきます。

大人になってから、「はっ」と気がついて、自分の中に秘められていた自分の命や心を見直す人もいます。僕自身がそうでした。

その時も、誰かが助けてくれなければ、自分で助けを求めなければ、僕は成長していなかったでしょう。

 

お子さんの成長を助けてくれる他者が、大切です。

自己心理学

 

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    1. 小1プロブレム:保育園・幼稚園の影響がある
    2. 中1ギャップ
    3. 高1クライシス
  1. 学校行きたくない、お腹痛い、しんどい、不登校は甘えじゃない!SOS!
    1. 学校とは?
    2. 学校のネグレクトに気がつく「学校、行きたくない」は悲痛の叫び?
  2. 不登校とひきこもりで学校の洗脳・暴力から子供を守る。
    1. 学校が嫌だという子のための教育機会確保法
  3. 学校が憂鬱な子どもの「心」の風景:小1・中1・高1の環境の変化
    1. 子どもの「嵐」を受け止めて!
    2. 二次的な情緒の問題
    3. 子どもは葛藤している。
    4. 意欲を、好きな気持ちを殺ぎ取るとは?
    5. 【ずっと小学生その2】学校がつまらないのはどうしてか
    6. 教えてはいけないこと
  4. 学習障害・不登校は呪いの言葉?祈りの言葉?不登校とひきこもりの意味
    1. 学び方には一人一人特性がある。
    2. 心は言葉。
  5. 【クライシス・プロブレム・ギャップを生み出す無関心・無関係な「閉じた関係」
    1. 小1・中1・高1で出会う?子どもの発達要求を無視する大人との関係
      1. 子どもの発達への意志(「命」)
    2. 「閉じた対」とは?
    3. 「無知」「無心」による目の前の「人間」への無関心
  6. 子どもの成長が学校という環境に影響を受ける例『発達相談室の窓から』
    1. 1)発症から治療・訓練を経て小学校へ(発作がいったん消失を経て再発する3年生まで)
    2. 2)発作の再発と心身症的症状の出現……心理的葛藤のなかで揺れ動いた前思春期(3年生から中学部1年生まで)
    3. 3)思春期の変調のなかで……重積発作の出現、心身症状の悪化……嵐のなかでの「引きこもり」(中学2年生から現在まで)
    4. 学校の先生は悪者か
  7. 子どもの暴力(「怒り・嫌悪」の表現)を肯定する大人の暴力におとのねさんが心いためちゃった件
  8. 高度経済成長期を夢見ながら産業革命(近代)の名残を残す化石のような教育を動かすもの。
    1. 学校教育とお父さんのイライラの関係

学校行きたくない、お腹痛い、しんどい、不登校は甘えじゃない!SOS!

 

成績が伸びないと悩む前に知っておきたいことがあります。

人生がリッチになる「命」の育て方と、「心」の守り方です。

学校とは?

まずはじめに。 「学校は成績を上げる場所ではない」です。 「学校は学校という試練を与える場所」です。とある高校生の言葉を借りれば、「お昼休み」です。

試練にどう向き合ったらいいのかは、「学校」は教えてくれません。 お子さんが、お母さんが答えないといけません。 お子さんにとって「学校」はどんな試練ですか?

試練が辛すぎて、「命」が閉ざされていませんか。 試練が苦しすぎて、「心」が擦り切れていませんか。 「学校は学校という試練を与えるだけの場所」です。 学校の外で、誰かがお子さんを助けてくれていますか? 「学校」という試練に向かい合うそのやり方が、お子さんの「自然」を作り出していきます。

「学校」は試練しか与えません。 だから「学校」の外で学ぶことが、「学校」という試練に向かい合う力になります。 お子さんは「学校で生き抜く」スキルをもっていますか? 戦場に丸腰で送り出していませんか。 学校の教師の人間性の低さが子どもたちの人間性を、豊かさを奪っていきます。 アニメ、音楽、子どもたちが発信し、共感する文化をみれば大人でも感じることができるでしょうか。 コメントに注目です。

このたかやんという人のコメント欄は共感を求めている人のコミュニティーになっているようです。

学校のネグレクトに気がつく「学校、行きたくない」は悲痛の叫び?

おとのねさんは、ふと、気がつきました。

学校で学ぶべきことを学べず、お母さんが家で教えることになっているって変じゃない?
あまりにも当たり前に暴力的なことをいうから、気づかなかった!DVと同じだね!

学校教育の原理を家庭にまで持ち込むんだから、そりゃぁ、暴力ですよ。
宿題を家でやってくる前提も暴力だし、さらにお母さんに教えさせるなんて、甚だしい暴力だ。

けどそれが「自然」だから、やるせない。
みんな「宿題をして当たり前」「わからなかったら親が教えて当たり前」になっている。

いやいや、それっておかしいから。
学校が仕事サボっているだけだから。
学校がそもそも無理なことを子どもにさせていて、親に負担を背負わせているだけだから。

あまりにも暴力が普通すぎて、当たり前に暴力が目の前にありすぎて、それが「自然」な富山県。

さて、どうやって生きようか。

言われないと気づかない、なかなか気づかないことがある。

不登校とひきこもりで学校の洗脳・暴力から子供を守る。

「子どもに選ばせています」というお母さんがいる。

なるほど、聞こえはいいかもしれない。
とても「自然」に聞こえる。

しかしこういうこともある。

このような「全体」をみれば、「不自然」に聞こえるだろう。

「選ばせている」といいながら、一部ではしっかり管理していたり。
まぁ人間はそういうものなのだが。。。

どこまで責任を負わせるか。
中学生ならどこまで?
そういった見極めをするのが、大人であるかもしれない。
いやいや、「これは無理」とか「こういう助けが欲しい」という言葉が子供からでてくるように、小さい頃から関わりあうのがいいのかもしれない。

きっとそうだろう。
子どもを賢く育てるとは、そういうことなのだろう。

例えば変質者が「向こうのお友達もあとでくるってよ」といって誘拐しようとするとしよう。
変だな、とおもえたらいい。

「友達がくるんだったら、いかないとな」という心で溢れてしまっていては「いや、やっぱり変だ」と思えないだろう。
心の隙間を、魔王は狙ってくる。(世の中に溢れている商品などは、全部消費者の心の闇をターゲットにしている。塾がそうだね)

心のあり方を育てなければ、子どもを檻に閉じ込めておくしかない。
檻の中で学ぶことはない。

ひきこもるのではなく、閉じ込められている子どもが大変多い。

ーーーーー

本当に自分で選べていない人生を、多くの子どもは送っている。

人生を、お母さんに決めてもらう。
選択をお母さんにしてもおらう。
その習慣がつく。

「こうしたい」気持ちを認めてもらえない子は、喋るのをやめる。
主張するのをやめる。心を閉ざす。

受け身。
目の前に誰がいるのかわからない?
「あなたの心はどこにあるの?」

ーーーー

社会的参照、という言葉がある。


『マシュマロテスト』ウォルター・ ミシェル.1歳児の【社会的参照】は大人でも有効な件。情動調整のためのリラックス。励まし。


「いいの?わるいの?あぶないの?大丈夫なの?」「どうしたらいいの?」ということをお母さんに聞くことだ。

子どもが何かしようとしていることを、励ますことだ。

したくもないことをやれやれということではない。
したくもない勉強をさせに塾に通わせることではない。

それができるのが、1歳だか1歳半だか、はいはいを始めたり動き出して、お母さんのそばを自分から離れるようになってから。それは身体的な「離れ」であり、同時に心理的な「離れ」でもあった。

それが大きくなるごとに、成長するごとに、どんどん「離れ」でいくのが、自然なはずだ。
それを、親が離さなかったらどうなるか。

心の成長が止まる。

自分で決定できない。
自分の身を自分で守れない。
誰かのいうことを聞くしかない。
自分に自信がない。
代わりにエンタメでやりすごす。

ーーーーー

子どもが巻き込まれる「自然」には、モノというものもある。
スマホが最たるものおだろう。
スマホに親が求めるものは?なぜ使わせる?どうつかったらいい?
結局、スマホもスキル。メタスキル 次第で、使い方は変わる。

子どものためにピアノを買う、というのは、どういう「自然」なのだろうか。
ピアノが上手くなるように?
けどそれは本当にその子が望んだこと?
その子にとって、家にあるピアノは、「練習しなくちゃいけない」ただの呪物かもしれない。

ピアノという、目の前にある「自然」は、子どもの心をどう作り上げているのか。

情報も「自然」の一部だ。

お父さんお母さんの口にする言葉。
テレビから流れてくるニュース。
ドラマ。

それを処理して行く心ができているだろうか。

「勉強」「宿題」という言葉を、子どもたちはどう受け取っているんだろうか。
「寝る時間」を内在化できないで「眠らされる時間」という規則としてしか受容できない。

自己管理ができない人間になるのだ。

ーーーーーー

「自然」とはなんだろうか。
これは僕の高校生の時の問いだ。

自然という言葉に僕は憧れを抱いていた。
なにか素晴らしい原理を含んでいるように思えていた。

自然を守ろう!

だが、人間という「自然」な生き物をこの歳までよくよく見ていると、自然がとても不自然に思えてくる。

自然を守ろう!

という言葉のオトノネは何か。

僕は「自分の自分らしい姿を守ろう」ということなのだと今は思っている。
だから、その子のその子らしい姿は何か。この問いを、オトノネにくるお母さんお父さんに投げかけたい。

オトノネは、お父さんお母さんと一緒に、その子のその子らしさを守る自然を育てたいとおもっています。

ーーーーーー

「自然」とはなんだろうか。

「魔王」がいたるところにいるこの世界(学校は特に密度が濃い)で、「魔王」に支配されることが、「自然」なのだろうか。
むしろ、「魔王」に対する免疫力、抵抗力、心の強さを作り出すこと、つまるところ「魔王に心を支配されない」「魔王に利用されない」ことなのだとおもう。「自然」に負けない、これが「自然」なのだ。「自然」を知らずに、「自然」を語れない。

で、「自然」って何なの????

 


【こどもの「遊び」は魔法の授業】8歳、9歳から思春期までの子どもの発達課題(=お母さんの宿題)。
教育とは何か。なぜ、日本人は握手をするようになったのか。【お子さんに宿題を「やらせる」前にお父さんお母さんがやらなきゃいけない宿題】
コドモとして未成熟なオトナ
いつまでたっても、小学生。
「学校」という「自然」、「校舎」という場所。【嫉妬学】和田 秀樹


親の安心のために利用されている子どもたちは、僕にとって「不自然」だ。

わかりにくければ、こう表現しようか。

「いつまでその手を握っているつもりですか?」

生きているのに、死んでいる、心中社会の真っ只中で、オトノネは声を上げています。

学校が嫌だという子のための教育機会確保法

義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律

こんな法律があったんだ。

学校が憂鬱な子どもの「心」の風景:小1・中1・高1の環境の変化

子どもの「嵐」を受け止めて!

 

二次的な情緒の問題

私たちは、このような子どもたちとの関わりのなかで、学習のむずか しさだけではなく、いくつかの情緒的な問題に直面することになりまし た。たとえば、授業中大声を発する、友だちを突然殴る、イライラして 物を壊すなどの行動です。子どもによっては、場面緘黙、チック、吃音、 不登校などの神経症的症状を現すこともあります。このような傾向は、 おそらく障害の直接的現れというよりも、二次的に起こってくる問題と みるべきでしょう。発達の遅れをもちながら、それが軽度であるゆえに、 ほとんどの子どもたちが通常の学級に就学し、その集団で学校生活をお くることになっています。子どもの内的なものとそこでの対人関係、そ して学習課題の相互関係のなかで、強い葛藤が引きおこされているので しょう。

とくに小学校低学年は、自分のからだと手で遊びを広げ、むずかしい 運動や操作ができることによって、よき自己認識を獲得していくときで す。当然のことながらその過程では、「できない自分」を実感すること も多く、障害のない子どもたちでも、「こうありたい自分」と「そうならない自分」の狭間で、葛藤することになります。そして、友だちのよ うにはできない自分にいらだつことも多いでしょう。そのとき、とくに からだや手の運動・操作に障害の現れる子どもたちは、なかなか発達し ない否定的な自分に向き合わなければなりません。その葛藤の持続が、 いくつかの情緒の問題を引き起こすことは、容易に推察できます。だか ら、そんな自分を受けとめていくことができるような人格形成の課題を 視野に入れた教育が求められることになるのです。(白石正久『発達相談室の窓から』p. 159)

子どもは葛藤している。

 

しげちゃんの左手には軽い マヒがあり、親指と人さし指が 内屈しやすく、ピンチ把握がで きませんでした。だから、積木 や描画の課題では、「門の模倣」 (写真)や「正方形模写」など の年齢相当の課題にむずかしさがありました。保育園でも、手を使っての遊びになると、誘うまで大好 きなトラックのおもちゃを転がしており、なかなかみんなのなかに入ろ うとしなかったそうです。言語認識は、「錘の比較」(二つの箱を提示し、 どちらが重いですかと問う)、4までの数の認識などを正答することがで き、顕著な遅れは見られませんでした。

就学の時点で、苦手だった正方形が描けるようになりました。しかし、 左手にとくに現れている「不器用さ」は消えず、たとえば右手では円を 書くことができても、左手では閉じる円になりにくいのです。数字はな んとか書けるようになっているのですが、自分の名前も含めて、字画の 多いひらがなには、書きたいのに上手に書けない苦しみをもっているよ うでした。両手の交互開閉という4歳レベルの手指の操作課題を課すと、 交互に2、3回開閉すると、すぐ同時開閉になってしまいました。そし て、「4数復唱」では、どうしても三数しか復唱できないのです。あきら かに、「2次元可逆操作」の獲得において、手指の操作や情報処理の力に、 部分的な弱さが見られました

その「不器用さ」を認識しているゆえに、たとえば正方形模写でも、 続けていくつか描くと、だんだん表現が小さく下手になっていってしま うのでした。私たちの発達診断では、単に書ける書けないという尺度だ けではなく、このように自分の活動の結果を見つめ、自分で修正してい こうとする力の育ちもみるようにしてきました。しげちゃんには、自分の表現をしっかり見つめ、「もっと上手に書いてみよう」という自分を 高める力が育っていなかったのです。その背景には、しげちゃんの自分 への自信のなさがありました。(白石正久『発達相談室の窓から』p. 161)

意欲を、好きな気持ちを殺ぎ取るとは?

中学校の長距離走。

なぜか全員のタイムの順位が発表され、グループの結果に反映される。

という生徒の主張。

こうした競争原理を持ち出して「みんながんばれ!競い合え!」といって数値を出させようとする文化が学校にある。

アホか。

この生徒は、走るのは好きだ。
自分のペースで。
それが歩くのに近いペースでも。

僕は身体の内部感覚を調整するために走っていた時期がある。
それはほとんど、走るフォームで歩いている速度だ。

そういう「熱心な」子も、こういう学校にいたら、「走らされる」だろう。

それで怒られる?
意味がわからない。

けど、それが学校だから、子どもは大変だ。

こうした競争原理を持ち出して「みんながんばれ!競い合え!」といって数値を出させようとする文化が学校にある。
テストの結果を見せ合うという謎の「処刑文化」もある。

アホか。

【ずっと小学生その2】学校がつまらないのはどうしてか

熱中する授業は「授業の原則」に貫かれている (教え方のプロ・向山洋一全集 31)

『熱中する授業は「授業の原則」に貫かれている (教え方のプロ・向山洋一全集 31)』 振り返っていままでに買った本を読んでいる。 この本は大学時代か、教員時代かに買ったもの。 当時、その意味というか、現場でどれくらい役立てられていたか・・・(書かれていることの重みが、わかっていなかっただろう) 僕は高校の教員免許だけしかもっていないので、小学生・中学生のクラスは持ったことがないのだが。 疑問はただひとつ。 なぜ、小学生中学生で習っているはずの事柄を、高校生が知らないのか。 これは現実であって、教師としての仕事を全うできていない教師が多いという何よりの証拠だ。 これは事実だ。 ーーー

ーーー 人間に対する不信感を抱いている子もいる。 それこそ、教師、学校に対する不信感を、敵意を抱いてくる子もいる。 小学校・中学校で何を学んだのか。 お母さんたちは、ご存知だろう。先生には当たり外れがあると。 当たりの先生は、人がいい、かもしれない。 それは知恵と技術を持った、愛ある先生なのか、それとも、ただ慈しみのある情ある先生なのか。 愛とはなにか 情のある先生に出会えただけでも救いだろう。 けれども、愛がなければ、教師としての知恵と技術がなければ、子どもは「先生から何も教われない」 だから、たまたま「できる」子が先生からかってに学んで、「できない」子は置いていかれる。 その結果が、中学、高校になって出てくる。 高校受験・大学受験のレベルも落ちて来ている。 これは、事実だ。 (ノートがかけずに、プリントの穴を埋める作業する高校生たち) (食べ物を自分で食べれず、流動食を流され続ける人とイメージを重ねない人はいないだろう) 人間の質は学ぶか否かにかかっていると僕は思う。 それはつまり、学び方を学ぶ、または「教えるべきこと」を教える教師の質にかかっている。 ーーー

ーーー 子どものためを思うなら、教師をやめるのも手だ。 自分が病気だ、ただ作業として授業をしている、喜びを感じない、子どもの成長を感じないとおもうなら、教師をやめたほうがいい。 給料のために子どもを食いつぶしていないか。 ひどいものだ。 テストの後、グループにして、点数を見せ合う。 そんな魔王が、学校という場所に存在しているという。 恐れ憎しみ悲しみを育てて、どうするつもりなのか。 (もちろん、できる子に優越感を持たせてもっと勉強させるためである。貧困を助長している) え?それで、励ましているつもりだって!? 身を落とすことを教えて、それを教師と言えるこの国がおかしい。 先生がいけないのではない。 先生という存在を生み出す仕組みが壊れているのだ。 ーー

ーーー 犯罪者は罰せられる。 犯罪者を生み出した社会は罰せられない。 この論理をとれば、多くの先生は犯罪者として罰されなくてはいけない。 だが、僕は先生を擁護したい。 ーー

ーー 学ぶという仕組みが、壊れている。 「生き残れれば、それでいい」レベルまで教師のレベルが落ちている。 それは、学校という組織のレベルが落ちたことが原因だ(昔から低かったから今こうなったといってもいい)。 そのしくみも、この国独自のものだ。 教員免許は、「いい子」にしていたら誰でも取れる。 西欧なら大学院、もっと研鑽を積んでからでないと、教師の資格はとれない。 また現場に立つまでに定期テスト対策的な「教育実習」では終わらない修行期間がある。 その間、きちんとメンター、担当がついてくれる。 雑務で忙殺されている先生に、教師を育てる時間も、子どもを育てる時間も、期待できない。 だから、お母さんたちは困っているのだ。 ーーー

ーー そうか!この学校の暴力を隠蔽するために、全国学力テスト対策をがんばっているんだ! 「いやいや、お母さん、学力はほら、富山県は全国トップレベルなんですよ!」とのたまう魔王の姿が目に浮かぶ。 そんな教師には、こういったらいい。 「最近、○○さん(先生と呼ぶ必要はない)は何を学ばれて、どんな実践を教室でされているんですか?」 教師という虎の皮をかぶった、魔王かどうか、ただの狐か、それとも本物の虎か、わかるかもしれない。 「どんな結果がでたか、報告もしてくださいね」と一言入れてあげよう。 お母さん、お父さんが、教師を育てなくてはいけないのか・・・・・全部、、、、家庭負担かよ。。 子どもを育てるために、お父さんお母さんが学校の先生をそだてなくてはいけない。 そんな世の中になってしまった。

教えてはいけないこと

誰かに知られては困ることがたくさんある。
学校では、教えてはいけないことがたくさんある。
「教えてはいけないこと」なんてあるのか?

生徒たちに法律を教えてはいけないだろう。
どこまでが体罰で、どうしたら先生をいじれるのか、なぜ先生はそういう対応をするのか、バレてしまっては、いけない。
「君たちは教育を受ける権利はあるが、それを使うかどうかは君次第だ」とか言ってはいけない。

生徒たちに学歴社会はもう幻想だということを教えてはいけないだろう。
学歴社会に生きてきた教師は進学のことしか喋ることがないのだ。そして自分たちも進学実績で評価されるとおもっている。

生徒たちに性の話しをしてはいけないだろう。
セクハラといわれ保護者に叱られたらダメだから。

一体何を教えるんだろう?
「学校の過ごし方」?????

どうしても私の経験からは、学校がいいところには思えない。
もちろん、この日本にも、素晴らしい学校は、どこかにあるはずだ。
素晴らしい先生もいるはずだ。大切な友だちとも出会えるはずだ。

本当のことを話してくれる、教えてくれる人と出会えた人は、幸せだ。
本当のことを話してくれる人と出会い、本当のことを話せる関係をつくれる人は、幸せだ。
それが先生であっても、友だちであっても、夫婦であっても、恋人であっても。

当たり前に会社があり、当たり前に学校がある。
どうしてあんなに大勢の人が集まって仕事をするのか?
どうしてあんなに大勢の人が集まって、机と椅子の間で青春時代を過ごしているのか。
どうしても、そこで、そこにいる人達と一緒にやりたい、一緒じゃないとできないことがある人は、幸いだ。

今思い出したのは、いつも机に伏せていた高校生。
話を聞くと、アレルギーが酷くて薬を飲んで、眠くてダメだという。
なるほど、休むことも多くなってきた彼だ。
彼にこういった。「君は今、自分の体のことを知らなくちゃいけない。今、君にとって一番大切なことを学ばないといけない。無理して学校にいる必要はない。図書館にいって、勉強してみるといい。きみのお医者さんが処方しているクスリは、君にはあっていないんだ。お医者さんは君のことをしらない。君は、自分の体に、自分で、責任をもたなきゃならない」と。その時、その時代で、学ぶべきことがある。人は一生をかけて、学びきれなかったことを繰り返し経験しながら、死んでいくのだろう。

学習障害・不登校は呪いの言葉?祈りの言葉?不登校とひきこもりの意味

先日、子どもが学習障害で、、、、というお母さんから問い合わせがあった。
発達障害、学習障害、言葉の遅れ…こういった問い合わせはよくあること。

かつて書いた記事がある。
学習障害LDか、スローラーンなだけか。

↑この記事に描かれている基準を学習障害とするなら、学校に通う子どもの半数以上は、学習障害をもっていることになってしまいます・・・それって障害?

 

ーーーーーーーーー

「うちの子は学習障害です」という言葉を、使わない方がいい。
というのが僕の考え。

学習障害ですという言葉が意味するものはなんだろうか。

学習障害の「日本」での定義にあるように、スローラーンなだけで自然な発達をしている子の現状を学習障害と呼ぶのは変だ。

学び方には一人一人特性がある。

「うちの子は学習障害です」という言葉は、「うちの子は学び方の特性が学校の教え方、学校の学ばせ方と合っておらず、義務教育として受けるべき教育を受けられていない」という状況を伝えるものだと僕はおもう。

その声は、本来、本来!学校に届けられるべきものである。
学校は、本来、本来!学びの「家」であるからだ。
ただその声が届かない。それが現実だ。
学校は、その声を聞けない。
子どもたちの、お母さんのオトノネは、なかなか届かない。なかなか響かない。
(いやいや、対応してくれるところもありますが。それが中学になったら?高校になったら?社会人になったら?世の中、いい人ばかりではない。では、どうしましょう???)

↓【オトノネ原論】はもう少し下に行くと始まります笑↓

学習障害で困っているなら、学校の仕組みで困っているのだとおもわなくてはいけない。
自民公明党のつくりあげた学校のしくみを変えるには?

いやどの政党でも同じだろ・・・という方は、最近できた政党を調べてみてください。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

教育基本法には次のような文言がある。

第四条 すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
2 国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。
3 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学が困難な者に対して、奨学の措置を講じなければならない。

能力に応じてとは、何か。

診断書は、「その子には、その能力がない。だから、教育はこの程度でいい」ということを証明するものになってしまわないか。
診断書をもらわないと、支援級にいけない(少人数だけでも子どもには救いになる)などのルールがあるために、「うちの子は学習障害です」「発達障害です」というお母さんがいるかもしれない。

言葉を使う人間、言葉を使う人の心。

学習障害という言葉を通じてお子さんの特性をはじめて理解できる人もいるかもしれない。
けれども、「学習障害」とか「発達障害」という言葉を使うことで、何か悪霊のようなものが、取り付いてきやしないかと、僕は不安になる。

「不登校」という言葉も同じだ。

日本は、言葉にチカラを感じないことが多い。
「うちの子は不登校です」ではなく、「うちの子は古いシステムとは別の新しい学び方・生き方を模索しているところです」ぐらいに、具体化していった方がいい。その方が、心が元気になるはずだ。

言葉は心。

【マシュマロ実験】で「忍耐が大事!」の「忍耐」って何?


ちなみにマシュマロテストの結果は今、覆されたというか、補強されて、親の経済能力が影響するという話です。その詳細も、重要ですが。

 

↓【オトノネ原論】はじまります↓

言葉は心。

心は言葉。

音には心があります。
言葉は音で伝わります。
音の意は心にのってやってきます。
漢字をみるとまさにそう書かれていて笑えますね^^
(仏教でもそんなのあったような気がしますが、言葉という現象を理解するとそんなかんじになるとおもいます)

「不登校」「学習障害」という言葉に否定的な意を添えるか、肯定的な意を添えるか。
それは人の心にかかっています。
「不登校」「学習障害」という同じ言の葉、同じ音、であっても、その言葉の根っこ、オトノネは違うのです。

心を伝えるための言葉、その意味は、使う人の心によって変わって来ます。
誰かが使う言葉は、お母さんの元気をなくすかもしれません。

文化的に、社会的に、否定的な意を乗せられた言葉があります。
また本来、肯定的な意であったものが、否定的に使われている言葉もあります。

その言葉が、お母さんにとって、お子さんにとって、祈りの言葉になるのか。
呪いの言葉になるのか。

オトノネは心配しています。

(この考え方を使うと「ポジティブな言葉を使おう!」というセミナーになり、さらなる被害者がでてきます笑どっかの記事で書いたような。。ありました。定期テスト対策の弊害【自己改革・心理学系セミナー編】要するに、言葉を使う人間の心次第で、いくらでも言葉は意を変えて、呪いにも、祈りにもなるということです。人を助けたり、傷つけたり、よい「心」があったとしても、よい「意」が伝わらないこともあります。わるい「心」をよい「意」で伝えることもできます。)

「成績が…」「点数が…」「将来が…」「宿題が…」「勉強が…」そのお母さん、お父さんの言葉が、心が、伝わっているでしょうか。
世の中で呪いの意で伝えられている言葉を、お父さん、お母さんは心でどう受け止め直したらいいでしょうか。

お母さんがお子さんに使っている言葉が、祈りでありますように。
子どもの周りにいるすべてのオトナたちが使う言葉が、祈りの言葉でありますように。

言葉のチカラを育てるレッスンがあります。

オトノネの言葉のレッスンとは?

ーーーーーーー

ちなみにMSDのマニュアルにはこのように定義されています。
学習障害 – 23. 小児の健康上の問題 – MSDマニュアル家庭版

学習障害に対する最も有効な治療は、各小児に合うよう入念に調整した教育を行うことです。

オトノネに、遊びに来てくださいね^^

人一人の中でも、言葉がせめぎ合っていることがある。
自分を呪い殺すような言葉を使っていないか?それはどんな心からやってくるのか?心とどう関わればいいのか?
僕の心の中にも、か細い声で、祈り続けている僕がいるのかもしれない。

そんな声を、聞き取れるように、心を尽くしています。

言葉は、生きるチカラです。

 

【クライシス・プロブレム・ギャップを生み出す無関心・無関係な「閉じた関係」

小1・中1・高1で出会う?子どもの発達要求を無視する大人との関係

この本では自閉症の子に対する大人の関わり方として書かれているが、学校や家庭でもありがちなこと。

「この子たちはこれしかできない」といって何度も漢字を書かせたり、穴埋め問題をさせたり、子どもに作業をさせることは日常的な学校の暴力だ。

「これはこの子にはできない」といって、挑戦させない、新しい経験の機会を奪うことも暴力だ。もちろん大人はそれが「ふつう」で気がつかないことが多い。

例えば

「缶切りの使い方」がわからない子どもがどれくらいいるだろう?

「魚の骨がとれない」子どもがどれくらいいるだろう?

僕は「学び」のない関係を「閉じた対」と呼びたい

 

毎日作業だけの福祉の現場も同じ。

「心」のない、「命」が輝かない場所だ。

自閉的な傾向をともなう場合には、基板を 180 度回転した後、一瞥して即座 に反対側に移動した円孔に入れることがある。形を瞬時に弁別することはでき るが、目前の板を見渡し、反対側に移動した円孔と目前にある四角孔を見比べ てから円孔に入れるような、思考の過程がみられにくい。「入れ分け」では、結 果として「入れ分け」をしても、両手で同時にそれぞれの器に入れるなど、二 つの器を見比べつつ交互に配分しているわけではない。このように自閉的な傾 向のある子どもは、一対一対応の学習は成立するが、そこに「切りかえ」「転換」 の過程を連関させていくことが難しい。一つには、さまざまな素材・道具活動 を広げて「1次元可逆操作」のリハーサルを量的に拡大していくこと、もう一つ には、自他の関係における意図や要求のぶつかり合いから自分と他者の意図を 分化させたり、一つに統合するように調整していくことが困難だと推察される。

彼らが一つの対象への活動ばかりする姿に接して、大人は一方的にその活動 をやめさせようとしたり、他の活動への転換を促したりする。しかし、そうする ことによって彼らは、その活動に執着したり、大人からの働きかけを拒否する ようになる。このような抜き差しならぬ状況にもいたる「自一他」関係を、白石 は「閉じた対」(注8)と呼んでみた。 (『障害の重い子どもの発達診断』p.74)

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子どもの発達への意志(「命」)

ところが、他者の意図を認識することにより、大人の指示に従属的な関係に 陥ったり、「視覚支援」と称する一方向的な提示に応じてしまうために、他者への過剰な適応が強化されている事例も多い。このような「モデル通り」「他者の 意図通り」になってしまう従属的な関係を脱して、自らのなかに「本当の要求」 を育てることが発達課題となる。「本当の要求」とは曖昧な概念であるが、子ど もにとってのそれは、期待を高め「よき見通し」となるような活動、遊び、空 間移動などであろう。まず、楽しいという感情をもち、さらにその活動の意味 や価値に関する認識がともなえば、子どもはいっそう活動意欲を高めていく。「運 ぶ」「渡す」「片づける」「大人と同じような仕事に挑戦する」「小さい友だちに 手を差し伸べる」など、生活のなかで意味と価値を実感しやすい活動に、子ど もの心はひきつけられていく。また「本当の要求」は、その実現のために自ら を対象化し、変革しつつ高めていくという発達要求をも内包することになる。 (『障害の重い子どもの発達診断』p.80)

「閉じた対」とは?

「定期テスト対策」をする生徒と先生の関係。

「こういう時はこうする」ということだけ覚えておいて、「心」が関係しない。「命」とも関係しない。お互いに「成長のない」お互いに一方的な(お互いに無関係・無関心な)関係性のこと。

無関心とは、心の無い関わりのこと!?

 

私は、自閉症の子どもたちに「形の弁別課題」という発達検査を実施したときに、 注目すべきことがあることに気づきました。いろいろな図形が描かれた図版を見せて、 さらにその中の一つの図形が描かれた図版を提示しながら、「同じものはどれですか?」 と問うのです。すると、私の手のなかにある図版を奪い取るようにして、たくさんの 図形が描かれた図版の、同じ図形の上に重ねるようにつけようとするのでした。私が 期待していることは、両方の図版を見比べて、同じ図形を指さしで教えてくれること なのですが。この重ねたい要求はとても強いものがあります。私はそれを「マッチン グ反応」と名づけました。この反応のメカニズムを、ごく単純化して説明するならば、 二つを関係づけるという認知と記憶の機能が乖離するように先行して発達し、そこに 他者と自分という関係の発達がともないにくくなっているということです。したがっ て、自分のなかで完結した一対一対応としての「閉じた対」を形成していくことにな るのです。

さらに説明すれば、1歳半の質的転換期は、「○○ではない口口だ」という1次元可 逆操作が、外界に働きかける操作の特徴として獲得されるとともに、自他の関係にお いて、自他を調整する力として獲得されていくのですが、その根本の可逆操作の獲得 に、発達の障害が現れやすいということです。

もう一つは、このような一対一対応を形成しやすい子どもに対して、ついつい大人は、 要求通りにしないことに苛立ち、子どもの活動を拒絶したり禁止してしまうということ です。あるいは、大人の意図や要求を、頭ごなしに子どもに伝えることもあるでしょ う。そのようなときに、子どもは拒絶され否定された自分の要求を、頑なになって要求したり、その場から退散してしまったり、あるいはパニックで応じるようなことになるのではありませんか。そこでは、大人と子どもの間で、「ああ言えば、こうする」「こうすれば、ああする」というような、まさに一対一対応の完結した応戦が繰り広げら れることになってしまうのです。それは、まず子どもに起源する問題というよりも、大 人の働きかけに、子どもに有無を言わせない一方向的な性質があるということです。

つまり二つの問題とは、一つには子どものなかに生じやすい自己完結した一対一対 応の認知・記憶優位のパターンであり、もう一つは、それと向き合う大人の側にある「一 方向的な働きかけ」という問題なのです。この二つの問題の相互作用によって子ども と大人のそれぞれに生じる行動の特徴を、私は「閉じた対」と称しました。(『障害の重い子どもの発達診断』p.92)

 

「無知」「無心」による目の前の「人間」への無関心

目の前の「人間」の姿を間違って認識していることを「無知」と表現してみよう。

 

目の前の子どもの発達欲求などみなくてよい。

とにかく今日1日が終わってお給料が入ればいい。

「私は」それなりにこの人生に満足している。

「子どもは」まぁ仕方がない。この程度でよいのだ。

という心のあり方を無心と表現してみよう。

 

すると、教師の役割は「学校という組織を支えるボランティアを管理する中間管理職」になってしまう。

この見地から鯨岡は、ある養護学校との実践研究において障害の重い子ども についても論じている。「発達の最早期段階の感性的コミュニケーションがそう であるように、重い障害を負った子どもとのコミュニケーションでは、多くの場 合、まだ子どもは何かを表現しようという意図を必ずしももってい」ないとして、 「重い障害を負った子ども」と発達の最早期段階にいる子どもを、コミュニケー ションの様式において等しいものとする。機能・能力の発達を含む発達過程の 実在性をあえて認めないことからは、機能障害の重い子どもを「発達の最早期 段階にいる子ども」と等しいものとして認識することになろう。教師が、その ような視野をもったうえで「受け手」としての子どもとの関わりに自らの役割を 限定するならば、子どものなかにあるさまざまな「わかる」べきことも見えず、 教師の役割を無力化することになるのではないか。 (『障害の重い子どもの発達診断』p.230)

 

筆者は、教師が子どものことを「わかる」とは、子どもが外界をどうわかり、 どう働きかけ、自らに取り入れようとしているのかを「わかる」ことでもあると 考える。子どもが外界を対象化し自らに取り入れるために、何を願い、機能・ 能力をどう働かせ、矛盾を前にどう苦労しているのかを認識することは、大切 な視点である。そのとき子どもは、自らの発達の尖端と障害を見つめ、自分自 身にも働きかけようとしている。

つまり、私たちが認識しなければならないのは、子どもとのコミュニケーショ ン関係のありようだけではなく、子どもが大人や子ども同士の関係を媒介とし て、共感、共有、共同の世界を形成しようとしている発達的事実であるその 世界を子どもの生活と人生において、意味あるものとなるように創造するのが、 教師の仕事ではないか。子どもの思いに問いかけ、子どもの選択や試行錯誤を尊重しながら、自然、文化、生活の喜びを教材として創造し提示していくことは、 教師の喜びでもある。(『障害の重い子どもの発達診断』p.231)

子どもの成長が学校という環境に影響を受ける例『発達相談室の窓から』

『発達相談室の窓から』p.80-85

1)発症から治療・訓練を経て小学校へ(発作がいったん消失を経て再発する3年生まで)

けいれん発作が止まらないと、由紀さんがお母さんに抱かれて病院に やってきたのは、2歳6か月。発作は起こしていましたが、うつぶせでしっ かり頭を上げ、ほしいものがあると、寝返りをしたり、ずり這いで移動 します。「パパ」「パン」「イヤイヤ」とおしゃべりをする女の子でした。 診察の結果、「点頭てんかん」ということで、入院してACTH 治療が始 まりました。治療が始まると、副作用で一時期、笑顔が減る、バイバイ をしなくなる、寝返りやずり這いをしなくなる、などもありましたが、 逆に不快な状況のなかでも、右手を出してきて積木にさわったり、鐘を 振ろうとして手を動かしたりする意欲も見せてくれました。治療の結果、 著しく発作は減り、脳波は改善しました。入院中にお母さんとの話のな かで、治療とあわせて訓練や保育を早期に受けることの大切さが話され ました。しかし、由紀さんの住む自治体では、まだ肢体不自由児に対す る施策は不十分で、訪れた児童相談所でも「肢体不自由児で保育を受けたいという人は初めてだ」と言われたそうです。由紀さんが通園施設に 通いだしたのは4歳6か月になってから、しかも他の自治体の通園施設 でした(訓練も1歳2か月から、やはり他の自治体の訓練施設で受けて います)。

4歳の由紀さんは、励ますとうつぶせで頭を上げることはしますが、寝 返り、這い這いはむずかしくなっています。しかし、手指の操作は上手 になっています。積木は指先ではさみ、器から出します。「ちょうだい!」 の声かけに顔を見て渡してくれます。ことばも増えてきて、「いない、い ない、ばぁー」も自分からやろうとするなど、あそびの主人公になろう とする力が生まれ始めていました。

6歳6か月、肢体不自由児養護学校に入学しました(発作は入学したこ ろから消失しています)。再度、片側だけですが寝返りを獲得。ことば も名詞だけではなく、「ダイテ」「ナイ」「チョウダイ」など要求語も話 します。「イヤ」「ハイ」も区別して表現しつつあり、いろいろな場面で 本人の意思を問うたり、「どちらにする?」と選択させながら意思表示 を表せるようになることが大事と思われました。2年生のときには「お 父さんはどこ?」「自動車はどれ?」「頭をあげて」「足をトントンして」 「積木をちょうだい」など、こちらの質問に対してどれも答えてくれま した。手の操作課題は時間はかかりますが、いやがることはありません。 小さい鈴もなんとかつまみ上げて瓶の中に入れようとします。意識すれ ばするほど、肩が後ろへ引けてしまったり、不随意運動が出てきてうま く入らなかったりしますが、あきらめません。何回も失敗した後に入っ たときには、とてもいい顔を見せてくれました。家でも紙を歯で噛んで 押さえながら使える右手でちぎり、窓から外へと放り出すことに夢中に なっているとのことでした。

学校には発達診断結果としてこれらのことも伝え、由紀さんの力をう まく引き出し、生活の主人公として育てる教育実践を考えてほしいとお 願いしたのですが、運動と認識の機能間ではアンバランスさがあり、あわせて自己主張することが少ない由紀さんの状態はなかなか理解しにく かったようで、クラスも最重度のクラスになったということでした。こ のクラスでは、からだの訓練、生活や食事指導が中心だ、とお母さんか らお聞きしました。自分の意思を「イヤ」「ハイ」と表せる子というよ り、あらゆる場面で先生の介護が必要な「やってあげなければならない 子」というふうにとらえられ、由紀さんの側からすれば受け身の授業が 展開されたようです。肢体不自由が重度の場合、からだの訓練はぬきに することはできません。しかし、訓練のなかでもすべて受け身ではなく、 たとえわずかであっても本人の随意性を引き出すような働きかけは必要 だったのではないでしょうか。「今から訓練するよ。手を伸ばすよ。力 を抜いてごらん」「そうそう、上手だね。それでいいよ」「今度はどっち からするの?」うまくいけば、いろんなやりとりがきっと先生と由紀さ んの間に展開したでしょう。しかし、先生は由紀さんにそんな力がある とは考えられなかったようです。由紀さんは先生に「イヤ」とも「イイ」 とも主張せず、先生の方もまた、由紀さんの意思や思いを確かめること もなく授業は展開されたようです。

2)発作の再発と心身症的症状の出現……心理的葛藤のなかで揺れ動いた前思春期(3年生から中学部1年生まで)

3年生の6月、15分間も続く大発作を由紀さんは起こしました。それ までに脳波はかなり改善し、成熟してきていました。しかしお母さんか らは、初めての場所や人、あまりなじみのない場所、嫌な人、嫌なこと などに出会うと、発作を起こすことが増えると聞きました。しかし、場 所や人も2、3回して慣れると発作に至らずにすんだり、好きなことをし ているときは発作は起こらない、場面や人なども前もって説明しておけ ば大丈夫とも、あわせて聞きました。その後も行事の前に、あるいは終 わってから……とくに宿泊訓練や修学旅行など、泊まりが関係するとき には必ずと言っていいほど……発作が起こりました。発作だけではなく、行事が近づくと学校へ行くのを嫌がる、泣くことが増える、尿失禁をきっ かけにして頻尿になる、尿が出なくなるなどが起こりました。入院して 改めていろいろ検査もしましたが、とくに発作もひどくなるような脳波 ではありませんでした。学校では、「発作の再発」「からだの変調」=治療 が必要、というとらえ方はしても、いろいろな変調が心の動きとも関係 しているとは、なかなかとらえられなかったようです。お母さんを通じ て「心の成長」にも配慮してほしい旨を伝えましたが、やはりいつも、 「由紀ちゃんにはできませんよ!」「由紀ちゃんはそこまでわかっていま せんから!」ということばしか返ってこない、とお母さんはつらそうに 言われました。

5年生以降、からだの症状は一段と増えました。嘔吐、不眠、無呼吸、 下痢、尿が出にくい、給食が食べられない……など。発作も大発作をた びたび起こすようになりました。5年生での修学旅行や6年生での宿泊訓 練では、一睡もできず、そのことがまた引き金になり大発作を起こすと いう具合でした。帰ってきてお母さんの顔を見て、安心したように眠っ たそうです。大発作が増えたこともあり、この時期にはしばしば入院し ています。しかし脳波検査をしても、結果はそんなに悪くはなっていま せんでした。発作は増えたり、減ったりを繰り返しました。体調がすぐ れないときでも、どちらかといえば学校で発作を起こすことは少なく、 お母さんの顔を見てから、ということが多かったようです。

中学1年生の9月、担任の先生が途中で変更になりました。由紀さん は緊張してやはり給食を食べなくなり、大発作を起こしました。しかし、 この先生とは気持ちが通じあったようで、しばらくすると学校で笑顔が 見られるようになったと聞きました。先生に気持ちを支えてもらうこと で、ものや友だちにむける視線もはっきりしてきて、それまでの由紀さ んからは想像できないほど意欲的になってきたそうです。学校は大好き な場所になりました。「せんせい!」と呼びかけることも多く、この先 生がいないと泣くこともあり、冬休みなど長い期間会えないと、活気もなくなってしまうほどでした。学校では「元気で食欲もある由紀ちゃん」 になりました。

しかし一方では、まさに思春期に入ってきて、体調は揺れ始めました。 学校で意欲が出始めたころ(10月ころ)より、逆に発作の回数は増え始 め、大発作も頻発するようになりました(1月より生理も始まりました)。 ただ、発作は増えているにもかかわらず、学校ではほとんど起こさず、 発作を起こすのはいつも家に帰ってきてからとのことでした。“学校で は緊張して発作を起こさず、家に帰ってから起こす”ことは、5~6年生 ころと形としては同じなのですが、学校が楽しい、生きいきとできる場 になってからは、学校では良い意味での緊張を保っていたようです。きっ と由紀さんはからだが変化しはじめたことを感じつつも、大好きな先生 や教育に支えられながら、この時期をのりこえようとがんばっていたの でしょう。

 

3)思春期の変調のなかで……重積発作の出現、心身症状の悪化……嵐のなかでの「引きこもり」(中学2年生から現在まで)

中学1年生の秋から増えはじめた発作は、それ以降どんどん回数も症 状も拡大していきました。ほとんど連日のように発作を起こします。重 積発作になることもしばしばで数回入院もしました。乗っているバギー が小さく感じられるくらい身長も伸び、脊柱が変形し始めていました。 病院へやってくる由紀さんの表情はたえずつらそうで、ゆううつそうで す。話しかけるとチラッと見てくることはあっても、ほとんど目をつぶっ ています。1年生の終わりころの発作を起こしながらも元気だったとい う由紀さんの姿はもう見られなくなっていました。聞いてみると、2年 生になってのクラスがえで、あの大好きだった先生とも離れたとのこと でした。新しい担任の先生にはうまく心を開けなかったようで、由紀さ んは力を発揮しきれず、担任の先生もまた由紀さんの力を引き出せなかっ たようです。学校で力を出せなくなった由紀さんは、増えはじめた発作をもはや押しとどめるエネルギーをもっていないようでした。症状に合 わせて薬もいろいろ調整するのですが、発作は増えたり減ったり、なか なか改善しない状態が続きました(脳波自体はそれほど悪くありません でした)。心身症的な症状も複雑になっていきました。いろいろな一時 的な症状が持続的な状態となりました。「日に1、2回しか尿が出ない」 「導尿しなければ20時間以上も尿が出ない」という訴えは毎回のように お母さんから聞きました(この状態は高等部1年まで続きました)。嘔吐 はコーヒー残渣様になり、入院もしました。後頭部に円形脱毛症がみら れたのもこのころでした。水分がなかなかとれなかったり、不眠が慢性 化することがまた、発作の増加につながりました。

先に書いた由紀さんの入院中の訴えはこのころのことでした。改めて 発達診断も試みたのですが、由紀さんは顔をそむけて、検査に応じよう とはせず、私たちもまた、そんな由紀さんの発達の力や心の訴えを読み 取るすべをもっていませんでした。ただ、鏡をさし出したときにつらそ うに顔をそむけた姿に、由紀さんの葛藤を感じました。

この時期、由紀さんをとりまく誰もが、由紀さんを心配するあまり、 一つひとつの症状にふりまわされ、その対応に追われ、由紀さんの心の 叫びに思いを馳せることができませんでした。きっといろいろなことを 感じているはず、思っているはずとわかっていても、具体的に心を通わ せる方法を見つけることができずに、その症状に「巻き込まれ状態」に なっていたように思います。現在、由紀さんの発作はようやく峠を越し つつあります。しかし、心理的な「引きこもり」状態はあまり改善して いません。

学校の先生は悪者か

なんだか学校をやたら悪く言っているように聞こえるかもしれないけれども・・・学校の先生は戦争に駆り出された兵隊と同じで、システムに従っているだけだ。生きるためにそうするしかない事情が、人間にはある。逆らえない。適応していく。これは事実だ。

人殺しをする兵士は悪者か。悪者なのだろうか?

学校の先生でも、心を病んで、病んで、そしてクレーム係に回されてさらに精神を追い詰められて先生をやめるシステムの中で暮らしている。先生もサバイバルなのだ。そして学校以外の職につくアイデアもなく、ただそこにいるしかない。学校の先生はかわいそうな人だ。とおもってもいい。

では学校の生徒はアウシュビッツの囚人か。囚人なのだろうか?

そんな問いをする必要はない(一流の法律家と哲学者があなたの代わりにいつも悩んでいる)。

社会に出ても同じことが君の身に降りかかる。お父さんお母さんもそんな社会の中で生きている。ただあなたがそんな社会の中で「強く」生きるだけのパワーを持って欲しいということだけ、私は祈りたい。悪者を作って憎むよりも、同情をして憐れもう。憎しみ、怒りはあなたからエネルギーを奪ってしまう。ただただ、やわらかに、「かわいそうな人だ」と思えばいい。社会に出たら、そういう人にたくさん出会う。いちいち相手にしていたら、自分にエネルギーがいかなくなってしまう。

自分を卑下せず、他者を見下さず。どちらも良い結果はでてこない。学校も会社も、組織であれば不具合が出るのが当たり前。殺せんせーは言っていた。「社会を相手にしても、はっきりいって時間の無駄です。自分が成長しましょう。」というような言葉を。

 

子どもの暴力(「怒り・嫌悪」の表現)を肯定する大人の暴力におとのねさんが心いためちゃった件

この記事は大人でも難しいかもしれない。 生徒が見たら、もっと難しいかもしれない。 だけど気持ちだけは伝ってほしい。 あなたにとって僕の「表現」は間違っているかもしれない。 けれども僕の「心」は間違っているだろうか。 僕はあなたの「心」は間違っていないとおもっている。 けどあなたの「心」が感じられる世界が全てではない、ともおもっている。 (同様にして、僕の「心」が感じられる世界のすべてではない、とおもっている。けれども、私の世界の外にある「心」を感じることもできる) 心のあり方、心の表現を学んでほしい。 この気持ちは、間違っているだろうか? この表現方法は、間違っているだろうか? それともヒトラーに対して「お前は間違っている」といって、僕は彼に殺されるのだろうか? (ちなみに最後に書きますがその先生は「あそび」のチカラを知っている、希少な先生です) ーー

ーーー とあるクラスで授業をした。 生徒からクレームが上司に行った。 で、上司から「授業を変えてください」という言葉を頂戴する。 くやしい。 何がか。 大人にすら、ともに学びの場をつくる大人にすら理解されないのが、くやしい。(指令が降った時に話したけど、伝わらなかった) 前にもクレームはあった。(前回も今回も同じパターンだ) その声は、たしかにその生徒の正直な気持ちだ。(前回も今回も同じパターンだ) けどクレームを受け取った大人の対応はどうだったか。(前回も今回も同じパターンだ) 教師が授業をして、生徒がクレームを出した。そして教師の授業改善命令が出た。 教師が授業を改善して行くのは当然のことで異論はない当たり前すぎて何もいうことはない。 というか生徒から言われる以前に変えている。 問題ない。 異論もない。 くやしくもなんともない。 だがそのプロセスに生徒の学びはあったのか。 学ぶことは何ひとつなかったとは、僕はおもわない。 クレームを出す生徒は、ことあるごとにクレームを出す生徒だ。 今回だけではない。 「怒り」の感情をクレームという形で出す。 生徒はこの事件のなかで、何も学ぶことはなかったのか。 クレームを聞いた上司は、「怒り」の感情を通して生徒の心が成長することを願わなかったのか。 (そのクレームが何かへの「怒り」だということすら気が付いていないかもしれない。クレームを出した生徒は、常にストレスを抱え、怒っている) それとも、本当に教師が授業を改善するだけで良い、と思ったのか。(「悪者」をつくる心のあり方は、正しいのか) (上司にこのことを話すが、「わからない」「話が違う」ということで、こうして文章にしている) その生徒が大人になったとしよう。 何か嫌なことがあったら「言いつける」だけの親になるかもしれない。 (その子供にももちろんそのように振る舞うだろう。親が子どもの心を見れない) 対話にならない。 「怒り」を表現する方法、「怒り」を処理する方法が、暴力的であることが問題だ。 (上司はもちろん僕が授業を変えて「クレームがこない」ならいい授業だというだろうが、ただ生徒の暴力に屈しただけだ) 「○○くんにいたずらしたんですって!ダメよ!今すぐ謝りなさい!仲良くしなさい!あなたが悪いのよ!」 「○○くんからいたずらされたんですって!今すぐ学校に連絡して謝ってもらうんだから!あなたは何も悪くないのよ!大丈夫よー!」 どちらの心も狂っている。親が子どもに暴力を教えている。 上司は暴力を肯定した。 暴力が認められる世界、それがくやしい。 (上司が対話を生徒と始めたら、クレーマー生徒は「なぜ認めてくれない」といって今度は親にクレームを出すかもしれない(その親もクレーマーである可能性もある)。親との対話ができないなら、当然、僕は排除されなくてはいけない。対話ができないなら、生徒の暴力は肯定されなくてはいけない。でないと、学校が存続できない。そんな推測もできる。ならその現場をきちんと話してほしいのだが。だったら尚更くやしい) これが今回の暴力の構造だとすれば。 とてもくやしい。 親か。 大人が大人と対話できないのか。 大人が大人と対話できないのか。 大人が、大人と対話できない例。

信頼のないところに、心がないところに暴力が生まれる。 対話のないところに、暴力が生まれる。 (もしくは対話なんていうものはそもそも存在しない、僕が幻想を見ているだけなのかもしれない、と考えることもできる。学びとはなんなのか。コミュニケーションとはなんなのか。学びの準備ができているだろうか。) 学びとは↓ https://otonone.com/wp/otonone/book/yasutomisan/ 大人の関わり方次第で、子どもは「あれ?違うのかな。そうなのかな。相手の気持ちもあったんだろうな」という共感能力を育てられる。 (僕だって生徒を困らせる授業をしたいわけではない。ただ僕には「ふつう」を超えた学びの場を作りたい気持ちだった。生徒は僕の気持ちなど意に介していなかったんだろうか?) 上司は生徒に共感をしているのかもしれないが、それは共感ではなく暴力への加担だ。 僕に対しても対話なしに「こういうクレームが来ている。変えてください」というだけ。 対話ではない。 学校が掲げている目標の中に、共感する、排除しない、という言葉がある。 「怒り・嫌悪」を「排除」に繋げてしまう心のプロセスを肯定する大人が学びの場にいることが、くやしい。 (もちろん「変えたら解決する」のだろうが、それはDVの夫と同じことだ) 「変えなかったら学校をやめてもらう」という脅迫付きだ。(それほど深刻なのだという表現かもしれないが) 対話ができないのだから、しょうがない。 つたわらないのだから、しょうがない。 これが、学校、議会、会社、家庭、いろんな場所の「政治」の「ふつう」の姿だ。 https://otonone.com/wp/kotoba/sekinin/rememberhim/ そこでは暴力という言葉は存在しない。 それが「ふつう」だからだ。 そこでは対話するという言葉は存在しない。 それは「ない」からだ。(会話は存在する) 魚は、水を知らない。 魚は、空気を知らない。(酸素は知っている。) ーー

ーー これは、学校が「先生を選ぶことができない」という仕組みで成り立っているから生まれることで、仕組みを変えたらまた別の学び方ができただろうがそれは今はおいておく。一斉授業が戦争時代のやり方であって、そのカタチにこだわる必要はないのだ。 ーー

ーー 蛇足かもしれないが、僕が「ふつう」の授業をしない理由も「生徒の学び」のためだ。 (僕のそういう気持ちにも気がついてくれずに、自分の「クレーム」だけ言うのは、人間としてどうだろう) 「ふつう」の授業とは何か。 生徒の学びになっているかどうかよりも、授業が授業として平和に無事終わる授業のことだ。 生徒が理解していようがいまいが、とにかく穴を埋めればいい。 それは「命」に対する暴力だ。と僕は思っている。 掛け算ができない生徒に高校数学を教えるというのも僕にとっては暴力だ。 と僕は思う。 生徒にはそれ以上の能力がないから、できないから、できることをやらせている。 と「ふつう」の先生はいうかもしれない。 それは「ふつう」に特別支援級や支援学校で行われている「ネグレクト」だ。 と、僕は辛辣に表現して見る。(けどそれが「ふつう」だ) 説明を聞いて、ただ穴を埋めて、授業が終わって、テストの前にちょっと見直して、暗記して、それで終わり。 それで何を学ぶだろう? 僕はそれが疑問だ。 だから僕は「ふつう」を目指さない。 生徒を見くびらない。(そのせいで今回、挑戦をしてしまい生徒の理解を超えてしまってクレームがでたのだが) 「平和」という言葉が、「暴力」の代名詞にもなる。 アウシュビッツが、自由の象徴にもなる。 https://otonone.com/wp/obenkyou/society/equalferepeace/ もちろん、「知識・技能」以外の学びも教室にはある。 楽しい雰囲気で授業を過ごすことが一部の生徒にとってはいい経験になるかもしれない。 「学校に来たい」と思えるようにと。 けどそれが授業の主眼になっているようではプロではないと、僕は思う。 生徒が楽しめる授業をつくる、楽しい雰囲気にすることはもちろん大切だし、その能力は教師として素晴らしいものだ。 だがそれだけなら「セミナー」と同じだ。 乗せる。乗ってくる生徒だけひっかける。 そういう見方を僕はしている。 僕にとって「学び」とはそれほど重たいものだ。 生徒は楽しい先生の楽しい授業を楽しみでくるかもしれない。 けどそれは本当に、学校という学びの場が目指しているものなのか。 (もちろんその先生の得手不得手があり、別の場面でその先生は学びの場を作っているかもしれないし、実際そうなのだ) 学びの場として、上司は他の教師に「改善」を要求しないのか。 「クレーム」さえでなければいいのか。 「クレーム」を出さずにただただ教室の中に存在しているだけの生徒は、どうなるんだろう。 そういう「ネグレクト」も「セミナー」ではよく行われている。 「クレーマー」にだけ注意していたらいい。 というメッセージを、僕は上司から受け取った。 心が、命が、弱ってしまった。(僕は心が弱い。そのおかげで、心や命を大切にする気持ちが育ったのだろう) ーーー

ーーーー 生徒の心の中にある感情は認められていい。 ただそれが暴力性を帯びる場合、大人として生徒に別の表現方法を教えなかったら、学校は一体どんな人間を育てたいのかわからない。 (僕の授業は変わる。言われる前から悩んで、変えている。あなたは変わるのか。何も感じないのか。生徒の暴力性という言葉がわからないのかもしれない) 僕の言葉は理想だろうか。 僕は基礎だとおもう。(心が大事なのだ) だが。 心と関わる技術、心と関わる方法を知らない人には、伝わらないことだ。 だから、これが限界なのかもしれない。 ただこの悔しい思いを、僕なりに、この記事で表現して、伝わればいいだろう。 伝えるために、殴る、怒りをそのまま口調で表現するのも悪くない。 感情をそのまま出した時、脳はよくよく記憶にとどめてくれるからだ(DVの夫などがよくやること)。 河原に呼んで、夕日をバックにして、喧嘩でもしませんかと、誘ってみようか。 そういう「表現」を、僕は韓国で一度だけ体験したことがある。 拳を交えて、相手を体で理解する。体で伝える。 脳が学びの回路を閉ざしている時には、そういう身体的な「表現」も、悪いことではない。(それが暴力になるか、表現になるかは、果たし状を受け取ったかどうか、によるだろう。どうなんだろう。少なくとも親子・教師と先生といった立場の違う人間が「体で伝える」ことは暴力性を帯びるように僕は思う) 殴り合いの喧嘩よりも、精神的な疎外、嫌悪を抱かせるいじめのコミュニケーションは、やはり日本の「ふつう」なのかもしれない。 「怒り」の社会化された姿が「いじめ」であり「暴力」であり「排除」であり、学校がそれを適切な表現にせず「怒り」の感情を排除することを肯定するのは人間を阻害することを教えることになる。(つまり生徒を怒らせないようにすればそれでよいという考えは人間阻害を助長する) (遺伝的に「快楽」を追求する回路が強い人がいる。その遺伝的な気質をどうやって社会化するのか。役立てるのか。その気質でどのよに誰かを幸せにするのかという視点が大切だ) 僕は「ふつう」の基準に従おうとは思わないし、子供たちにそれを伝えたくない。 非暴力不服従を伝えても、無抵抗は伝えてはならない。 暴力に服従することは、なおさらあってはいけない。 この僕の気持ちを、この記事の読者は認めてくれるだろうか。 (人にはできることとできないことがある、他の先生にはそれを望めない、ということはあってもいいと僕はおもっている。学びは個別具体的で身体的だから) ーー

ーーー 「あいつ、むかつくんだよ」 と子どもにいわれたら、あなたは何と答えますか。 (「クレーマー」はさぞ論理的に自分が正しいかのように話すことが多い) その心のあり方が、「目指している人間性」が、そのままその子を大人にする。 教師として、子どもと学ぶ人間として、子どもに伝える人間として、心のあり方を問う。 お化けが見える人と見えない人がいるように、心が見えない人には、心が一体なんなのかわからない。 だから上司には僕の話が通じないかもしれない。 仕方がないのだ。 だから心がわかる人がオトノネに来てくれたらいいとおもっている。 ちなみにですが、その上司は「あそび」の大切さをわかって、実際に学校で実現している素晴らしい先生です。 僕はそれだから、今の学校に勤めていられる。(ありがたやありがたや) そういう共通点で、上司とつながっていると僕はおもっている。 (ひどい大人なら、生徒が感情を出すことを禁止する) 実は、失敗した「クレームが来た」授業もその先生の「あそび」を見習ってやってみて失敗したことだ。 多分そのことも上司は知らないだろう。(失敗しいた授業が何を目指してつくられたのか、といった対話はひとつもなかった) 対話しようとしなければ、世界は極端に小さくなる。というのが僕の実感だ。 そういう孤独な世界で、一方的に先生が喋る授業は、やっぱり、僕は目指したくない。(この世界観はもちろん僕の世界観であって他の先生にとっては「そんな世界はない」かもしれない。「知」は明らかに個別具体的でありかつ身体的だからだ) 生徒に孤独を教えることになるからだ。(孤独は悪いことではない。もちろん。) 学びは個別具体的でありかつ身体的だというのはこういうことだ。

南アフリカを列車で旅行中、ある個人的な出来事から、ガンジーは覚醒する。ピーターマリッツバーグで乗車した白人の男が、ガンジーが1等室にいることに文句をつけたのだ。3等席へ移るよう車掌に言われるが、ガンジーは1等室の切符を持っていることを理由に拒否する。すると警官が現れ、ガンジーは無理やり列車から降ろされたのだった。次の列車を待つ数時間に、彼はある決意をする。この比較的小さな出来事をなかったことにはしないこと、そしてこれからは、自分自身の権利のみならず南アフリカのインド人コミュニティーの権利のためにも立ち上がることを、心に誓ったのである。そこに住む人々の多くは、彼が経験したよりもはるかにひどい扱いを日常的に受けていた。

何を学ぶかは、その人の心が決める。 学校で何を学ぶのか。 大人の限界を超えて、子どもには学んでいってほしい。 これから、世の中をおもしろくしてくれる、仲間。 大人として、伝えられるものはなんなのか。 教師として「教えなくてはいけないことと、教えてはいけないこと」が何か、僕は悩み続けている。 はぁ・・・・ 他の先生といろんな話もしたいんだけど、理解されないだろうという学習性無気力が僕を襲う。 https://otonone.com/wp/psychotherapy/learnedhelplessness/ 沈黙する大人。 子どもが沈黙する、日本の言語環境。空気読む(言葉が育たない)文化?? 大人のやましい沈黙。子どもの計画的不登校。 行為レベルでしか話ができない大人。 言葉を「問う」か、行為を「乞う」か。 経済活動としての「言葉」 コミュニケーションのための『経済学の船出-創発の海へ-』安冨歩【伝わらないのは自分のせいか?】

ここでは受け手の「制約」について二つのことが言われている。第一に、受け手には、身体的、文化的、感情的制約があり、その範囲を超えたメッセージは無視される、ということである。第二に、受け手が経験に基づいて感情を変えるという意味での学習過程を作動させていなければ、コミュニケーションは成立しない、ということである。この両者は矛盾しているわけではない。第一の場合は、受け取り可能範囲の問題であり、そこを超えたメッセージは「無視」される、ということである。第二の場合は、たとえ受け取り範囲にメッセージが入ったとしても、それによって受け手に「経験に基づいて感情を変える」という出来事が生じなければ、メッセージは何の変化も起こさず、それゆえ「何も新しいことはない」という形で処理されてしまうのである。これは「黙殺」と言うことができる。先ほどのキャッチャーの比喩でいえば、たとえキャッチャーの受け取り可能なボールが投げられても、キャッチャーに受け取る気がなければ、ボールは受けられない、ということである。(『経済学の船出』安冨歩 p.118)

そんな世界で、笑いながら死んでいく心を、僕は学ばなくちゃいけない。 自立しないといけない。 それが僕の課題だとあらためて、感じた。 僕ももっと堕落しよう。

「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)

さて、さてさて!!!!! あと、よくあることで、クレームには反応するけど、他の「いいところ」には無関心、というのもどうかとおもう。そういう情報も流してくれないと心がもたない!!!!! 「成績が悪い」ことに目を向けて、「その子の成長」「得意分野」が見れない、伝えられないのでは、人間としてどうか。(大人だから、伝えなくてもいいい、のなら、大人同士は学び合えないことになる。それでいいの?いいわけがない) 僕も、誰も、完璧なんてものはない。 そういう姿を認め合った上で、馴れ合わない。 オトノネをそういう学びの場所にしたいと僕はおもっている。 こころー 暴力から身を守る、ガンジーの知恵から学びたい。 彼がやったことは、非暴力不服従であって、無抵抗ではないのだ。 伝わらない。 対話がない。 どうやって僕は息を吸ったらいいのか。 僕が学ばないと、僕がつらい。 僕が僕の感性、自分を守るために、この「平和」な世界と折り合いをつけることも、必要なのだろうけれど。 僕の僕に対する積極的自己責任だ。 https://otonone.com/wp/kotoba/sekinin/sekinin/ ガンジーで調べていたらでてきた。 読んでみようかな。 僕は子どもから「命」を搾取する支配者でありたくはない。(現状維持に、学びはない。それを秩序というのだろうけれど) https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/051200284/ 

 

 

 

 

高度経済成長期を夢見ながら産業革命(近代)の名残を残す化石のような教育を動かすもの。

公立高校はもう崩壊しているらしい。 元公立高校で働いていた先生の言葉だ。 13年(この数字の意味は何だっけ??)前は教員をやめるという選択肢など考えられなかった。 けど今は、若い人がどんどん、正規採用された後でも、辞めていく。 教員という仕事に魅力がない、つらい、先生が学校で子どもと関わることに喜びを感じられない時代。 この記事は数値として、その先生の「学校観」に一致する現実を僕らに見せているとおもう。 公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費・教員数を計算して気が付いたこと1 公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費・教員数を計算して気が付いたこと2 公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費・教員数を計算して気が付いたこと3 今、多くの人は近代的な思考で生きている。 簡単に言えばニュートン的な、絶対的な、運命論てきな、機械論的な、「ああすればこうなる」という世界観。 実際、そんな世界だ。 けれども今は量子力学の時代。不確定性、相対性、何をとっても「ん?」と疑問を投げずにはいられない時代。 トヨタも「終身雇用制は終わった」と宣言する時代。 「不安定」を生きる時代。 が 変わりゆく時代でなかなか変わろうとしない学校。 管理職は毎日、何かあると心の中でこう呟くそうだ「たのむ、俺が死ぬまで何も起こさないでくれ!」 何も起きずに定年すれば、天下りもできるし、退職金もバッチリ入るからだ。 政治の世界とかわらない人間らしい姿だ。 ーーーーーー 教育は政治を変えようとはしていないとおもうのは僕だけだろうか。 政治が変わらないように教育しているかのようにおもう。 こんなページがありました。 18歳選挙権と「政治の生々しさ」を扱えない学校教育の限界 政治や宗教について、学校は何もしない。 「宗教や政治について喋る」ことがタブー視されている。 法律違反をしている。

教育基本法 (政治教育) 第十四条 良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。 2 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。 (宗教教育) 第十五条 宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない。 2 国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。

ーーーーー そんな化石のような学校で、東京か神奈川かどこかの公立の校長先生がいろいろ変えたというニュースが話題になった。 金沢でも西南部中学校がテストを廃止したとかなんとか。 麹町中学校の校長が「宿題」「担任制」「中間・期末テスト」を廃止した意外な理由 変わろうとしている先生もいる。 学校の外で、早々と新しい教育のカタチを模索する人もいる。 学校に合わない人は、新しい時代をつくっていく人たちだ。 オトノネは、課題や宿題に埋もれてしまった命が子気味よく深呼吸できる場所でありたいとおもう。 ーーーー 追伸 金沢市(石川県?)では、行政が運営する「師範塾」という教員養成機関があり、退職した校長らが教鞭を振るっているらしい。 名前を聞いたらわかるように、むかーしむかしの「師範学校」時代を懐かしむ会であるという。 円満退職していく学校の先生をさらに雇用する制度をつくる意味がわかりません。 年金も、終身雇用もなくなる時代。 わけわからないからみんな「わかりやすく」昔ながらの受験勉強をするのかもしれません。 わけがわからない世界と「ちゃんと」向かい合うことは、遊びを通じて、子どものときに学んでいるとおもうのだが。

学校教育とお父さんのイライラの関係

 

よく聞く話だ。本当によく聞く。

お父さんが手をあげる人だという話。お父さんがお母さんを悲しませるという話。お父さんとお母さんの人間関係から、子どもは多くを学ぶ。(お父さんが不在の方がいいのではないかとおもわれる家庭もある)

お父さんが悪いの?

なんでお父さんは手をあげるの?人を傷つける言葉を使うの?

会社で擦り切れてしまっているのかもしれない。お父さんは忙しくて、休めていなくて、イライラしているのかもしれない(心を守る方法を身につけられていない??職業は選べても会社は選べない??)

自分の心を守る!

 実はこれ、学校制度が原因ではないかと思う節がある。

男の子は女の子よりも発達が遅い。女の子の方が生物的に思春期が来るのが早いし、男の子は甘やかされるのか、高校生になっても小学生のような顔つきをしている子がいる。ベルトコンベアーに乗せられて小学校、中学校、高校へと進んでいく男の子たち。発達の段階を飛ばしているのではないか?とおもってしまう。

男女差を考えずにみんな同じ年齢で学校に行けば男女差がうまれる。3月生まれの子と4月生まれの子が一緒に入る学校に行けば月齢差が生まれる。世の中ももちろん、たくさんの「差」の間で暮らすわけなのだが。その「差」が生み出す出来事の一つ一つを吟味して、「これはこの子にはしんどすぎる」とおもったら、親は子どもを守るために、手を打った方がいいのかもしれない。(少なくとも、無理が祟った後はすぐに!子どもからSOSがでたらすぐに!)保護者という言葉は、親権者とは違うのだ。

ストレスはどこにでもある。いじめもどこにだってある(大人の社会こそ、いじめでなりたっている)。大人と同じように、子供も生きている。子どもは学ぼうとしている。大人が子どもを見習って、一緒に学ぼうとするだけで、暮らしがリッチになるとおもうのだが、いかがなものだろうか。大人もコドモから、成長する心を学んでいき、コドモも大人から生き方を学ぶ、学び合いのサイクルさえあれば、大人もコドモも、しあわせになれないだろうか。

 

 

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