『ごんぎつね』で<考える>経験を奪う:『ルポ 誰が国語力を殺すのか』レヴュー
最近話題になっている本とは別の文脈を強めにお届けします。
<考える>とはどういうことだろう。本を読んで、文を読んで、物語を読んで。<考える>とは、どういうことだろう。
例えば要約。指示語が表すもの。本文に書いてあることを見つけたり、まとめたりする。これは<考える>というよりも、情報処理といったような機械的な作業であって、<考える>という言葉に値しないと僕は考える。書かれていることを、書かれている範囲で、書き手の意図に従って読むことを、<考える>とは僕は言いたくない。<考える>とは、評価することだと僕は思う。
<考える>とは、何だろう。一つには、書かれていることへの疑問を持つことだと思う。書かれていることから、何を「読み取れるか」だ。典型的なのが道徳の教材だろう。何かしら美徳とされている状況があり、状況を単純化して善行を定義する。疑問の余地が満載だ。
道徳の教材が落ちていたので拾った。誰でも読めるので読んでみてほしい。「きまりは何のために」という文章を読んだ。さて、あなたは何を<考えた>だろうか。「何かがおかしい」と思っただろうか。疑問を持っただろうか。それとも、至極当然、正しいことが書いてあると思っただろうか。語り、ストーリーの裏には「作者」の存在がある。意図があり、文脈がある。なぜその文章を書いたのか。それによってどんな影響を与えようとしたのか。読者は、その文脈から「離れて」読まなくてはならない。鵜呑みにしてはならない。<考える>とは、ある意味で、乗っ取られないことだ。この点、受験数学は<考える>必要がない。(学校は子どもたちが<考える>機会を奪ってはいないか?)
<考える>とは、相手の文脈と自分の文脈がぶつかる場所で生まれる精神行為のようだ。だから、<自分>がいなければ<考える>ことができない。例えば全体主義。相手の文脈(ナチ党の文脈)に自分を同一化する人たちは、<考える>ことをしなかった。<考える>ことをした人は、2つの文脈がぶつかった点でもがいた。<考える>ことと<考えない>ことの違いを想像してみてほしい。子どもたちは<考える>機会を与えられているだろうか。僕たちは、<考え>ているだろうか。
<考える>とは評価することだと僕は書いた。評価とは、価値を見定めることである。点数化される単純な価値だけではない、「どのような価値があるのか」を見定めることが、評価である。<考える>という精神行為のあり方として「問う」行為を挙げた。それは「どのような価値があるのか」を探す過程である。例えば。新美南吉の『でんでんむしのかなしみ』という絵本がある。この本はある意味で「耐え忍べよ」という美徳を書いていると言える。けれども、それが何か大きな、組織的凌辱性に対する諦めを強化する神話になっていないか。と、僕は<考える>。「読み取る」自由は相手の文脈に沿って読むだけでは自由とは呼べない。「問う」という精神行為に伴うのが、現実とのつながりを「想像する・思い出す」精神行為だ。現実を認識する、現実にある流れ(文脈)を認識する<自分>の存在がなければ「問う」ことはできないだろう。
新美南吉の『ごんぎつね』は格好の教材になるかもしれない。僕は教育者としてこの文章を、物語をどのように評価したか。あなたはどのように評価したか。(評価とは、価値を見定めることである)。『ごんぎつね』の価値は何か。人によって違うだろう。小さい子どもなら「ごんがかわいそう」とかだろうか。本に書かれた作者の文脈に<自分>を没頭させる、没入させる精神の発達段階がある。「仕方がない」といって他人事にして終わらせることもできる。これらは全て<考え>ていない。感じているだけだ。この点、<考える>ことは相手の文脈と自分の文脈の違いに違和感を覚えることだろう。つまり、<考える>とは、書かれていない文脈を読むことだ。<考える>には、<自分>の心の図書室に入る必要がある。
指導案があったので拾ってきた。「ごん」の気持ちの変化を読む。とある。
文章には書かれていないごんの気持ちを<推測>することは精神行為の一つだ。けれどもそれは<考える>ことでもない。なぜなら、「ごんぎつねっていたずらして反省していいことしたけど最後は誤解されたまま罰を受けて死んだキツネの話」という(与えられた)文脈から演繹される<推論>だからだ。<考える>とは文脈それ自体への問いである。(教師の思考が、精神行為が子どもと同レベルではお話にならない)。「ごんぎつねとはこういう文脈だから、それに沿って「読み取ろう」「推測しよう」という態度が<考える>機会を奪う。いや、推論自体は悪くない。とある文脈で読むことも大事なのだ。しかしそれで終わったなら、権威(大人や教師や親)が与えた文脈の中でしか生きられない、他者との文脈がぶつかった状況でいかに振る舞えばいいかがわからない子どものまま大きくなる。1つ文脈の感想しか述べられない、行動できない人になる。このような人は容易にいじめ、ハラスメント、ネグレクト、スポイルをする。自分が良ければいい人が、この世にはたくさんいる。<他者>を失った人は<自己>も失う。はて、話がずれてしまった。
学年が上がれば漢字が大きくなったり内容が小難しくなったりするが、大人(大きな子ども)の問いは相変わらず一つの文脈の中から生まれる。<考える>ことを教わらず、与えられた文脈に従うことに慣れた、家畜化された、奴隷化された自由の中で大きな子どものまま、成人を迎える。<考える>大人にならずに。世の中にはたくさんの文脈がある。そのうちの大きなものに、強いものに流れに流されて、流されて、流されていく。<自分>がその流れとぶつかったときに、砕けてしまわないだろうか。他者への理解、他者を知ろうとしない、大きな子どもになる。「他人には期待しないんです」という人がいる。これはある意味で、正しいと言える。だって他人は変えられない。では、別の文脈で<考え>よう。期待とは何だろう。期待しないならば何が残るのだろう。自分は期待されていないだろうか。期待されないことで人はどうなるだろう。期待しないことでどんな結果になるだろう。ただ自分の都合のいい文脈になるように「私は他人には期待しないんです」といって、自分の行為を正当化しているだけではないか。言い逃れをしているだけではないか。期待を裏切られるのが怖いだけだろう。と「読み取る」ことができる。作者は、現実には、多くの場合、腹に何かを隠している。それこそが子どもたちに「読み取って」もらいたいものではないだろうか。
最近(かつて?)流行っていた鬼滅の刃という物語がある。そこには「鬼は人だった」「鬼は鬼で鬼になった事情がある」(数多くある文脈の一つとして)ごんぎつねにも通じるテーマがある。この物語の価値は何だろう。「努力を続ける炭治郎」だろうか。「現実に私たちの世界にいる鬼はどんな暮らしをしているんだろう」ということを、<考える>のはいかがだろうか。どんなに良い物語でも、読み手が<考え>なかったら、感じるだけという点で、麻薬と大して変わらない。バトルシーンやキャラを楽しむことは、<考える>ことではない。
ここまで書いてきて、<考える>ことを超える別の、精神行為というより精神現象があることを書きたいと思う。吉本ばななさんの『キッチン』だか何かの小説を読んだ時のこと。僕は衝撃を受けた。まず言葉にならない。ただ圧倒される。「これは何だ?」という問いが出るのはその衝撃から正気を取り戻した後のこと。正気のまま狂気に巻き込まれるかのような嵐が過ぎ去った後で僕は<考え>た。「これは何だ?」。それは僕にとってのその文章の、吉本ばななさんの文の価値であった。価値を意味と言い換えることもできるだろう。けれども、価値とは、意味以上に、行動に影響を及ぼすものである。与えられた一つの文脈(意味、価値体系)の中で読み取ることに慣れることは、<考える>ことではない。
ーーー
ネタバレ
『ごんぎつね』を別の文脈で読めるだろうか。自分が信じている『ごんぎつね』ではなくなることに、あなたは拒絶感を覚えるかもしれない。それは<自分>の中に<他者>を住まわせることでもある。さて、ごんぎつねの物語を別の文脈に読むための視点を与えてくれる「問い」がある。その火種は、僕の場合、「のへ火」だった。野辺火か?と思っていたら、「菜種なたねがらの、ほしてあるのへ火をつけたり」は「菜種なたねがらの、ほしてあるものへ火をつけたり」という意味らしかった。古語の「の」の用法か。と思った。その情報を見つけたときに、「狐は火をつけないから、濡れ衣なのではないか」という一文があった。ここから<考え>が始まった。別の文脈が立ち現れた。そもそも、この語りは「これは、私わたしが小さいときに、村の茂平もへいというおじいさんからきいたお話です。」で始まっている。詰まるところ、勘違いで出来上がっている可能性がある。「ごん」がしたとされるイタズラは、実は別の村人が「ごん」に責任をなすりつけたことではないのか。全部作り話ではないのか。本当は、、、、さて、ここまで読んであなたはどんな文脈を想像しただろう。『ごんぎつね改』である。元々僕はそれとも別の文脈で読んでいた。ごんは、子どもだった。子どものままだとどうなるのか。親がいなかった。教えてくれる人がいなかった。もしその文脈で読むなら、親や教師がよくよく反省することを促す物語にもなる。<考える>ことは、痛い。背筋を伸ばさざるを得ない。
最初の感想で「悪いことをしたのだから殺されて仕方がない」といった人がいたとしよう。だとしたら、もしごん濡れ衣説が正しいと<仮定>したら?悪いのは、兵十になる。ただただやさしいだけのごんを勘違いで撃ち殺したのだ。だとしたら、兵十も、撃ち殺されて仕方がないのだろう。さて?「自業自得だ」と言った人がいたとしよう。もしごん濡れ衣説が正しいと<仮定>したら、濡れ衣を被らないようにうまく立ち振る舞わなかったごんが悪いことになるのか。語り手による大衆操作、マスメディアに対して脆弱なまま大きくならないようにと、私は祈る。生存者バイアス剥き出しで「自己責任論」を振りかざす子どものまま大きくならないでほしい。それは凌辱だからだ。
今僕が<考え>ているのは、『ごんぎつね』を小学4年生から中学3年生まで読み続けるとしたら、どのような文脈が可能なのか、ということだ。小学四年生なら「気持ちを読み取ろう」でいいかもしれない。いやいや、小学四年生といったら、もっと別の発達課題があるだろう。小学四年生でも「根にもつ」「いじめ」「いやみ」「なすりつけ」「責任逃れ」はする(できる)だろう(大きな子どもの世界でも!)。『ごんぎつね改』の文脈も読み取れるのではないか?友達を誤解する、知らない人を警戒する、勘違いして誰かを傷つける、誰かに騙される、そんな子どもたちの実体験を「読み取る」ことができるなら、「問う」ことが大人としての責任ではないのだろうか。『ごんぎつね』は<他者性>の物語である。大人は、責任のある大人は、「読む」ことと<考える>ことを結びつけるように、子どもに「問」わなくてはならない。その多様な評価のあり方に、価値のあり方に、ひとつづつ没頭していくことで、<他者性>を内在化できる。それこそが、人間性であると、僕は信じている。
青空文庫『ごんぎつね』
ーーー
追記
『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(文藝春秋
この記事を読んだときに、びっくりした。教師が期待する1つの文脈を察知し「演繹」ができない。それでも子どもたちは「推測」している。その推測が「正しい」のかどうかを検証することに、時間を割く必要がありそうだ。(社会科で歴史上の登場人物やら年号やらを覚えるのではなく、時代別の「葬式」のあり方を知った方がいいのか?と<考える>といい)。人間性のために、その「読み取り」が正しいかどうか、調べ学習をしたらいい。本当にそうなのか。調べたらいい。たったそれだけのこと。国語は国語だと社会科から切り離す縦割りの省庁のような役所になっていないか。学校という組織を見直すことを<考える>べきは大人(大きな子ども)だ。もしその<推測>が正しいなら、ごんぎつねの時代に死体を煮る文化があったのか、調べさせたらいい(自分の言ったこと、自分の考えに責任を持たねばならない。人として)。生徒の信じた一つの文脈に、教師は「問い」で立ちはだかる。(もしくは、お茶を濁して先に進めることで<考える>機会を奪う)。
(「鍋で何を煮ているのか」という問い自体が、その先どう繋がるのか、どんな価値を持っているのか、僕は<考え>ていない。その問いにどんな価値があったのか?斎藤喜博のまねか?僕は<考え>ていない)
『一つの花』という文章に対する子どもたちの反応は次のようなものだったらしい。
「駅で騒いだ罰として、(ゴミ捨て場のようなところに咲く)汚い花をゆみ子に食べさせた」
「このお父さんはお金儲けのためにコスモスを盗んだ。娘にそのコスモスを庭に植えさせて売ればお金になると思ったから」
このことから、子どもたちの世界の見方を大人は「読み取って」、恥じるべきだ。「罰」や「金」という文脈で世界を読み解こうとする子どもを育ててきた人間という環境に対して、親や地域に対して、親の勤める会社に対して、マスメディアに対して、スマホに対して、フォトナに対して、ポケカに対して、強く大きな文脈に対して、学校は何をするのか。教育者は責任を放棄せずに、<考え>なければならない。それとも、『ごんぎつね』のように、ごんに濡れ衣を着せ、仕方がなかったのだと、自分に言い聞かせるのだろうか。
コメント