自分の生き方に誇りを持つー生きるためのビッグファイブ
『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル
遺伝とビッグファイブの関係
パーソナリティーは、その人がどんな遺伝子変異体を持っているかによって、半ば(50%)決定される。
不幸な結婚生活にとどまる人々と、離婚する人々を区別するのは、外向性と調和性のレベルである。
死亡の翁予測原因は誠実性の低さだった。スコアが低い人の場合、どの年をとっても、死亡の確率はおよそ30%高かった。健康的な生活
誰にとっても、生きること、そして満足のいくパートナーをもつことは、経験の面からも進化の見地からも、人生の極めて重要な要素である。せいぜい10分程度で終わる質問しに答え、その氷帝尺度によってそれが予測されるのであれば、たとえ不完全であっても、私たちは姿勢を正してそれに向かわなくてはならない。人間の生活後不合理で予測のつかない煩雑さに満ちている以上、それらの尺度が何らかの予測的価値を持ちうるという事実を直視し、なぜそうなるこかを理解しようと務めるべきである。(p.43)
なぜその人は外向性があるのか。よく喋るから。
よく喋るのはなぜか。外向性が高いから。
パーソナリティー特性はどの行動が同時に起こりうるかを語る。
パーソナリティー特性における個人差のおよそ半分が、遺伝的変異に関連していることをはっきり示す。ビッグファイブで評定されたスコアが高いか低いかということはすなわち、ヒトゲノムに3万ほどある遺伝子のうちのいくつかにあるそうした変異体によって差異を生じている、ということなのである。いくつかのケースでは、すでにどの遺伝子が関わっているのかもわかりはじめている。(p.48)
状況は心のメカニズムの引き金を引き、それが一連の行動を促す。だがそれらのメカニズムが状況によって引き金を惹かれる度合いーどれほど強く、あるいはやすやすと引かれるかーには個体差がある。実を言えばこの点が、パーソナリティ特性のよき定義を打ち立てるのに役立っている。すなわちパーソナリティ特性とは、特定のタイプの状況に反応すべくデザインされた心のメカニズムの反応性における安定した個体差である。(p.51)
ポジティブにしろネガティブにしろ人生の出来事を経験する傾向にはかなりの遺伝性があることが、最近になって双子の研究から明らかにされた。一卵性双生児は、二卵性双生児に比べるて経験する人生の出来事がはるかににしている。考えられる理由はただひとつ、パーソナリティそのものに遺伝的な変異があり、これが状況選択と状況喚起を通じて、似通った状況パターンへと導くのだろう、人生というのはそれ自体、可能性の空間を曲がりくねって進んでいく流れのようなものだ。その中で私たちがとるどんな行動もつぎに直面する状況に影響を及ぼす。少なくとも豊かで自由な社会においては、人が成熟した大人になるまで、人生とは意識的と無意識的とにかかわらず、だいたいにおいて自分で選択した状況に、適切に反応していくことに他ならない。(p.55)
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神経質傾向
ネガティブな情動が過度に活動すること。
遺伝子の影響
グッピーを捕まえ、水槽で繁殖させると、下流の生息環境で暮らしていた親の子は、上流の生息環境からきた親の子よりも、捕食者のいる水槽で生き残る率が高いのである。当然、子には捕食者との経験がない。親が一度も見たことのないようなタイプの捕食者を水槽に入れた時も、結果は同じだった。(『パーソナリティーを科学する』p.82)
(シジュウカラが飛び回るタイプか枝にとまる時間が長いかという)探索スタイルに見られる個体差のおよそ30%〜50%が遺伝によるということが判明したのである。これは人間のパーソナリティ特性について見出される率と似た範囲に属する。(『パーソナリティーを科学する』p.85)
能力によっては、75%が遺伝子できまっているという。(その点を工夫しないとウマくいかない-学び方がひとりひとり違うということ)
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放浪者ー外向性
外向性ー内向性
外向性が高い=ポジティブな情動(喜び、欲望、熱中、興奮)への反応性が高い
外向性が低い=内向的(人工的幸福?)、ポジティブな情動(喜び、欲望、熱中、興奮)への反応性が低い
薬物依存性=誠実性
内気=神経質傾向
社交性≠外向性
社交性=調和性
衝動性≠外向性
外向性と社交性を同一視することには、慎重であるべきだ。第一に、人が内気なのは、外向性が低いためというよりもむしろ、不安と神経質傾向が高いことによる場合がきわめて多い。外向性のスコアが低い人は必ずしもシャイではない。単に社交に価値をおかないだけで、社会的なつきあいがなくても対して気にしない。外向性の低い人々がしばしば人付き合いが悪いと見られるのはそのためである。もうひとつ気をつけるべきなのは、外向性の高さと、良好な社会的関係を混同してはならないということだ。外向性とは、人がどのくらいパーティに行くのが好きか、どれくらいの時間を社会活動で過ごすか、新しい友達をつくる才能があるかを予測するだけで、その友人関係がどれくらい良好であるかを測定するものではない。(略)外向的で同時に調和性の低い人物は、社会的にきわめて問題になることがある。彼らはパーティに行き、酒を飲んで酔っ払い、果ては初めて会った人と大げんかすると行った行為に非常な快感を覚えるのだ。外向的で調和性の低い人間は、ためらうことなく他の人々の前で完全に相手を無視できるし、それで自分が有利になると思えば、むしろ楽しんでその行為をするかもしれない。(略)外向的な人は、セックスと恋愛を楽しみ、野心をもつ(もちろん、彼らの野心の内容はきわめて特徴的ではあるが)。さらに、ステータスを手に入れることや、社会の注目を集めることに喜びを見出す傾向がある。彼らは名声や金を手に入れるためん猛烈に働く。もっとも、レジャーの追求にも熱心だ。活発なスポーツや旅行、新しい経験をするのが好きである。総じて彼らは、目標追求のためにあり余るエネルギーをもった、きわめて活動的な人々と見なされる。この外向性の中に、いわゆる「衝動性」がどの程度含まれているかについては、長年にわたって議論がなされている。ここでいう「衝動性」とは、事前に考えもせずに個人的、金銭的なリスクを引き受ける、賭け事やドラッグに手を出す、法をもてあそぶ、あるいはまた人生に少しばかり危険を求める、といった行動である、この種の行動は、外向性ともうひとつの次元、誠実性との共有領域に含まれる、ただし、依存症のような有害なものの大部分については、誠実性のスコアの方が予測値として優れている。(『パーソナリティーを科学する』p.92)
外向的な人はポジティブな情動を多くもつのである。外向性のスコアが高い人は、低い人に比べて日常生活のなかでたえず、喜び、欲望、熱中、興奮といった状態を示すことが多い。(略)ポジティブな情動とは何か、それらの情動はいずれも、何らかの望ましい資源を追求したり獲得したりするのに応じて、活性化する。欲望が引き起こされr、私たちに望むものを追求させる。その資源を手に入れることを予測して、興奮がます。手に入れた後には喜びがやってくる。いずれも、物事を手に入れる、あるいは手に入れようとして動くことに関わっている。だが、どんな「ものごと」なのだろう。ポジティブな情動の対象として普通に繰り返し見られるのは、潜在的に重要な他者からの関心(新しい友人をつくるなど)、ステータス(昇進を手に入れる、もしくはベストセラーを書く)、物的資源(昇給)、新しい配偶者の獲得、新しい技や仕事をマスターする、あるいは、ただたんに楽しい場所にいることなどである。ポジティブな情動を引き出して働かせるこれらの事柄のすべては、誘因(インセンティブ)とみなされる。(『パーソナリティーを科学する』p.94)
世界には二種類のインセンティブがある。条件付けによらないインセンティブとは、報酬がもたらされることを人が(そして動物も)うまれつきごく自然に知っているものだ、ラットに向かって、空腹なら食べるようにとか、水よりも砂糖水の方を好むようにとか、教える必要はない。(略)これとは別に、条件付けによるインセンティブがある。(略)たとえば、ほとんどの人は金を強いインセンティブと見るが、これは無条件の結びつきではありえない。金のもつ利益と何らかの自然なインセンティブとが、条件付けによる組み合わせを作り上げたということなのである。(『パーソナリティーを科学する』p.95)
「私にはひとつ目的があります。それはもう一度金持ちになることです。私にはそれができる。金持ちの生活がどんなに素晴らしいかわかっていますからね。人生なんて、金がなければ生きる値打ちはありません……引退なんかしたくないですね。死ぬまで働きたいと思っています。いまはロシア語を勉強しているところです。ロシアの女性は世界一美しいし、生き生きしていますからね……いつかウクライナ出身の女性と結婚して、彼女に良い生活を見せてやりたいと思っています」一度は頑張って百万長者にのし上がり、それからすべてを失い、またもや何もかもはじめからやり直そうとしているこの人物。彼の楽天主義、断固たる決断力、そして捨て身の蛮勇ぶりには、感服せざるを得ない。何よりも、彼がそうしようというのは、必要に迫られているからではないのだ。ビルにとっては、チャレンジを引き受け、報酬を手に入れることが猛烈に楽しいのである。(『パーソナリティーを科学する』p.98)
外向性の低い何人かは、インセンティブに対するこうした慎重なアプローチをはっきりと示している。「実際、楽しみにしていることなどあまりないのです。安定した職をみつけたら、両親の家から出てどこかで暮らし、ガールフレンドと付き合い、必要のないものを山のように買い込み、たぶん結婚して子供をつくり、彼らにまた物を買い……それからたぶん、死ぬんでしょうね……ま、そんなところです」このコメントで目につくのは、これがきわめてストイックなところである。こころからは、内向的な人間のモチベーションについてきわめて多くのことが読み取れる。(略)人々が汗をかいて手に入れようとするものー物質的財産、結婚、キャリアなどーが良いものだということは彼にもはっきりわかっている。だが彼にとって、そうしたものは他の人たちほどには効果を持たないのである。向こうからやってくれば受け取る、しかしやってこなくても、たぶん苦にしないのではないかー近くにいれば友人たちと合うが、いなくても気にならないのと同じように。どちらにしても彼は完全に満足した生活を送ることができる。内向性の人はある意味で、世間の報酬から超然としており、それらが彼におびただしい力と、報酬からの独立を与えるのである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.101)
外向性とは、ポジティブな情動の反応に見られる個人差である、外向性のスコアが高い人は反応性が高く、仲間、興奮、達成、賛美、ロマンスなどの快感を手に入れるために必死になる、一方、スコアの低い人はポジティブな情動システムの反応性が高いため、こうしたものを手に入れることの心理的利益も少ない。両者にとってそれらを手に入れるためのコストが同じだとすれば、内向的な人は外向的な人ほどその獲得に心をそそられないのである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.104)
外向性の反応部位
腹側被蓋野・側坐核
中脳の報酬系構造体
ドーパミン系脳領域の反応レベル
外向性の抑制部位は?
外向性のリスクと利益
外向的な人はいつも突っ走っており、身体を動かすのが好きで、危険の多いことをしがちである。バスの運転手の調査では、事故を起こしたことのある運転手は外向性のスコアが普通より高いことが判明した。(略)外向性のコストと利益は、精妙に釣り合いが取れていると言える。人類の祖先の中で、外向的な人々のいくらかは何らかの状況のもとでおそらくきわめて成功したことだろう。そしていくらかは無謀な生き方をし、厄介な終わり方をしただろう。それにくらべて内向的な人は、つねにより慎重だった。こうして、適応という見地から見たこの特性の最適レベルは、境地的にはさまざまな状況ーほかの皆がなにをしているかを含めーに合わせて変動してきたのだろう。(略)大変面白いことに、DRD4の長いフォームが優勢になるのは、定住型社会より遊牧型社会のほうであり、この数千年間で大移動を行ってきた南米原住民のような集団では、とくにそれが高いという。このパターンが示唆するのは、放浪者であることが有利な状況では、DRD4の長いフォームが利点をもつということなのである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.111)
外向性の高さ=変動する環境
外向性の低さ=安定した環境
ーーーーー
総括?
外向性の性質を理解することには価値があるー自分が生まれてきた時代を理解することが重要であるのと同じように。人生のある時点で他の人と長期の関係を築くに至った時、相手のレベルがあなたのレベルと違っているかもしれないのだから。結婚した相手があなたより高い外向性スコアをもっていたとしたら、その相手は時にあなたにとっては無意味で、効果で、理解に苦しむようなことをしたがるかもしれない。パーティに出かけたり、ポルシェを買ったり、クレイジーな趣味に熱中したり……逆に、自分より低い外向性スコアの持ち主と結婚したならば、相手がまり行動的でなかったり、あなたの新しい計画に関心を寄せないことに、時に失望することだろう。気にすることはない。彼らはたんにそのように配線されているだけなのだから。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.114)
日本人という遺伝子と戦っている。
とすれば、僕はへこたれてしまう。
遺伝子という伝統との戦い。
環境VS遺伝子
変異VS定型
環境に揺さぶられ、こっちが優位になるまで、忍ぶしかない。この特性は勝手に子供に「保存」される。
というのが、科学の答えのようにおもう。
もし僕が子供を産んだら。
「君は、この社会ではマイノリティーだ。だから、仲間を見つけないといけない。でないと孤独で死んでしまうだろう。君の本性を理解してくれる人は少ない。その少ない人と出会いなさい。子供ができたら問いかけなさい。君はこの遺伝子をもっている。それを生かすか、殺すかと」
この遺伝子を殺すための環境を作り上げるか。この遺伝子を生かす環境をつくるか。
そんな重苦しいことを考えてしまうくらい、僕はまだ自分と向き合えていない。
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悩む人ー神経質傾向
神経質傾向が低い=楽観的
神経質傾向=ネガティブなイメージに対する反応性
神経質傾向=不安障害、恐怖症、摂食障害、心的外傷後ストレス障害、強迫性障害、統合失調症
神経質傾向=「一人称+苦しみの動詞」の表現。
神経質傾向=ワーカホリック(取り憑かれたように仕事をする)
勤勉性=神経質傾向+誠実性???
神経質傾向が低い=エベレストの登山家集団
神経質傾向が低い=強引・攻撃的・社会のルールを破る(制裁への恐怖を感じない)
神経質傾向が低い≠不道徳
不道徳=結果への恐怖+思慮+他者への共感=神経質傾向の低さ+誠実性の低さ+調和性の低さ
面白い映画の一場面を見たり、自分の素晴らしい経験についてかいた後などに、外向性のスコアの高い人は、気分が大きく紅葉した。それと同じように、恐ろしい場面を見たり、ひどい経験について書いたあとなどに、どれほどネガティブな気分になるかを予測するのが、神経質傾向のスコアなのだ。日常生活の苦労や厄介ごとについても、神経質傾向のスコアの高い人は、スコアの低い人よりも、強い影響を受ける。つまり神経質傾向のスコアは、ネガティブな情動システムの反応性を測るもののようである。ネガティブな情動とはなんだろうか。このグループには恐怖、不安、恥、罪悪感、嫌悪感、悲哀がたがいに関連しあって含まれるが、どれも経験するものにとってきわめて不快である。思うにそうした不快感は、私たちにそれらん経験を避けるように教えるためのデザイン特性なのであろう。ポジティブな情動が、私たちにとって良い事柄を探し出し、それを目指すためにデザインされているのだとすれば、ネガティブな情動は、祖先の環境である買ったであろう事柄を感知し、それを避けるためにデザイナsれている。(略)(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.119)
コストと利益
コスト
本来これらの情動はいずれも、捕食者に殺されるリスク、ステータスを失うリスク、社会からの排斥のリスクといった深刻な危険を検知するようにデザインされたものだった、私たちの祖先にとって、こうしたリスクはどれも死の宣告を意味したことだろう。現実の脅威を見逃すことのコストを考えれば、自然淘汰がさまざまなやり方でそれらの情動を超高感度に設計したのは当然だった、捕食者に食われたり、餓死したりするよりは、少しばかり根拠のない心配の方がはるかによい、過酷な自然と激しい競争の状況では、これはどうしても必要なのだ。だが、そこにはまた困った一面もある、ネガティブな情動が正しく作動しているときでさえ、心配の大半は全く根拠がないということである。夜、眠れずに、有力な同僚を怒らせたかもしれないとくよくよしているあなたは、おそらく必要もないのに心配しているだけであろう。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.121)
コスト
神経質型のスコアの高い人について考えてみよう。それらのネガティブな情動を煙感知器の感度になぞらえて、その度合いを集団内部の分布図に描くと、はっきりしたベル型の偏差が見られる。そして、神経質傾向のスコアの高い人は、ベル型感知器の曲線の終端にいるのであるこれはどういうことかというと、例えば分布図の最中央部にあたる人々の場合は、悩んでいる時間の80%が根拠のない悩みで占められているのに比べて、神経質傾向のスコアの高い人の方は気の毒なことに、99%が意味のない悩みで占められているということである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.122)
コスト
ネガティブな情動はまた、悪いことが起こるとそれを最悪の解釈に持っていく(「何もかも私が悪かった」、「みんな私を嫌いなんだ」、「私は絶対に成功しない」等々。これを「私は最善を尽くしたけれど、状況が私に振りだった」、「あの人たちの方が勘違いをしている」、「今度こそうまくいくだろう」というような対応と比較してほしい)。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.122)
利益
ネガティブな情動は私たちの体と心を保護するシステムであり、それらを完全に欠いたならば、悲惨なことになるだろう。ときおり、先天的に痛みを感じることができない症例があるこの症状を持った人は、必ず早死にする。自分に危害を加える対象を検知できないためだ。(略)これと同じことが、恐怖、悲しみ、そして罪悪感と言う感情の喪失についても言えるのである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.133)
利益
作家、詩人、画家やアーティストについてん研究は、これらのグループではうつの(四惟)患率が極度に高く、神経質傾向が極めて高いことを示唆している。彼らの芸術活動の達成に、その神経質傾向が役立っていることはありうるだろうか(略)第一に、彼らは作品を一種のセラピーとして描くのかもしれない。(略)第二に、神経質傾向の高い人々は、ののごとの現状(世界における事柄だけでなく、自らの内部についても)が正しくないと感じ、それを変えたいと思っている。この意味で、彼らはさまざまな領域ーとくに事故を理解し、そこに意味を見いだすことに関わる分野ーで、いわば革新者となるだろう。これと関連して、神経質傾向の高い人は失敗を恐れるため、それが動機となって必死で努力非認知流。むろん何もできないほど落ち込んでいるときは別である。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.137)
利益(勤勉性)
ワーカホリックには神経質傾向が高い人が多い。ジェイムズ・マッケンジーは、神経質傾向と大学生の学力達成度の関係について研究し、高い「自我の強さ」をもった学生たちのうち、神経質傾向のスコアが高いほど、よい学業成績を修めることを発見した。この「自我の強さ」は組織化と辞世の能力を計測するもので、ビッグファイブの中では誠実性のジャンルに含まれる。つまり、この学生たちが経験するネガティブな絵今日は、その燃料を行動に帰るだけの心の状態にあれば、より大きな仕事と達成に向けるエネルギー源となったようだ。だが、もし心があまりにも乱れた状態だったり、ネガティブな情動が病的状態との境目を超えた場合は、彼らの神経質傾向は利益になるよりもむしろ振りになるだろう。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.137)
利益(熟慮)
実行している目標が懸命でなかったならば、その「実行」段階にいることは必ずしも望ましいとは言えない。私たちは「熟慮」の段階に足を踏み入れる必要がある。そこで、正直かつ冷静に状況を見直し、必要ならプランを変え、あるいは捨て、あるいは規模を縮小する。この教区面では、私たちは過度に楽天的であるのをやめ、慎重になり、事柄の詳細な部分により多くの注意を払い、悩み、思い巡らすのだ。熟考に彩られたこの心の状況は、神経質傾向のスコアの高い人にとっては馴染みの場所だ。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.138)
利益(熟慮)
現実生活のなかには、素面の批判的な目が尊ばれる多くのニッチがあると言うことになる。私たちの社会は、全員が陽気で、やる気満々である必要はない。ちょうど、個人としての私たちが、実行と熟慮という両方の精神状態を必要とするように。(略)世界には、これらが極めて貴重な価値を持つニッチがある。むろん、いずれもコストを伴う。人生の日々の道筋にまき散らされている、しばしば恐ろしいまでの苦しみがおれである。生きるこつとは、これらのコストにうまく対処し、ともに行き、押しつぶされないようにすることである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.141)
鬱は遺伝?
一回でもうつの発現を経験した人は、50%の確率で、2年以内に再び発症する。2年以内でなくとも、いつの時点かで再び発言する可能性は80%である。また、たとえ本格的な症状が出ていないときでも、うつにかかっている人の情動には、顕著な特徴が見られる。要するに、うつとはだしぬけに現れ、そのあと完全に消失するものではなく、基礎をなすパーソナリティ特性の結果として生じる、周期的でしばしば反応的な再発とみなすべきだろう。(略)洪水の例えで言うなら、神経質傾向の高い人は低地帯に暮らしているため、水面レベルがほんのちょっと上昇しただけで溺れてしまうのである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.126)
神経質傾向=センシティブ?
神経質傾向の高さ=自尊感情の低さ。アイデンティティの不安定さ=
境界性パーソナリティー障害
人生設計と個人的目標が不安定であることで、これに価値がないとか空虚だといった感情が慢性的に伴う。彼らは多くの新しいライフ・プランを作り上げ、しばしば現実離れした不適切な結婚ーそれも短期で終わることが多いーをしてしまう。彼らがこうなるのは、自分がだれなのか、どうすれば幸福になれるのか、自分にはどんな価値があるのか、つねに疑いを抱いているからなのだろう。ロバート・マクレーとポール・コスタの洞察に満ちた表現によれば、神経質傾向のスコアの高い人は「ちょうど不眠症の患者が寝床のなかでなんとか快適な姿勢を見つけようともがいているように、つねに新しい自己定義を試し続けている」のだ。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.131)
神経質傾向(セロトニン・トランスポーター遺伝子が短い)
ネガティブなイメージを見た時に活発になる部位
小脳扁桃
側頭葉の下にある神経核
ネガティブな情動を抑制する部位
海馬
右背外側前頭前野
もし高い神経質傾向が、環境ないの脅威のキューにたいして過度に警戒させるのだとしたら、いったいどうして彼女は、虐待者、女たらし、大酒呑みといったろくでもない男たちと一緒になったのだろう。当然彼女の心の警戒システムは、この種の問題を示唆するようなどんなわずかなキューにも反応しただろうし、そうでなければ彼女はネガティブな情動の論理からして、問題をはらむ状況から遠く離れるか、すぐさま脱出しなくてはならないはずだった。なぜ彼女はそうしなかったのだろうか。(略)ネガティブな情動が影響を与えるのは、外の世界を評価するためのメカニズムdかえではない。それとまったく同じようにm私たちが自分と自分の価値を評価するメカニズムもまた、ネガティブな情動に影響されるのだ。(略)低い自尊感情と結びつくものに、自己概念が不安定だという特徴がある。神経質傾向の高い人は、自分の生き方が間違っていなかったかどうかにたえず思いをめぐらす。おそらく、ネガティブな情動が活発になると、自分が間違った生き方をしているのではないかとたえず疑い続けるのである。(略)スーザンもまた、大人になったあともずっとアイデンティティと目標を変え通づけてきた。彼女は書いている「私は始終自問したものですー生き方を間違えてはいないだろうかと」(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.129)
神経質傾向=知的専門職としての成功を予測する(弱い)ポジティブ要因(熟考するから)
私がいつも胸を打たれるのは、人間というものについて最大の洞察をもつ人々が、彼ら自身、不幸な人物であったように思えることだ。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.139)
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子育てとは。
50%の遺伝子の影響をさらに50%の環境により高めたり低めたりする文化的行い。
現代において大切な子育ては、神経質傾向を低めることだ。
もはや安定している。
神経質傾向を低めるとは?
ネガティブな情動を取り除く時に、お守りを渡してしてあげること。
子供が保育園にいるとき「保育園を変えたい」と言ったという。お母さんは理由を聞かず、「いいよ」といった。
そうして子供は別の園に通い始めた。後でいうに、寂しくて泣いていたら、保育士が毛布をばさっと顔にかけたのが怖かったのだと。言葉にできないことが、子供にはある。まだそこまで言葉を自由に使えない、そんな子供の感情を全力で感じ取って、受け止める。これはどこか、「ふらっと」でみた光景と同じような気がする。
環境に対するレジリエンス、忍耐はどうやって鍛えるのか?
神経質傾向を低めることである。(もう一つは誠実性を高めること?)
例えば「うつ」の家系であれば、その家系の人たちは「いかにうつにならないか」を知恵として、振る舞いとして、家系の文化として継承していくことでよりよい生き方を次世代に繋いでいけるだろう。もしお母さんがお父さんから暴力を受けていて「私はそんな男とは結婚しない」と思っていたのに結局今のお母さんがお父さんから暴力を受けたりなんだりしていたら、お母さんは生まれてきた子供に(それが女の子ならなおさら)「遺伝子をいかに克服するか」を学ぶように導くことによってしか、この連鎖を断ち切れないかもしれない(子供を多く生むほど、遺伝的にも環境的にもお母さんの影響が少なくなる可能性が高くなる(子供が多くなるほどお母さんも“慣れて”お母さんの手から子供が離れることで)かもしれない)。
今は「悪い」とおもわれるパーソナリティー特性が、他の特性を強めることで「良い」特性として使えることもある。自分を自分でデザインすること。
ある研修会で「ダウン症だが、ダウン症とわかっているために小さい時からトレーニングを積み重ね、(トレーニングすることを自然な環境にする子育てを実践し)不得意なことが問題にならないような工夫をし続けることで、ふつうの会社員として働いている」ことを取材したテレビ番組をみた。
子育てとは、このような計画・意図をもっていることが、「必要」だとおもう。この時代。
50%は遺伝。50%の環境を作り出すこと。
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心理学者の故スーザン・ノーレン・ホークセマは、人が「ネガティブな感情を繰り返し、受 動的に」考えるときに何が起こるかを深く考察した。彼女はそれを「考え込み(反芻)型反 応スタイル」と呼んだ。
彼女が追究したのは、そのスタイルにとらわれたときに人はどうなるかということだ。た とえば先ほどの例で、自分のアイデアをつまらないと言った同僚に対して考え込み型の反応 をすると、そのアイデアが本当に ばかげているのではと心配になり、自分のアイデアのすべ てがばかげているとさえ思うかもしれない。そのように反応しなければ、相手のコメントな ど気にせず忘れられる(か、たしかにつまらないアイデアだったと思い直して忘れる)はずだ。
悲しみを感じたときにこのような考え込み型の反応をする人は、全体として抑うつ症状の レベルが高いとする研究が複数あるのも驚くにあたらない。このような反芻思考、つまり、思 考がループして止まらない状態は、慢性のうつ病の予測因子にさえなりうる。 (『あなたの脳は変えられる』ジェドソン・ブルワー p.177)
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自制できる人ー誠実性
誠実性ー衝動性
誠実性の低さ=依存症的ギャンブラー・アルコール、コカイン、マリファナの依存症
誠実性の低さ=無責任な行為と違法行為の繰り返し
遺伝
研究者たちは、ギャンブル、薬物依存、そして反社会的行動について、集団全体、家族内、そして双子を使って、その共存度を調査してきた。その結果、この種の抑制の帰化ニア行動には、共通した遺伝的傾向があるという結論に達している。(略)それは、そうした状況に引きずり込まれる人たちの気質構造を反映する。
誠実性が高い=衝動のコントロールができる。まじめ。
誠実性が低い=衝動がコントロールできない。気の向くままに行動し、意志が弱い。怠惰。
人のパーソナリティのうちで、どの特徴から依存性の問題が予測されるかについて調べた研究からは、重要な役割を果たすのは外向性よりもむしろ誠実性だということがはっきりしている。(略)外向性のスコアが高い人はスコアの低い人よりも、酒、ドラッグ、もしくはスリリングな勝負から手に入れる快楽が大きい。もたらされる側坐核の活動がより大きいからである。だが、もしかれらが誠実性のスコアも高いのであれば、どれほどその快楽が大きくても、二度と手を出さないと決心できるだろう。(略)繰り返すのは、快楽を求めるためではなく、ましてやむにやまれぬ渇望でさえなく、一旦形成された習慣をやめる抑制メカニズムが無力だからなのだ。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.150)
依存性=神経質傾向の高さ+誠実性の低さ
心身症・精神障害=神経質傾向の高さ+誠実性の高さ
誠実性の高さで活発になる場所
前頭葉
背外側前頭前野
眼窩前頭野(心破壊されて人格が変わった事例は有名)
コスト(怠惰・無気力)
誠実性とは、前頭葉におけるこのメカニズムー目先の反応を抑制して、目標もしくは規則の方を選ぶーの反応性の大きさなのである。そうなると、誠実性が極めて低い人というのは、たとえそれがどんなに有害であっても止めることができない依存症パーソナリティを意味する。彼らの大部分は、依存症や反社会的障害に陥るほど極端とはならない。それでも誠実性のスコアの比較的低い人全員が、軽くはあるがこの種の衝動のコントロールで苦労してる様子が見られる。私の通信員のうちで誠実性のスコアの低い人の欠いてくる物の中には、野心はあるけれども「怠け癖が邪魔をして……」とか、経済的な理由でキャリアアップする必要があるのだが「本音はやりたくない」とかいった文章が散見される。というのは、本来彼らには「集中力が欠如」しており、ぶらぶらしている方が好きだからである。実は誠実性のスコアが低めの人が不利となる主な領域が、「仕事」なのだ。全般的に見て職業上の成功を予測するうえでもっとも信頼できる要因は、誠実性である(特定のタイプの仕事に必要なパーソナリティとは別)。おおむね他の条件が同じであれば、誠実性のスコアが高ければ高いほど、成功の可能性も大きくなるだろう。職業的成功と誠実性との相関は特に強いわけではない。およそ0.2というそう感知は、他の多くの要素が影響していることを示している。(略)誠実性のスコアの高い人は、多くの目標を設定してそれらをこつこつと実行していくが、スコアの低い人は少ない目標しか設定せず、その目標に固執することもあまりない。スコアの低い人はものごとを先延ばしにしてぐずぐずし、目標を実行しないですますのである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.153)
誠実性≠知能
眼窩前頭野に損傷をおった患者は、全般的な知的能力を失わないままで、衝動的になりうる、極めて頭の切れている人でいながら、薬物などの依存症に陥るケースも多い。なぜなら、知能はどんな心的メカニズムの機能とも関係していないからだ。知能とはむしろ、私たちの全神経システムがいかによくーいかに早く、いかに効率的にー働くかを測る包括的な尺度なのである。したがってIQの高い人の場合では、何もかも効率的に働くわけだ。それこそ基礎的反射から、運動技能、言語、記憶、報酬システム、そして抑制システムに至るまで……。けれども、それらのさまざまなシステムがその人物の中で働く時の相対的強さについて、IQは何も言っていない。それゆえ誠実性のレベルについても、何ら予測はしないのである。少なくともかつては、私はそう考えていた。知能と誠実性の関係に関する研究で最も衝撃的だったのは、両者の関係が(予想されるように)ポジティブではなく、わずかにネガティブだったということであった。つまり、頭が切れるほど、誠実性は低くなるのである。もっとも妥当な説明はこういうことだろう。要するに、頭の切れる人は、前もって準備しなくてはもうまくやれることがすぐにわかってしまうため、わざわざ時間を使って訓練に励もうとはしないのである。鋭い理解力に恵まれているため、勉強でも仕事でもどんなチャレンジもうまく切り抜けることができるからだ。(略)ここから言えるのは、低い誠実性と高い知能の間には何ら内在的な遺伝的関係はないことである。むしろその弱いネガティブな相関は、発達を通して現れてくるのである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.154)
コスト
誠実性とは、人がうちにもっている基準やプランに固執することである。(略)だが、誠実性がいきすぎた場合はまずいことになる。狩猟採集生活の多くは、予測不能な出来事のために前以て計画するのは不可能だった。目の前を走り過ぎていくヌーの群を見送りながら「実は水曜日はハチミツ集めの日なんでね」などというのは、けっして良い反応とは言えまい。(略)何かが怒った途端、それまでのプランをかなぐり捨て、すぐさま精力的かつ自発的に身体の反応を動員できた人たちが成功したのだった。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.157)
利益
ADHD=高い神経質傾向+低い誠実性+低い調和性
この障害で際立って特徴的なものに、性別がある。少年のケースは、少女のそれにくらべて5倍に上るのである。(略)彼らは目の前の刺激に対し、強く精力的、かつ自発的に反応する。ADHDの若者で、プロスポーツの分野で成功している有名な例もいくつかある。狩猟最終卯の世界は予測不能であり、いくぶん無法で、ときとして暴力的で、また活動的で、つねに変化し続けていた。そのような世界では、このタイプの若者こそきわめて成功したはずである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.158)
ADHD、多動な人が働ける場所は?
コスト
誠実性が極端に高い=強迫性パーソナリティー障害OCPD(完璧主義)
「秩序、完璧主義、心と対人関係の統制に問わられ、柔軟性、開放性、効率性が犠牲にされる広範なパターンであり、成人期早期に始まりさまざまな状況で現れる。(略)OCPDの第二の特徴は驚嘆な完全主義であり、そのtまえにものごとをやり遂げることが不可能になる。ロナルドは会社で高く評価されているが、それは「彼が細かいことに気がつくため、会社の損失をときどき防いだことがある」からである。だが彼の完全主義はまた、こういう結果をも招くー「彼らは職場でもっとも仕事が遅く、たぶん最も生産的ではない。彼ディサービスが細部をきちんととらえるけれども、それを全体的視野に立ってバランスよく見ることができない。」OCPDの人たちの多くは完全性に固執しすぎるため、何事についても完成することがむずかしくなる。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.159)
前成人のおよそ2%(自然発生的??)男性は女性の二倍。
誠実性が極端に高い=摂食障害(女性)
誠実性の高さ+神経質傾向の高さ=強迫性障害OCD
OCDは不安障害であり、患者はいちいち確認したり手を洗ったりするなど、特定の考えや行動を繰り返さないと気が済まない。これは不安の疾患であって、うつや全般性不安障害と同じグループに属する。したがって高い神経質傾向と関連しており、ある程度まで、セロトニン作動性抗うつ剤に反応する。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.158)
コスト(柔軟性のなさ)
OCPDでは、自発的反応を抑制し、自分が作ったルールやプランのほうを選ぶという前頭葉のメカニズムがきわめて協力であるため、自発的行動というものは全く存在しない。あるのはルールやプランだけである。そのため他者と、そして環境との間で、(その時点での)真の相互作用は不可能となる。したがって社会的な場でも、ロマンチックな領域でも、あるいはまた職業や経験の面でも、たとえ貴重な機会があってもとらえることができず、ただ素通りしていくだけとなる。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.161)
コスト(柔軟性のなさ)
「私の職業倫理はいわば「軽躁状態(ハイポマニック)」といったところです。ほとんど四六時中何かに取り組んでいて、調査したり、考えたり、計画を立てたり、実行しています。私にとっては、何もしないというのが難しいのです……何もしないで時間を過ごしていたら、自分が怠け者で無駄な人間のように感じてしまいます……重要な事柄を先送りするようなことはしませんし、大して重要でないことでも大抵はすぐにやってしまいます。」(略)つきあいはあるようだが、親しい友人はほとんどいない。余暇にかんしても高尚で有益な趣味だけで、どうやら満足いくレない関係も経験したことがなさそうである、自分に設定したルールが、彼女を厳しい監督者に仕立て上げている。「これまで私は、生きる上での理念を磨き、それに従って行動しようと、必死で努力してきました。ときどき私は、その理念が禁じていることをやりたくなります。正しいことをするのはとても努力が要ります。」大学を卒業し、弁護士になるという最初の計画が挫折したいま、キャサリンは少々戸惑っているように思われる。学業優秀で誠実性の高い若者たちの間に、これと同じ症候群がよく見受けられる。高校。大学とつづくハシゴには、頻繁な試験と、勉強という目標がつねに用意されており、努力するための一連のターゲットが与えられていた。とつぜん学校から世界に吐き出されて、ふいに次の目標がわからなくなるのだ。彼らにとって、この時期は大いなる迷いの時期となる。このとき、誠実性の低い学生たちの方は、たいして問題にぶつかっているようでもない。彼らは旅に出かけたり、ぶらぶらして過ごし、遅かれ早かれいずれは目指すものが現れてくるのを待つ。キャサリンも、まもなく次の目標を見つけてくれるように願いたい。それでも彼女の文章は、楽観的な調子で終わっており、彼女の持つ高い学習能力を示している。どうやら彼女は、自分のパーソナリティーのもつ危険な要素についてしっかり理解しているようだ。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.164)
サポステにいく若者は、高い誠実性を、弱めたり、
誠実性が高い+神経質傾向が高い なら、ちょっと危ないかもしれない。
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例えばこのように対応させてもいい。
五行
水 開放性の高さ
火 外向性の高さ
土 誠実性の高さ
木 調和性の高さ
金 神経質傾向
水は火を弱める
開放性は外向性を弱める=芸術家は内向的傾向がある
木は火に弱い
外向性の高さは調和を欠く結果をまねく。
どれも、「過度」の状態が他のパーソナリティー特性を弱める結果を招くことを言っている。
五行は解釈、物語の世界に近い。
だがそうして「指針を得る」のは有効だ。
手相は統計学に基づくという。易もどんな根拠に基づいた「運勢判断」なのか。木になる。
木になる木
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共感する人ー調和性
調和性が、限りなく低かった。
僕はこれを変えた。変えた。ああ、確かに超意図的に変えてきた。だからもちろん、まだそのパターンにはほころびがあるけれども。(それでも遺伝子としては残っているから、もし子供が生まれたら、ちゃんと「教えなくちゃ」いけない。というか、「教えたい」のだ。)
心の理論とは、私たちに他者の心の状態を類推させる能力である。心の理論によって、私たちは、向かい側の小部屋にいる人が空腹を感じていること、食物を欲しがっていること、私たちが食べ物をわけてくれるべきだと思っていること、等々を類推できるのだ。先のチンパンジーの実験が示しているのは、そのチンパンジーがいつも他のチンパンジーに報酬のいかないレバーを選ぶということではない。彼らはただ、他のチンパンジーにとって結果がどうなるかなど、少しも意に介さなかったのである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.170)
✳︎心の理論=メンタライジング+共感
調和性が高い=EQ(共感指数)が高い
調和性が高いとは、他者の心の状態に注意を払う傾向があるということであり、また決定的なのは、それを行動の選択要因のなかに含めるということである。(略)調和性のスコアが高い人は、他者を助け調和的な対人関係を持ち、良好な社会的サポートをもつ。人と争ったり、侮辱することもめったにない。何があってもすぐに許し、実際に相手が悪くてもあまり怒ることはないのである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.175)
ボランティア、献血、カウンセラー、ソーシャルワーカー
人間関係への関心と道徳的喜び
「私は人とつきあうのが大好きです。同僚たちとの交流は私にとって喜びです。」家で仕事をすればもっと仕事ははかどるのだが、あえて研究室で仕事をするのはそのためなのだ。ほとんど毎日会っている家族、幸福な結婚生活……すべてが良好な人間関係を物語っている。それでも彼女は、自分が「あまりにも研究に打ち込みすぎて、愛する人たちをあまり顧みていなおいような気がして」いるので、仕事を制限することを決心したと書いている。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.176)
低い調和性パーソナリティーあまり他の人を信頼したり助けたりせず、冷暖だったり敵対的になる傾向が強い。また、人間ん関係は調和を欠き、「慰める」などの相互交流的、協調的な単語よりも、「襲撃する」のような個人中心的、競争的な言葉の処理に多くの時間を割く。心の理論の働きがすくなくなっているのは、偏執症(パラノイア)とも関連づけられている。結局のところ、相手の心の状態を正確に思い描くことができなければ、それを敵対的と見るしかないのかもしれない。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.177)
調和性の低さ=敵意
マリアが家族との親密さについて書いているのとは対照的に、この人物は、「家族への不振に苦しんだ」幼い時代のことを語る。両親は「二人とも無責任な大バカものだった。やつらの種で遺伝子プールを汚染する権利なんかなかったし、ましてそれを育てるなんてとんでもない話だ」そうである。彼によれば、父親は「意気地なしで、嫉妬深くて、けちくさくて、幼稚な野郎」で、母親は「怠け者で、弱くて、愚かで……エゴイストで、幼稚で、なかでも嫌なのは嘘つきで……何一つ良いところのない、信用できない女」だった。客観的にこれが事実かどうかはともかく、調和性の低い人物のかいたもののなかでも、これほど他者について敵意ある評価をしている例は見たことがない。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.178)
調和性の低さ=一人勝ちしたい(利己的)
マリアが他の人のためのさまざまな活動に道徳的満足を感じているのにくらべて、この人物が異常なほどの関心を寄せるのは、自分の個人的な成功である。「私には未来の自分んお姿を見ることがdけいる。そのとき、私は偉大な仕事を達成し、革命的な新しいアイデアを発見し、全世界の人々から畏敬の念を持って見られている。」そのような将来の展望が他の人々から利己的とみられることについて、彼ははっきりとこう述べる。「そんな批判は、頭の悪い人間どもが私の評価を落とそうとしているだけのことだ。自分より劣る人間たちのことになると、なぜいつもこの利他主義という考え方に屈服しなくてはならないのか。私が重視するのは、他のだれの利益でもない、つねに、疑いなく私の利益である……サバイバルとはそういうものではないのか」(略)「私は人を助けるのは好きではない」ー別の場面で彼は言うー「人道的な愛に駆り立てられて人類の病を救おうなどと、考えたこともない。」明らかにこの報告とマリアの道徳的満足についての報告は、調和性のスペクトルの対局にある。そして私たちの大半は両者の間のどこかに収まるのだ。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.178)
調和性の極度に低い人=精神病質(サイコパシー)
完全に自己中心的で、冷酷で、不誠実で、愛する能力を欠き、もっぱら自らの目的を達せ雨するために他者を利用する傾向を持つとされる人物である。(略)サイコパスの多くは札付きの犯罪者である。彼らはしばしば人をペテンにかけ、欺き、あるいは巧みに操って、富や名声、もしくは満足を手に入れようとする。彼らはまた、きわだって攻撃的である。ただ、すべての攻撃行動がサイコパシーのサインというわけではない。神経質傾向の高い人もまた、特定の状況のもとでは衝動的に攻撃的になるかもしれない。すでにみてきたように、彼らは極めて強いネガティブ情動システムをもっており、驚異と感じる対象に強く反応しがちなのである。(略)サイコパスの攻撃はこれとは違う。サイコパスは道具として攻撃を使う。それは自分の利益になる何らかの目的を手に入れるためであり、事前に計画されたものである。標的とされる相手からの挑発もなければ、後悔を伴うこともない、彼にとって、相手が味わう苦痛など、文字通り何の重みももたないのである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.180)
国ごとにパーソナリティを調べたらどうなるか。そこらへん知りたい。
知ったからって、どうすることができるかわからないけど。
この調査も、自己判断によるものであるため、「改ざん」しようとおもえばいくらでもできる。
そしてサイコパシーはこの意図を読み取り、裏切る。
サイコパスが国のトップになりがちな仕組みが、日本にある。韓国にもある。(パククネ、どうなったかしら?)
シビラシステムを取り入れても、きっと悪用するだろう。
犯罪性サイコパス=低い誠実性+低い調和性
人間のパーソナリティー特性の向社会的デザイン
反社会的な行動を抑制する要因=他者への共感+熟慮(衝動性の抑制)+恐怖=調和性の高さ+誠実性の高さ+神経質的傾向の高さ
調和性がきわめて低い人は共感を欠くが、それでも熟慮もしくは恐怖によって反社会的行動が抑制される、誠実性が低い人は熟慮を書くが、共感もしくは恐怖が彼を抑制するかもしれない。神経質傾向が低い人は恐怖をもたないかもしれないが、教官と熟慮によって抑制されるかもしれあい、この三者構成システムのおかげで、ありがたいことに、向社会的行動の確率が高くなるのである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.182)
低い調和性パーソナリティは必ずしも敵対行為に結びついていない。
(ディビッドは)外向性が低く、キャリアの野望や物質的成功にあまり心を動かされない人物である。ディヴィッドはまた調和性のスコアも低い。それにもかかわらず、彼はたよりになる夫で、良き父親であり、有能な教師であるとともに、信頼できる同僚である。(略)ただ、人間にはたいして興味がない。彼は自分の対人関係が「どちらかといえば限られている」と欠き、こう続けるー「大抵の場合、人間とのつきあいは私にとって退屈に思えます。私は一人でいる方が好きです。一人でいれば、自分の考えを好きなようにはばたかせられるのですから。」彼は自分でも、「人々への関心の欠如が、組織でうまくやっていくのを妨げている」ことを認めているが、それでも「自分を変えようとはおもいません」と言ってのける。たしかに、なぜそうする必要があるのか。別に誰にも害を与えていないのだ。彼が自分と人々との関係について書いているなかに、もう一箇所、興味をそそる部分があるー「だいたいにおいて、私は必要もないのにややこしい事態に巻き込まれるのを避けています。対人関係もしばしばその手の面倒をもたらします。そこには、ステータスやランキング競争にからむ隠された行為や信号が溢れており、私を苛立たせます。だからこそ、私はそんな交流に加わりたくないのです。」人間関係がステータスやランキングに関する信号で溢れているということは、私も否定しない。興味を引くのは、人々の会話が「隠された」事柄を含んでいると言っていることなのだ。言葉の下に隠された心の状態を解読するのに生まれつきあまり関心同い人たちにとって、人々との会話は複雑でほとんど不透明の代物なのだろう。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.183)
サイコパスはメンタライジングができても共感はしない。
自閉症はメンタライジングができないが、共感できる。
調和性は、メンタライジングよりも共感のほうにより近いようである。調和性が低いということは、自閉症と違って、他者の心の状態が解けないのではない。解いた結果に関心がないだけなのだ。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.185)
調和性とは?
調和性の次元とは、本質的に人がどれほど他者に配慮しているかを示すものである。調和性スコアの低い人(サイコパスのように)は他社の利益をゼロに近いところに評価し、スコアの高い人(マリアのように)はかなり高く評価する。私たちの祖先の時代、(理論上)最高値の調和性スコアをもつ人は、絶対に適応することができなかっただろう。(略)なぜなら彼らは、集団の全員に行き渡るだけの食料がないとき(祖先の時代にはしばしびあそうであったように)にも、他のみんなが腹一杯になるまで食べようとしなかったからだ。現代の集団でこのタイプに最も近いのは、「依存性パーソナリティ障害」と呼ばれている状態である。(略)患者はその極端な調和性ゆえに、完全に自分の必要や価値観、選択の自由、楽しみ、そして目標を犠牲にして他者の欲求をみたそうとする。一方、連続体の反対の端には、向社会的傾向をまったくもたない人々が想定されるが、彼らもまたほとんど子孫を残さなかったと考えられる、このような人々は社会的に追放され、避けられたはずだからだ。したがって自然淘汰は、この二つの極端の中間のどこかにいた人々に有利に働いてきたことになる。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.187)
コスト
調和性の低さ=昇進、社長、管理職になる確率の高さ
「いいやつ」ほど出世しない。
逆に、クリエイティブな仕事で成功するかどうかを予測するのは調和性の低さ。成功したいならば、冷酷でなくてはならず、自分自身と仕事を第一に考えなくてはならない。
もし「いい会社」「いい仕事」「いい人生」を送りたいなら、調和性を高くしないほうがいい。
冷酷に育てるといい。そういう人が管理職・経営者になっている社会が、今の日本だ。
外向性の高さと調和性の低さ。これが「地位と名誉」に必要なパーソナリティーだ。
男性は調和性が女性より低い傾向がある。
女性は調和性が男性より高い傾向がある。
女性は男性にやさしさと経済的豊かさを求めるが、両者の間には葛藤がある。親切と共感は高い親和性を意味するが、個人的成功は調和性の低さをいいしがちだからである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.192)
これがビジネスの原理と、子育ての原理の違いだ。
女性は男性よりもおたがいに強い友情を育て、一族の世話をする。心理学者のシェリー・てイラーは、すべての哺乳類において、脅威に対する「闘争もしくは逃走」反応は、実際にはオスだけに特有の反応だとさえ述べている。女性の場合、脅威に対する反応は「世話と友情」という方が適切であろう。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.194)
子育ての「明確な方針」をもったら、子育てに迷わないとおもう。
でなければ、子育ちであって、子育てではない。そういってしまうと、気負いしてしまうお母さんがいるかもしれないが。この時代、いろいろな情報に溢れた時代、子育てに信念があれば、楽になれるのではなかと、僕はおもった。もちろん、子育てをしながら、信念は変わって当然なのだけれど。
子育ての点で言えば「男性」の原理で動いている労働社会へと向かわせるために損なわれるであろう「女性」社会を補完するための仕組みが補償されていないことにある。保育園の無償化はただビジネスの原理を推し進めているだけだ。女性が「女性」となる環境を破壊されていることに気がついて、それを守ることが、男性の大切な役割ではないだろうか。子どもが「女性」を失えば「男性」原理のこの世界を動かしていくように、天秤が傾いていくのは自然なようにおもえる。サイコパスが増える。
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意欲 外向性
忍耐 誠実性
創造 開放性
熟慮 神経質傾向
共感 調和性
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詩人ー経験への開放性
余暇活動についての最近の研究によれば、開放性のスコアは、あらゆる種類の文化的余暇活動、芸術的活動にどれほど関わっているかを強くよそくするという。ひとによっては読書を好み、また人によっては画廊に行くのを好む、ということではない一方には読書にも画廊にも劇場にも音楽にも熱心な人がおり、他方ではそれらのどれに対して興味もない人がいる。あらゆる文化的ヨア活動に関わろうとするこの傾向は、ただひとつ、開放性によって予測される(開放性がネガティブに関わるのは二つの余暇活動だけで、残りはすべてポジティブである。その二つとは、ソープオペラを見ることと、ロマンス小説を読むことで、恐らくこれらの比較的努力を要さない活動は、他のもっと努力を要する趣味に当てられる時間がふえるについれて消えていくだろう)。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.198)
開放性=IQ?
開放性とIQスコアとの間にはポジティブな相関がある。相関係数はおよそ0.3で、ゼロよりもかなり大きい。知能のうちでも、言語と知識に基づく側面との相関は、非言語的もしくは空間的な推論部分と相関よりも高い傾向にある。(略)開放性は、前頭葉にある一連の認知回路の公立の個人差を反映しているということである。そうだとすれば、5番目のパーソナリティ要素は知能ときわめて近いことにいなる。この回路の効率はIQとも大きく関わっているからだ。しかしながら開放性には、知能とは全く異なるばかりか、完全に違った方向を指しているように見える、多くの相関や要素がある。(略)開放性の高い人間お典型が詩人もしくは芸術家だということである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.198)
芸術家が因習に刃向かう小w長であるのは、普遍的な現象である、ギンズバーク自身、活動的なカウンターカルチャーの象徴であり、確信主義者として政治に関わり、また性をめぐる時代の因習と反目していた。(略)異常な社会観をもつというだけではなく、多くの芸術家はその社会観を目まぐるしく方向転換する点でも異常であるようだ。多くの詩人と同様、ギンズバーグもまたさまざま職業、哲学、ライフスタイルを試し、自己表現の方法を絶えず探求して、メディア、写真、音楽、映画などの多様な形式で自分を表現しようとした。第三者の目には、それぞれの時期はばらばらで関連がなく、断片的にさえみえるかもしれない。だが詩人自身にとっては、全てが疑いなく同じ旅の一部だったのである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.201)
開放性とは
このように、ギンズバーグの「吠える」のなかに、私たちは4つのテーマを見出すことができた。意味の連想の広がり、因習にとらわれない不断の行為、超自然的な信念、精神病に似た経験というこの4つは、詩人だけでなく、一般的にパーソナリティ次元としての開放性に特徴的である。そのうえこれらは、知能やIQとは全く無関係なのだ。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.203)
詩人をはじめとして芸術家には精神障害の発症率がきわめて高い。この人たちは、開放性の高さではまさしく代表的存在なのだ、ほとんどの場合、彼らの症状は本格的な統合失調症ではない。はるかに一般的なのはうつであり、すでに述べたように、おおむねうつは開放性よりも神経質傾向と結びついている。(略)若い時の開放性はのちになってクリエイティブな活動に結びつくばかりでなく、精神医学の世話になる可能性をも予測している。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.204)
開放性が高く、神経質傾向も高いなら、芸術家に向いているということだ。
開放性=超自然的な信念、精神病に似た経験
異常体験の枠にはまる現象は、幻覚と擬似ー幻覚(幻聴、もしくは、自分が考えていることが声のように聞こえる)、近くの乱れ(すべてが奇異に見える、あるいは奇異な意味を持つように見える)、神秘的な考え方(超自然な力、頭を出入りするパワー、テレパシーの感覚)などである。(略)この異常体験のスコアとビッグファイブの開放性のスコアは相関している。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.205)
開放性のスコアの高い人は、伝統的な意味では必ずしも宗教的ではない。ほぼ全ての事柄で、彼らは伝統的ではないのだ、その上彼らは政治的にリベラルで、正統的な組織や団体の内部では居心地がようないといった傾向がある。だが彼らはしばしば世界の超自然的、あるいは霊的な活動に対して特異な強い信念をもっている。(略)開放性のスコアの高い人はまた、催眠術に比較的かかりやすい。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.206)
開放性=因習にとらわれない不断の行為
開放性のスコアの高い人は、芸術や研究関係の仕事に強く惹かれ、それらを追求するためにしばしば伝統的で画一的な組織ややりかたを避けるようだ。とくにまた、彼らにはつぎつぎと職業を変える傾向がある硫黄に思われる。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.207)
開放性の「真性な」パーソナリティ特性とは、境界のゆるい連想/異常体験の特徴群である。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.209)
開放性≠知能
開放性尺度には「私は複雑な考えを把握できる」というような項目が含まれる。もし質問が、「私は核連鎖反応がどのように起こるか理解できる」んはらば、答えとして叩き出されるのは重として知能であろう(少なくとも自己申告による知能だが)。一方もし質問が、「私は深遠な理念を理解できる」だったら、答えが反映するものはまったく違ってくる。世の中には、問題ー解決という点で恐るべき知性をもっているが、思索とか、まして神秘などといった非実際的な考えにはまったく関心のない人がる。そう敷いた人々は、知能は高いが、開放性は低いのである。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.210)
開放性=意味の連想の広がり、隠喩による連想の表現
人がある対象について連想するとき、使える連想の幅がどれだけあるかを示すのが拡散的思考課題(問題に対し型にはまらない多面的なアプローチ位をする創造的思考)であるが、その幅は開放性のスコアの高い人の方がスコアの低い人よりも広くなっている。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.211)
概念や知覚された対象がいずれも、広範な連想ラフトを活性化するのだとすれば、なぜ異常な信念が生まれるのかも理解できる。実際には「考え」であるものを聴覚と結びつけることによって、幻聴が生まれる。意味のない出来事が、そこにいない人物についての考えと結びつけば、テレパシー、もしくは超常現象という考えにたトリツク。要するに開放性が低ければ完全に別個のものとして保たれているはずの異なる領域と処理の流れは、ここではついには相互に作用試合、関連したものとして近くされるのだ。幻覚、錯覚、超常的信念はいずれも、この連想の緋色狩りが生み出した潜在的にネガティブな効果であるが、同時にそれらは、言語と資格の分野での創造性にとって強力なエンジンとなる。市の本質とはまさしく、異なる領域からの意味が結びついた言葉の印象的で隠喩的な仕様である。同じことがq活動についても言える。緩やかな教会を持って連想は、伝統的な知能のように規制の前提から問題解決を見出すだけではなく、全く新しいものへの味方へと飛躍して、新しい果実を生み、あるいは他社の注目を集める。開放性のスコアの高い人が、美術や文学において複雑絵複合的な意味を持った表現をおびただしく使い、異端的なステータスを選び、さまざまな追求に駆り立てられるのもここから説明できる。それゆえもし、開放性の心理学的基礎とは何かと問われれば、私はこう答えるだろうーかけてもいい、それは(低い開放性の心においては別々に保持されている)さまざまな処理ネットワーク間の相互作用の拡大なのだと。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.213)
利点
要するに私たち位は、自分を取り巻く言語的、表彰的表現に注意を払うように進化してきたのであり、芸術とは、その私たちの注意を引き、関心を捉えるのが最も巧みなもののひとつなのだ。したがって芸術家とは、連想の広がりゆえに、もっとも印象的で注意を引く表現を作り出せる人々ということができよう。(略)小規模の文化における良きシャーマンなどの呪術師について、その開放性を評価したならば、私たちの社会における詩人や芸術家と同じように、確実に高いスコアが出ることだろう。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.217)
利点
ジェフリー・ミラーによると、芸術的創造性は配偶者選択の基準として働く。もしそうなら、当然これらの領域で創造的な人間は後輩相手を惹きつけるために極めて有利なはずである。調査の結果、プロの画家や詩人は、趣味で活動している人や、あるいはまったく絵や市の創作に携わらない人よりも、一生のうちに関わる政敵パートナーが明らかに多かった。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.217)
コスト
脳の内部でもともと別個であった処理の流れが前よりも相互交流し始めると、一つ一つの流れについては、本来の専門分野である狭い仕事の効率が落ちてくる。異常体験と知能の間に弱いネガティブな相関があるのは、おそらくそのためであろう。また、開放性の高いディサービスとが自分の性格を「気が散りやすい」と評価するのも、これによって説明できるだろう。開放性のスコアが低い人は高い人よりも、実際的な問題や現実的な問題ーきわめて難しい問題であってもーをとくのがたぶん上手なはずだ。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.218)
芸術家のニッチ
ある生態学的状況では生存こそが絶対的原則となる、そこでは人々は、家族がこれからの二冬を生き抜くのを助けてくれそうあ実際的で有能なタイプに惹きつけられるだろう。そのような状況では、開放性には何のプレミアムもない。逆に、次の二冬を生き抜くのに何の心配もない状況ならば、想像力にトム霊感的な資質がもてはやされるかもしれない。よく知られているように、人類の歴史を通じて特定の時期、特定の社会に、芸術活動お偉大な開花が見られる。考えられるのはまさしくその時期い、局地的環境が変化し、配偶と吸うテータスの決定基準がより芸術的な方向へと移動したということである。(略)開放性と繁殖の成功との関係には、他にももうひとつ、込み入った要素がある。芸術的名声は繁殖に有利に働くけれども、妄想状態という僻(スティグマ)をもつのは明らかに不利である。したがって自然淘汰による高い開放性の結果が、これら2つのなりゆきのうちどちらになるかは、極めて偶発的である。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.220)
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あとの半分=遺伝によるのではない個体差(環境が生み出すもの)
どの特性にも何らかの脳のメカニズムに基づく識別可能な中核があった。そしてどの次元においても、だんだん高くなっていくスコアには、利益とともにコストがあると考えていいだろう。これらのコストと利益は、それぞれの次元の真んかの歴史を作り上げてきた。だが同時にそれは、現代の人間が人生を切り抜けていく上で直面することになる利益であり、コストなのだ。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.221)
行動遺伝学者によれば、パーソナリティにおける遺伝的構成要素のサイズは、全体のおおよそ50%だという。言い換えると、ビッグファイブのようなパーソナリティ特性に見られる個人差のほぼ半分は、遺伝子型の変異に結びついているというわけだ。残りの半分はむろん、遺伝子型とは無関係ということになる。パーソナリティ特性には、両親から受け継いだ遺伝子型とは関係のない、もう一つ重要な個体間の違いがあるわけだ。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.223)
僕も理解できていないが、子育てで子供の「パーソナリティは」変わるか。という問いに対して、学者たちの出した結果はこうであるという「親のパーソナリティは子供のパーソナリティになんら重要な影響を持ち得ない(もちろん遺伝子経由は別として)。子育てスタイル(どの子に対しても同じであるかぎり)は、子供のパーソナリティになんら重要な影響を持ち得ない。親の摂食、喫煙、家族数、教育、人生哲学、性についての態度、結婚生活の状況、離婚、もしくは再婚は、子供のパーソナリティにはなんら重要な影響を持ち得ない。もしこのうちのどれかが一貫した影響をもつとすれば、同じ家族で育った血の繋がらない子供どうしは、ランダムに選ばれたペアよりもパーソナリティが似ているはずである。だが実際にはそうはならないのだ。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.228)」
これをどう解釈したらいいのか。筆者は一つの考え方(考え方であって、結論ではない)として環境(nurture)と学習(learning)の役割を区別することを述べている。この考え方をすれば、どうなるだろう。僕は考えて見た。子どもは親から行動パタンや価値観を模倣することで学習をしていく。しかしそれは遺伝レベルのパーソナリティとしてではなく、行動の一つの選択肢として、自由の一部として、遺伝子ではなく、脳に刻まれるのだと。つまりパーソナリティとは、いくつかの次元でのこの世界への反応の強弱であって、いかに反応するかという行動までは規定していない。子供は親から人生哲学を学ぶことはできるが、それを自分がどうやってパーソナリティに当てはめるかを考えることはできても、パーソナリティそれ自体を変えることはない。ということである(ビッグファイブのスコアが全く同じ人でも、全く同じ人間にならないのはそのためである)。僕の経験からいえば、パーソナリティは変えられる。ただしそれは、思春期を過ぎて青年になり、長い時間をかけて自分と向かい合い、(ふらふらとしながらも)修行した結果であって、親がどうこうできるものではない。と言える。「パーソナリティーは」、子育てによって変えられない。
個体差はどのようにしてうまれるか。遺伝以外の要因。
近年ますます明らかになってきたのは、多くの種において、妊娠期の母親の状態が子供の成長、代謝、さらには大人になってからの行動にまで、かなりの影響をもちうるということである。例えば、妊娠期間中にストレスを受けた母親から生まれたラットは、そうでない母親を持ったラットよりも不安になりやすい。彼らは、新奇な、あるいは開けた環境がはるかに多くの危険に満ちているかのように行動するのだ。これが私たちの興味を引くのは、ラットのこの行動がまさに人間の神経質傾向のように見えるからである。この仕組みはつまり、妊婦の状態がーおそらくストレスホルモンのメカニズムを通じてー子が生まれ出る環境の「天気予報」の働きをしているということだろうう。その「予報」によって、この反応は、直面しようとしている世界に適応するよう調節されるのである。(略)「天気予報」として役立つのは、母親のストレスホルモンだけではない。母親が栄養失調だったり、成長する胎児に与える栄養が不十分だったりすれば、環境の食料不足を示す指標になりうる。(略)母親の栄養が代謝の発達に与える影響については、幾らかの科学的根拠がある。低体重であったり、飢餓の時期に生まれた赤ん坊は、小さな体と不十分な食料に適応した循環系ならびに代謝系をもってうまれてくる。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.239)
胎児期の影響という見地から、最近発表されたある興味深い事実を解釈することができる。いくつかの調査によって、パーソナリティの測定値が誕生の季節によぅて違うことが明らかになった。ことに秋と冬に北ヨーロッパの集団で生まれた人々は若者になってから、新奇性追求もしくは刺激追求の尺度でのスコアが、春と夏に生まれた人々より高い。新奇性追求もしくは刺激追求は、探索して報酬を求めようとする欲望に基づいた尺度であり、おそらく外向性の系列に属する。これら初見はまだ完全には説明されていない。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.242)
身体をはじめとしてその人のもつ様々な特徴
足が速い、免疫システムが強い、魅力的な容姿をもっているなどの特徴(健康、知能、体格、魅力)に合わせてパーソナリティを調整する。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.243)
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メタ認知、自己意識の強化の時代。中学生。
大人になってからの収入の差を生む変数は十代のころの身長の高さであった。16歳という形成期の年齢において比較的背が高かった少年は、社交的で運動の得意な若者になり、これが恒久的に彼らをやり手になるように調整したようである。この時点を過ぎると、たとえ後期の急成長気ごろまでに背が高くなっても、何の違いもうまなかった。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.244)
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影があり、光がある。生きるというのも絵画なのだよーヘンリック・イプセン『ブラン』
脳の配線を決めるのは、第一に遺伝子であり、第二に人生初期に受けたさまざまな影響だということ。では、パーソナリティは変えることができないのか。環境は、どのように個体差に影響するのか。パーソナリティは変えることができるのか。
個体差の要因1 遺伝子レベルの経年変化
初期の生物学的メカニズムによっておおむね固定されているビッグファイブ・パーソナリティー特性スコア
大人になり、歳をとるにつれて、調和性と誠実性のスコアがやや高くなり、外向性、開放性、そして神経質傾向がやや低くなっていく。生活史の面から見て、これはきわめて納得がいく。外向性と開放性には共通の部分がある。つまり、この二つの特性の高さに伴う行動ー野心、創造性、探究心、競争性ーは、人に社会的ステータスと資源を手に入れさせるのだ。心理学者のジョン・ディグマンが指摘したように、それらはエージェンしー(主体と自立の働き)として役だx日、基本的に世界での成功に導く。一方、調和性と誠実性の高いレベルは、他者への関係性を増すー前者は私たちの対人関係を調和のとれたものにし、後者は私たちに規範や規則を守らせる。この二つはコミュニオン(共同性)、つまり良き市民としての特性である。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.251)
個体差の要因2 行動特パターンの選択
たとえば、外向性のスコアの高い人のなかで、一人は北極探検家になり、別の人はスカイダイビングに挑戦するかもしれない。さらにもう一人は、北極体験もスカイダイビングも試みるチャンスはなかったが、社会の中で活気ある顔(ペルソナ)を作り上げたかもしれない。要するに外向性ひとつとっても、多くの可能な行動表現の手段があるということであり、どれを採用するかは、個人個人の歴史、チャンス、そして選択によるということなのである。ただはっきり言えるのは、もしあなたの外向性のスコアが高ければ、少なくともそのうちのひとつを採用するだろうということだ。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.249)
行動の表出は「回転に合わせて」行われるのと同じように、「回転に逆らって」行われることもある。(略)回転位逆らった
行動はきわめて後半に見られる。たとえば、一緒にいることで自分の最悪の部分が引き出されるようなある種の人々を避けるというのも、そのひとつだ。自分の気に入らないパーソナリティの鏡面がでてくるような状況から、あえて離れていることもできるし、ピアノの練習を終えるまでは外出するのを自分に禁ずることもできる。あえて仕事を引き受けて、人々と会わざるを得ない状況に自分を追い込むこともできる。行動パターンを変えることによって自分のあり方を変えるというのは、容易なことではない。そのためには脳の意識的な実行機能を使って、心の深いところにある、極めて強力で、しばしば無意識のメカニズムと衝動をくつがえし、あるいは取り消す必要さえある。これは骨の折れる、また、熟慮を要する作業であり、しかも成功の保証はまったくない。行動パターンによっては、簡単に変えたり避けたりできるものもあるが、どうしゆおうもないほど変えるのが難しいパターンもある。それにもかかわらず、自分たちの性向を「回転に合わせて」表出する方法を選ぶか、あえて「回転にさからった」表出を作り出すかの間で、私たちにはある程度の個人的自由を手にすることになる。ー今の自分とこれからの自分を形成するうえで。
個体差の要因3 パーソナリティーライフストーリーの再編成
本人が誰であるか、何をしているのか、なぜそれをやっているのかについて、自らに語る主観的ストーリーである。人間が物語を語る生物だというのは、疑う余地がない。(略)全く同じ客観的出来事が無数のことなる物語へと解釈されうるのだ。キャリアでは成功しなかったものの、さまざまな経験をしてきた人間は、自分の物語を失敗と血管のそれとして語ることもあるだろうし、あるいはまた勝ち残りの競争からの心楽しき闘争のそれとして語ることもありうる。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.250)
私たちがはるかに大きな自由を持つのは、自分をどう見るかという点である。第三のレベル、すなわち主観的なライフ・ストーリーでは、気質的な要素の制約はほんのわずかしかなく、実際に客観的事実による制約もあまりきいていないからである。例えば、あなたに今ほとんど金がないとして、これを欠陥とみるか美德ととるかは、かなりの程度まであなた次第である。あなたは、自分に金がないことの意味を様々に解釈することができる。このように、何かを客観的に変えることがむずかしい場合でも、少なくとも、それについての考え方は変えることができるのである。そのような再構成は、サイコセラピーでも、またもちろん個人の成長においても、極めて重要である。ただし、それは必ずしも簡単ではない。ことに高い神経質傾向はここでも制約となる。この特性が高い人は、極めて多くの悪いことを自分の身に引き寄せる傾向があるのだが、それより問題なのは、彼らには自分について肯定的なストーリーを語るのが難しいことだ。客観的に見て彼らの人生が肯定的な要素を含んでいる場合でさえ、そうなのである。彼らがネガティブな自己イメージや他者との比較を克服するには、しばしば何年もの苦しい努力と、認知行動療法のようなサポートが必要となる。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.254)
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大切なのはむしろ、自分がたまたま受け継いできたパーソナリティ・プロフィールの強みを利用し、弱点からくる影響をできるだけ小さくすることによって、実り豊かな表出を見つけ出すことなのだ。このように見るならば、個人のもつ生活は利用されるべき資源であって、なくなってほしい災いではない。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.258)
この一文の後に続くのは、誰かのパーソナリティによって自分が不足しているパーソナリティを補い、個人が補い合うことで、自分の役割を果たすことだ(それが共依存関係になることもあるだろうと僕はおもうが)。自分が苦手なものは他者がやる。他者にできなことを、自分がやる。孤立しないこと。「個人」が孤独ではなく、「個性」として組織化すること。例えばおとのねさんはビジネスマインドがない。広報が下手。車もってない笑。そこで、それを誰かにやってもらうことで、思いを同じくした仲間と一緒にやれば、うまくいく。という考え方だ。自分のニッチをつくり、生態系を作り上げる。そこには植物もいれば、蝶々もいる。そこに新しいニッチを求めて、生態系は複雑に、豊かになる。人間社会の豊かさの源は「個性」の多様性にある。
私たちはすべて、複合的に入り組んだ社会のネットワークにはめこまれている。家族、コミュニティ、そして組織……そのどれもがさまざまに専門化した多くのニッチを供給してくれる。大人のあなたが新年として持つようになった目的や価値がなんであれ、ただしいニッチを選ぶ限りは、自分のパーソナリティ傾向と調和しながらそれを実践して生きる方法がある。これまで何かに取り組んできて、一度として心が落ち着くことがなかったのであれば、ひょっとして自分にあったニッチを目指していなかったのかもしれない。家族や文化、あるいは時代に評価されるようなニッチはもういらない。そうしたプレッシャーに対して、あなたは敢然と立ち向かう覚悟をもつべきだ。現代の豊かな社会では、提供される社会的役割やライフスタイルは極めて多様である。社会にはおびただしい人々を押し込むスペースがあるーワーカホリック、家事労働者、親、庭師、あるいは道化、さらには資金調達者、科学者、そして奉仕者……。リストは際限なく続く。かつての社会はこれほど多様な人々の枠を支えることができなかった。今では、あなたのもつ特性がそのまま有利になるような適所を見いだすことは、これまでにないほど可能なはずである。だがその一方で、落とし穴にはまる危険もある。その手のニッチは世の中におびただしい。薬物依存者や犯罪者のためのニッチ、世界が自分なしで動いてくのを横目に見ながら一人孤立して苦しむ人々のためのニッチ。そしてなかでも、自分がなんのために生きているのかを見出せないまま、形だけの人生を生きる人々のためのニッチ……。自分にふさわしい良いニッチを探し出すとともに、間違ったニッチを避けるために、心を砕かなければならない。私たちはそのための自由と力と、そして責任がある。そのことは同時に、ある種の選択に必然的にともなうコストを理解することでもある。(略)いま述べたことのいずれも、あなたのパーソナリティを変えると言っているわけではない。これが意味するのは、パーソナリティが結果的に何を引き起こすかを理解し、その情報を使って賢い選択をするということだ。そのためには多くのことが必要とされる。自己を知るというのもそのひとつだ。自己認識というこの貴重な財産を自分のものにするうえで、本書が少しでも役に立つとすれば、私がこれを書いた目的は達せられたことになる。(『パーソナリティーを科学する』ダニエル・ネトル p.260)
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