オトノネの図書館も見て見てくださいね。
- 創造的構えとは?エニアグラム、交流診断、性格診断で終わらない生き方
- 創造的構えは「学習の回路」を開くー学習するための共感能力
- 向き合うということ
- 相手の気持ち
- 【昭和ごっこから「いちぬけぴっ!」】安冨歩さんから学んだこと。誰と何をしてあそぶか。
- 泣いている赤ちゃんを放っておくか。
- 情報からコミュニケーションを創出する【おとのねさんの宿題】
- フェイスブック2連発ーコドモを信じよう
- 前頭前野の力で破壊的な関係から心を守る【感情の汚染を防ぐ】
- 体は勝手に反応してしまう
- 安冨歩『生きるための経済学』シジョウとイチバ
- 「癖を治す」
- 助けてくれる人『ことばが誕生するとき』
- マシュマロ実験の別の解釈。家庭の言語環境。(誰と一緒にいるのか)
- とある魔術の禁書目録【ファンタジーのリアル】敵がみえない世界。敵を殴って倒せない世界。
- 【コフートで絶望するおとのねさん】『<自己愛>の構造』和田秀樹
- 交流診断【基本的な構え】と安冨さんの「破壊的構え」「創造的構え」
- 【学びのプロセス】先生によるいじめとは何か『生きる技法』『経済学の船出』安冨歩
- 登校拒否と離婚と自己愛人間、ナルシスト
- 『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』安冨 歩みんな大好き立場主義から心の健康を守るには?
- 権力者が共感能力が低くなるのは「自然」らしい
- コミュニケーションのための『経済学の船出-創発の海へ-』安冨歩【伝わらないのは自分のせいか?】
- 言葉の力
- 「欺瞞」を生み出す立場主義
- 言葉を正す
- 自我同一性という言葉が誤解されている件
- 日本人。日本人の生き方。
創造的構えとは?エニアグラム、交流診断、性格診断で終わらない生き方
オトノネのミッションこどもの成長を阻害している要因を取り除くことで「学」び、「自立」し、「積極的自己責任」をおい、「創造的な関係」をつくり、「生きる」ことで「命」を輝かせることです。破壊的な関係との関わり方を学び、創造的な構えで生きていくお手伝いをすることです。
阻害要因大きな要因は親と学校です。この自覚がない場合、オトノネに通うことは難しいでしょう。すべての子どもには「自立」する力、「学」ぶ力が備わっています。ただそれを「みんないっしょ」とか「ふつう」とか大人都合の枠に入れ、暴力的に支配するとき、この力は阻害されます。成長を阻害するものを取り除くだけで、子どもは本来の成長する姿をまた見せてくれるでしょう。子供の成長を阻む要因を別の言葉でいえば「破壊的な関係」です。相手を人間だとおもわない、学んで、変わろうとしない、心が通わない、要求する、パターン化している、固まっている、人間として理解しない、そういう関係です。今よりももっと子どもからしあわせをもらいたい方、学びにきてください。成績が伸びない、何か悩んでいる、何か、違和感を感じる、八方塞がりだ、、、その原因ははっきりしています。心の問題です。心が大事です。
人間関係によって喚起された情動は、心臓から免疫細胞に至るまでさまざまな生体組織を制御する ホルモンの分泌をうながし、全身に広範な結果をもたらす。おそらく最も注目すべき研究成果は、不 快な人間関係と免疫機能との関係だろう。 「人間関係は、経験として蓄積されるにとどまらず、身体に対しても驚くほど大きな影響を及ぼす。 脳と脳がつながりあう強い人間関係の力で、わたしたちは同じジョークに声を上げて笑うことができ る。その一方で、人間関係は免疫システムの尖兵であるT細胞の遺伝子発現を左右する力ももってい
る。 つまり、これは両刃の剣だ。豊かな人間関係を築くことができれば健康に良い影響があるが、有害 な人間関係が続けば健康が徐々に蝕まれることになる。 (『SQ 生きかたの知能指数』ダニエル ゴールマン p.12)
社会性の大切さ仲間は大切です。創造的な関係を結べる人が、大切です。コフートの自己心理学で説明されている通り、〈自己の充実〉のためには他者が大切な役割をもっています。「命」を強くするためには、大切な他者と出会うことです。お子さんの周りに、心ある人が一人でもいれば、お子さんは幸せだとおもいます。
カリブ海の孤島カヨ・サンチャゴ島に棲息している一○○○頭あまりのアカゲザルを見てみよう。こ の島のサルたちは、すべてが一九五〇年代にインドから連れてこられた同じ群れの子孫たちだ。サル たちは、小さな群れに分かれて生活している。青年期に達すると、メスは群れに残り、オスは群れを 出て別の群れにはいっていく。
別の群れへ移るのは、命がけの行為だ。新しい群れにはいるための戦いで、若いオスの二〇パーセ ント近くが死ぬ。科学者たちが一○○頭の若いアカゲザルから脊髄液を採取して調べた結果、社交的 なサルのほうがストレス・ホルモンのレベルが低く、免疫機能も強く、何より重要なことに、新しい 群れに近づき、仲良くなり、あるいは対決する能力も高いことがわかった。社交的なサルほど生き残 る可能性が高い、ということだ。 「別の霊長類の観察を紹介しよう。こちらは、タンザニアのキリマンジャロ山域に住む野生のヒヒの 群れだ。ヒヒにとって、幼年期は非常に危険な時期だ。良い年でも、幼いヒヒたちの約一○パーセン トが死ぬ。悪い年には、三五パーセント近くが死ぬときもある。生物学者がヒヒの母親たちを観察し てみたところ、友だちづきあいの良い毛づくろいなど他のメスとの社交に多くの時間を費やす ―母ヒヒの子は生きのびる確率の高いことがわかった。(『SQ 生きかたの知能指数』ダニエル ゴールマン p.91)
サポート諸氏の心理学や発達心理学、サイコセラピーやカウンセリングの手法も適時交えながら、こどもの状況に応じて変えていきます。お子さんとの創造的な関係を強めるための関わり合いを、オトノネで学べます。お子さんとおとのねさんの関わり合いをみて、お子さんの変化をみて、またおとのねさんの話をききながら、お母さんは学んでください。阻害要因をなくしていくため、お子さんは自然に、成長していきます。理解すること。理解されること。この二つが合わさって、人は成長します。「うちの子の成績をあげたい」とおもっているお母さんはお子さんの心を破壊しています。やめてください。言葉を選ぶことから始めましょう。伝えたいことが伝わらなかったら、いくら気持ちがあっても、もったいないですね。愛は、情とは違い、学びものであり、技術です。一緒に学んでいきませんか。
コメント欄まで全部読んでみてほしい、物語。振り返って、見る。 https://t.co/j7SqCLWWP3
— otononeオトノネさん (@otononesan) February 20, 2020
他者は自己の充実のために必要
自己は決して単独で成り立ち、発達していくものではない。他者に頼りながら成り立つのである。したがって、自己とは他者に依存した、まことに不安定な社会的構造物にすぎない。コフートにならえば、適切な依存対象(他者)なしでは、いつでも自己はたちまち断片化してしまういことになるのである。その意味では、他者にたえず自己を物語続け、その都度、他者からの適切な応答や共有を通してしか、まとまりのある自己(cohesive self)を維持することができないようである。(『〈わたし〉の発達ー乳児が語る〈わたし〉の世界』岩田純一 p.192)
いい関係は、健康の源
他人とのつきあいが多ければ多いほど、人は風邪にかかりにくくなる。これは、直観的には逆では ないかという感じがするかもしれない。他人とのつきあいが多ければ、風邪のウイルスにさらされる 危険も大きくなるからだ。たしかに、そうだろう。しかし、生き生きとした人間関係は気持ちを明る くし、不快なことを忘れさせ、コルチゾールの分泌を抑制し、ストレスに対する免疫機能を高めてく れる。人間関係そのものが、他人とのつきあいによってもたらされるウイルス感染の危険から人体を 守ってくれる、ということだ。(『SQ 生きかたの知能指数』ダニエル ゴールマン p.343)
ある研究によると、充実した人間関係に恵まれている高齢者は孤独な高齢者に比べて七年後の認知 能力の衰えが小さい、ということがわかった。逆説的だが、孤独感は、実際にその人が一人きりで過 ごしている時間の長さとはほとんど関係なく、一日に何件の社会的接触があるかにもほとんど関係が ない。むしろ、孤独を感じさせるのは、他人との親密で友好的な触れあいの少なさだ。つまり、問題 なのは人間関係の質、すなわち、温かいかよそよそしいか、支えてくれるか不愉快か、といったこと なのだ。健康状態に最も直接的な影響を及ぼすのは、単なる知人友人の数ではなく、孤独感の有無だ。
孤独を強く感じる人ほど、免疫機能も心臓血管機能も落ちている。 (『SQ 生きかたの知能指数』ダニエル ゴールマン p.356)
創造的構えは「学習の回路」を開くー学習するための共感能力
いじめの加害者はどんな状態なのか、心で推し量る
私たちの研究によると、しなやかマインドセットの生徒たちは、いじめを自分に対する評価 と受けとめるよりもむしろ、いじめる側の心の問題としてとらえる傾向があった。仲間に認め てもらうため、あるいは、自尊心を満たすためにそんなことをするのだ、と。「私をいじめる のはたぶん、家庭に悩みごとがあるか、学校の成績のことで悩んでいるからだと思う」「ぼく をいじめて気分を晴らすなんて、もうやめたらいいのに」
また、相手を諭してみようとする生徒が多かった。「心を開いて話してみる。なんで私にそ んなことを言うのか、なんで私にそんなことをするのか聞いてみる」「相手と向きあって話し あい、そんなことをしてもちっとも楽しくないことに気づいてもらう」
そして、しなやかマインドセットの生徒たちは、「最終的には相手をゆるせたらいいと思う」 「いちばんの目標は、相手が心を改めてくれるように手助けすることだ」という主張に強く賛 成した。
札つきのいじめっ子を諭したり、改心させたりといったことが、はたしてできるのかどうか はよくわからない。でも、仕返しすることに比べたら、建設的な一歩であることはたしかだ。
もともとはマインドセットがしなやかな子でも、長いこといじめを受けているうちに、だん だんマインドセットが硬直していくこともある。特に、周囲の人びとが見て見ぬふりをしたり、 いじめに加担したりした場合には、なおさらそうなりやすい。人から愚弄され、侮辱されてい るのにだれも助けに来てくれないと、自分はほんとうにそういう人間なのだと思うようになる、 と被害者たちは言う。自分で自分に劣った人間というレッテルを貼り、それを信じるようにな ってしまうのである。
いじめる側は、相手を劣った人間だと決めつけ、いじめられた側は、それを信じこむ。こう して、いじめ被害者の心に残った傷が、ある場合には、被害者を抑うつや自殺に向かわせ、あ る場合には、暴力へとかりたてる。 (『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.244)
「問題行動」は、破壊的な他者によって引き起こされ、助長される。
有名な児童心理学者のハイム・ギノットも、教師がいじめっ子にどのように接すれば、友だ ちをランクづけするのをやめて、相手を思いやり、その向上を願えるようになるかを述べてい る。次に紹介するのは、ある教師が8歳のクラスのいじめっ子に宛てて書いた手紙である。注 目してほしいのは、けっして君は悪い子だと言わずに、優れたリーダーシップを認めてアドバイスを求めることで、その子を尊重する気持ちを示している点である。
ジェイくんへ
アンディのお母さんからうかがったのですが、今年、アンディはとてもつらい思いをした ようです。悪口を言われたり、仲間はずれにされたりして、悲しく寂しい気持ちになった そうです。先生はとても心配です。そこで、クラスのリーダーでみんなのことをよく知っ ている君に相談することにしました。君は苦しんでいる人の気持ちがわかる子だと思いま す。どうすればアンディを助けられるか、君の考えを聞かせてくれますか。
先生より
『ニューヨーク・タイムズ』に掲載されたいじめにかんする記事には、エリック・ハリスとデ ィラン・クレボルドのことが「不適応のティーンエージャー」と書かれている。それは間違っ てはいない。2人はたしかに学校に適応できていなかった。一方、2人をいじめていた生徒た ちが不適応者と呼ばれることはまったくない。実際そのとおりで、彼らは学校の環境にすっか りなじんでいた。それどころか、学校の文化を作り支配していたのは彼らだったとも言える。 一部の人間に、他の人間を残忍に扱う権利があるという考え方はおかしい。スタン・デーヴ ィスが言うように、私たちの社会はすでに、女性にいやがらせをしたり、黒人を非人間的に暑かったりする権利をきっぱりと否定した。それなのになぜ、子供に残忍な仕打ちをするものをまだ容認しているのだろう。
それを認めることは、いじめる側の子どもに対する侮辱でもある。彼らには変わっていく力があるとは思えない、と言っているようなもので、彼らが変わって行くのを助ける機会を逃すことにもつながるからだ。(『マインドセット』キャロル・S・ドゥエック p.248)
向き合うということ
心とはなんだろうか。心とは、どんな場所なんだろうか。
「他者の表情」と言うとき、あたかも、顔面に次から次へと模様が書き出されていっているよかのうなイメージを思い浮かべる。そして、それらの“紋様”は人それぞれに微妙な色合いや柄合いがあろうとも、紋様そのものがその人の内奥の情動的体験=感情のそれぞれを意味する(指示する)かのように思う。が、顔面の微妙な変化だけを捉えたスナップ・ショット・フィルムの映像は何かを意味しているようで、実は何をも意味していない。われわれは人の表情の意味を理解するに際して、相手の顔面を後継の一部に差し替えたり、あるいは、逆に、(たとえば、ゲシュタルト図形の地と図の反転のように)顔面の中に後継を埋め込んだりするという心的操作をしているのではないだろうか。そして、そうして形成される”光景”の中には、たとえ気づかないとしても、自分の身体をも埋め込んでいるのである。そうであればこそ、人は、先述したように、人の表情を内なる心の外への表れとみなすことができるのだと言える。これは、第二節の終わりで若干言及した通り、状況の構成員(因)として事故を定位し、相手を積極的に理解しようとする、人の他者に対する感情体験の在り方でもある。(『ことばが誕生するとき』p.158)
相手の顔を見る、という行為に隠されている心の働きは、目からみた顔の情報を理解するという行為をはるかに超えている。共感という心の働きは、「その人とその人と共有しているすべての環境」への感受性によって動き始めるように思える。
赤ちゃんが泣いているときに「鳴き声だけで」何が欲しいのか判断できない、という化学的な実験データがある。お母さんは鳴き声を聞いたら何が欲しいかわかる、というが、実は、「さっきご飯食べたし、たぶんこれかな」とか、気がつかないおしっこの匂いを感じて「おむつかな」とか、少し気温が下がって「寒いのかな」とか、そういう環境の一部として赤ちゃんの感情表現(泣き言)を理解するということだ。
表情だけでなく、声、その場の雰囲気、姿勢、そぶり、そういった一つ一つから私たちは他人の心を読み取る。振る舞い、そぶり、佇まいも、もちろん言葉も、心の表情だ。まずは赤ちゃんの時に「わかってもらった」という経験から初めて、今度は自分がその場に居合わせながら「感じる」感覚をつかんでいくプロセスを動かすのは「他者への切実な関心」だろう。切実な関係である。どんな他者でもいいのではなく「信じられる他者」との深い関わり合い、向かい合ってお互いを出し合えるような関係だろう。言葉も、心も、人間関係が育てていく。
これを『ことばが誕生するとき』で増山真緒子は「自他がともに融合し交差し合う“身体空間”に生きなければならない」という言葉で表している。心をしるとは、身体を感じ取ることであり、心が働いている場所は「情動の場」と世間的な言葉で表される以上に、身体的な営みなのだと感じる。
甘やかしは融合、交差ではなく、自他未分の状態を作り出す、と言われる。お互いの心が向き合えず、心を開けず、融合ではなく「分離」したまま、交差ではなく「交渉」をすることと、共感することは異なる。
人が少なくなる社会で、人との出会いも少なくなる。人の感情と関わる時間の代わりに、スマホをいじる子どもたちが、共感のための基本的な「身体の感受性」をどうやって育てていけるだろうか。
日本の精神文化(万国共通か?)に「ホンネとタテマエ」がある。タテマエの空間はいわば、仮想空間だ。「そういうことになっている」という社交儀礼てきな、形式的な場所だと私は理解している。身体がいつもタテマエ空間にさらされ、心もタテマエ関係にさらされがちなこの世の中、ホンネの空間、ホンネの関係をつくり、大切に守っていくことが、心を守っていくことなのだろう。
相手の気持ち
「それで、相手がどんな気持ちになる?」 これは、腐れ縁(もう腐りきってしまった)のとある友達からもらった言葉。 僕がオトノネをはじめてから、常々おもうこと。 「僕は誰かに理解してもらいたい気持ち以上に、相手を理解しようとしているだろうか」 ーーーーーー ーーーーーー 「結局何するところかわけがわからない」オトノネ。 (いやだって、その子に何が必要かわからないから仕方がないと言い訳するおとのねさん) お母さんをお客さんにしようとしないオトノネ。 (だってお母さんは本当に子どもにとって大切な人だから仕方がないと言い訳するおとのねさん)
【昭和ごっこから「いちぬけぴっ!」】安冨歩さんから学んだこと。誰と何をしてあそぶか。
「昭和100年」
安冨歩さんからいろんなことを学んでいる。
言葉の背景
昭和が続いている根拠、昭和が続いているという言葉の背景には何があるのか。 例えば「テレビの視聴時間」(昭和に染まりに行くツール)。 例えば「学歴信仰」。 僕らの暮らし自体が、まだ昭和なのだという。 働いて、給料をもらって、ローンを組んで、家を買って・・・貯金して・・・・ 昭和じゃない??? 昭和??? 年号が変わっても生活は変わっていない。 その生き方が、この日本を作っている。 (日本ってなんだろう??)
例えば学校。 遺伝的に優位なとある能力のある人をすくい上げて情報処理能力を使おうとする組織に子どもを預けていいのか。 学歴信仰。 「学歴で人を見る」人と一緒に働くのか。 これを大人が「伝えるべき」かどうか。 僕の答えは単純で、「命」が破壊されているかどうかをよく見る。 「命」を守れる強い「心」をたまたま持っているならうまく昭和に馴染めるかもしれない。 けど昭和の土壌で新しい何が育つだろうか? 巨大な組織に入って能力を振るっても、結局組織の中に埋もれて社会的なインパクトは生まれない。 いい先生でも、組織の中に入ると埋もれるのはなぜか。 これはある意味で自己中といえるのではないかと僕は思う(自分の命の使い方)。
いちぬけぴっ!
誰かのせいにする傾向がある。 「いやだってそういう社会だから合わせないとね」 「あいつが悪いんだ!あいつのせいでこの世の中は!」 それはアウシュビッツの中にいる人の考えだ。 積極的自己責任を追わないやり方だ。(「命」の力が弱い人、「心」が不健全な人にはこの言葉は伝わらないだろう) どうしようもない。 ただただ、生きるしかない。 ただただ、働くしかない。 ただただ、ローンという借金を払い続けるしかない・・・ それが悪いわけではない。 ただ、その生活様式を子供に伝えるべきなのか、という問題だ。 「心」は伝わる。 例えば「ルールを守ってから物を言え」という大人がいる。 こういう大人は「昭和」の人間だ。 この価値観を、伝えるべきなのか。(その人と仲良くあそんでほしいか) 【伝えるべきこと】は何なのか。 【伝えてはいけないこと】は何なのか。 これは、誰とあそぶか、何してあそぶかという問題だ。 「支配・服従」ごっこをするのか。 「命・心」ごっこをするのか。
あそび。 あそび!
誰とあそぶか、それが大切なこと。 誰と学ぶか、それが大切なこと。
遊びたくない人には「いちぬけた!」ということ。
(この考え方を否定する言葉が「みんな一緒に」「ひとりはみんなのために」という言葉。「みんながひとりのために」やってくれたことがあるだろうか?) 大人は「いちぬけぴっ!」と言う子どもに信頼を置けるだろうか。 「子供だからまだ世の中がわかっちゃいないんだ」と思っているなら、それは子供を信頼していないということ。(信頼できない子供に育てた。もしくは大人自信が人を信頼する心を持ち合わせていないか。) もしくは、 学習性無気力、「命」が弱くなっている自分の姿を隠すための欺瞞だ。 学習性無力感・学習性無気力とは? 子どもの「命」は強まっているのか。弱まっているのか。 それで、あそび仲間を選んだらいい。 そのためには大人の暮らし自身を、変えていくのが一番よい教育だと僕は思う。 不安を植え付けてはいけない。 それは、「命」に対する犯罪だ。 と、僕は思う。(「昭和」を抜け出せない自分の不安を誰かに押し付けている魔界在住の大人をよく見かける。僕の場合は学校で。)
「服従」はあそびではない。 「諦め」はあそびではない。 あそびでなければ「命」ではない。 僕は、本気であそぶことを、伝えていきたい。
いじめというあそび
「いちぬけぴっ!」と言ったら、「いじめられる」。 そのあそびから抜け出すには? 学校という場所がそもそもいじめが生まれる土壌をもっている。 「学校」というあそびから「やーめーた!」すればいいこと。 もちろん、「逃走」でなく「闘争」という選択肢も、あるんだけど。
この視点はなかった。 https://t.co/F7xf3hmFSS
— otononeオトノネさん (@otononesan) July 7, 2020
いじめられている人は、被害者ではない。 ただ「命」を自分でどう使うのか、「心」をどう守るのか、というメタスキル を学ぶ機会を与えられた「ひと」だとおもう。 「いや、被害者だろ」という人もいるだろう。 「被害者」「加害者」あそびを、楽しんでいるのだろうか。
泣いている赤ちゃんを放っておくか。
この本に「子どもが圧倒されないように」と書いてある場所がみられる。いい言葉だなとおもう。対処不可能な状況になって圧倒される、押し倒される、圧力を受け流したり、圧力に対して強くなる前の状態で、対処できない刺激にさらされる(大人でも)子どもの様子が伝わってくる。
例えばあかちゃんが「泣く」のにどれだけ反応したらいいのか・・・泣くとひんぱんに反応をもらえる(抱き上げられる)赤ちゃんと、泣かせっぱなしにされた赤ん坊は、生後9ヶ月の終わりになると、どちらの赤ん坊の方が泣かなくなるか、という実験がある。
頻繁に反応をもらった赤ちゃんの方が、泣かなくなるそうだ。
「あ、やばいかも、呼ばなきゃ」という心配や不安な心を、抱き上げることで、緩めていく。「大丈夫、ちゃんとみてくれている」と安心できる。という解釈でいいのだろうか?
実は、泣かなくなる子は、泣く代わりに、欲しいものを指差したり、ブツブツ言ったり、おかあさんとアイコンタクトをとるなどの泣く以外のコミュニケーション能力が育っており、使っている。スキンシップで、赤ん坊の不快感を取り除きながら、赤ちゃんの発達に合わせてコミュニケーションを多様にしていく。泣いた時に、抱き上げるという行為が大切なのではなく、泣いた時に、母親は、抱きあげながら、あやしながら、コミュニケーションの仕方を教えていることになる。
情報からコミュニケーションを創出する【おとのねさんの宿題】
インターネットで「外の世界の情報」を得る目的は「学習」である。だから、大切なのはいかに多くの情報を得るかでも、いかに多くの情報を流すかでもない。目的と関連性とを明確にしてコミュニケーションを創出することにある。そのような本来の目的を見失ってしまうと、情報に基礎を置く組織を作ることができない。(『ドラッカーと論語』安冨歩 p.181)
つまり僕の学習過程の弱点は、僕が学んだことにフィードバックをくれる人がなかなか、いないこと。 それでもまぁ、生徒からいろんな問題提起を勝手に吸い上げたり、勝手に学んでいるっちゃいるんだけど。。。 ブログやyoutubeを見て、連絡をとって知り合った人が、3人ほどいる。(ん?今思い出せるのが、3人) 子どもがオトノネに通っているわけでもなく、ただただ、心で繋がっている人。 オトノネにとって、とても大切な人と繋がり、コミュニケーションがとれた、という事実は、オトノネという実験のひとつの成果なのだとおもう。 ブログ書いたら10人は見てくれてるみたいだから! 隠れオトノネファンの人、ぷりーずせんどみーあんいーめいる!
フェイスブック2連発ーコドモを信じよう
勉強をすればするほど、しくみを言葉としてきちんと聞くほど、立ち止まってみるほど、この日本という現象が絶望的に思えてしまう。 そんな中で、暴力にあふれた世界で、僕は、、、、 (魔王の話ではなく、ちょっと創造的な言葉がでてきたのでブログに書いてもいいかな・・・) いったい、どうやって生きたらいいんだろう? 他の人の声を聞きながら、少しずつ、体に染み込ませている感じだ。 そのプロセスを、こうしてブログに書き綴っている。 ーーーーーーーーーー 「子どものいうことをききましょう。子どもがおかしいとおもうことは、大抵おかしいこと」 「親も先生も言ってることがしょっちゅう狂っている」 「親をなんとかしないといけない。親が優れた感情的な能力をもった子を育てなければ、終わる」 「男は完全にクズ化している」 宮台真司 安冨歩 この二人は、僕が最初は『本』で出会った人たち。 それからyoutubeで、この動画を、今日初めてみた笑 生の声、というのは、やはり違う。。。 僕も2人に大いに共感する。 もちろん、「狂っていない」親もいる。 素敵なお母さんも、たまにいる笑 オトノネにきて、変わったお母さんもいる。(選んでくる時点で、その兆しがある) オトノネ卒業後に、お母さんと話をしていて、「え!そんな関わり方をしているんですか?すごくいいですね」というと、「全部先生が教えてくれたことだよー」と言われて僕が覚えていないから笑える。 けどやっぱり、大人が、狂っている。(狂っていない親に出会うのが難しいという意味で) くるわざるを得ないほど、怒りと不安と悲しみに溢れた社会で、子どもも育っている。 「勉強ができないと、将来困るわよ」とか「大学ぐらいは出ないと」という言葉は、脅しであり暴力であると、わかっているのだろうか。学校の先生と一緒になってお父さんお母さんも子どもに暴力をふるっている現状がある。 生きているだけで、十分頑張っている、というレベルだと、僕はおもう。 ーーーーーーー 今は、自分の声で生きる、ということしか、 今僕にできる小さいことをすることしか、ただ自分の声で生きるということしか、 自分の心で生きるということしか、 思いつかない。 ーーーーーーーー 宮台真司さんは、「男がダメすぎる」という話をする。 安冨歩さんは、「大人がダメすぎる」という話をする。 (言葉は僕がかなり婉曲しているので実際に動画をみて、聞いてほしいです) 子どもに、悪いところは一つもない。 富山の長男と結婚することをお勧めしない理由は、あまりにも、長男の人と結婚した女性の話を、実際に僕が聞いてきたからだ。 長男に生まれた「劣等感」、おじいちゃんやおとうさんから教わった「暴力」の方法。 富山県だけではないかもしれない。長男信仰によって、少なくとも暴力漬けの子供時代を過ごした子がいる。 成長できなかった心は、満たされることがない。 子どもに、悪いところは一つもない。 ただその子どもが「子どもとして未成熟」であるために、大人としても、未成熟のままなのだ。 子どもはいつから、大人になるのか?? もう、大人と子どもというくくりも意味がないだろう。 人間としてどれだけ未熟か、どれだけ成熟しているか。 ーーーーーー 未熟な人間を引き込み、コントロールしようとするカルトな宗教組織と同じことが、この社会で公然と行われている。 未熟な「コドモ」をコントロールして、利用する「オトナ」が、どこかにいるんだろうか? その「オトナ」を探し出したらいいのか? たぶんね、ほとんど全員だよ 笑 ーーーーーー 子どもという未熟な人間を、コントロールしようとする大人は、すべて、社会的な犯罪を犯している、ということを、未熟な大人がみても、何も感じないだろう。 暴力が当たり前の世界が、目の前に広がっているのだから。 いや、そうおもえば、人間の営みはすべて宗教的だろう。 人の心があるだけだ。 心が、大事。 =========== 今は、自分の声で生きる、ということしか、 今僕にできる小さいことをすることしか、ただ自分の声で生きるということしか、 自分の心で生きるということしか、 思いつかない。 君は君の声で 僕は僕の声で 歌おう。
この記事のまとめ
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前頭前野の力で破壊的な関係から心を守る【感情の汚染を防ぐ】
高圧的な人、情動汚染をしてくる人、支配的な人に対してどう振る舞えばいいのか。「果たしてこれでいいのか」と批判的に問うことができるのは、前頭前野です。
「裏の道」が瞬時に、反射的に反応してしまうのを「いやいやちょっとまてよ」と改めさせるのが前頭前野です。
扁桃体と前頭前野の中間にある眼窩前頭皮質が、このスイッチの役目を果たしています。
例えば「あ、もうむり、ちょっともうまずい。気持ちが悪くなってきた」時に、その場を去ったり、話を止めたりするのは前頭前野です。その時々の状況に応じる柔軟性があります。
感情が自動的に伝染してしまうようにできているせいで、人間の心は不快な感情に汚染されやすい。 けれども、人間には、必要に応じて感情の伝染を防ぐ能力も備わっている。だれかとの関係が破壊的 になったときには、自分を守るために相手とのあいだに情動面の距離をとる能力があるのだ。
「裏の道」は瞬時に反応してしまうが、人間は超スピードで働く神経に振り回されてばかりいるわけ ではない。「裏の道」が苦痛をもたらす場合には、「表の道」が心を守ってくれる。
「表の道」は、 おもに眼窩前頭皮質と連絡する回路を経由して選択肢を探す。眼窩前頭皮質は最初に 情動反応を示す「裏の道」の回路とメッセージをやりとりする一方で、同じ情報を「表の道」の回路 へも送って情動反応に対する思考をうながす。「表の道」は「裏の道」よりも複雑な反応ができる回 路で、現状に対する正確な理解にもとづいて反応する。他者とかかわるとき、脳の中では「表の道」 と「裏の道」が並行して働いており、その切替スイッチ役をはたしているのが眼窩前頭皮質なのである。(『SQ 生きかたの知能指数』ダニエル ゴールマン p.112)
やわらかく生きる回路
扁桃体をふくむ大脳辺縁系と眼窩前頭皮質は反射と自動思考で、「変わる」「変える」ための役には立ちません。
「事態が悪化する」「変わらない」場合は、前頭前野が働いていないと考えてよいのでしょう。
ストレスを減らすことの大切さを思い知らされます。
超スピードのミラー・ニューロンで結ばれている「裏の道」は第六感のようなもので、自分自身で もはっきりと自覚しないまま他者の気持ちに寄り添おうとする。思考に邪魔されることなく、瞬時に 最初に発生する他者への共感だ。
対照的に、こうした気分の変化を監視し、相手に意識を向けて事態をしっかり理解しようとすると きは「表の道」の出番で、思考する脳、とくに前頭前野が活発に活動する。「表の道」は、融通がき かず限定された「裏の道」のレパートリーに大幅な柔軟性を与える役割をはたしている。千分の一秒 単位で神経レベルの反応が進行する中、「表の道」はあちこちに伸びた神経に合図を送り、反応の幅 を一挙に拡大する。
つまり、「裏の道」が即座に感情的な親近感をもたらすのに対して、「表の道」はより洗練された社 会的感覚をもたらし、それに沿って適切な反応を導き出す。この柔軟性は、脳の管理センターである 前頭前野の働きに負うところが大きい。(『SQ 生きかたの知能指数』ダニエル ゴールマン p.112)
回路を変える=物語を変える
眼窩前頭皮質には、御しがたい情動の源である扁桃体を「上位下達」式で抑制する働きがある。こ の回路を損傷した患者は、小さな子供のように感情の衝動を抑制する能力がなくなってしまい、たと えばだれかがしかめ面をしていると真似をせずにはいられない。情動に対する安全装置が欠損しているため、扁桃体の活動に対する歯止めがなくなってしまうのだ。(『SQ 生きかたの知能指数』ダニエル ゴールマン p.117)
この記事のまとめ
「心」を守る、「命」を強くするために、人を選ぶ。
EQは「命」を健康にする「心」のしくみ
EQは、自分と他人の情動とつきあう能力です。
付き合い方にはいろいろあります。
自分の情動、他人の情動に支配されず、よりしあわせになるための能力です。健全な、創造的な人間関係をつくる能力といえるでしょう。
ハラスメントやDV、もしくはサイコパスやナルシシズムの破壊的な関係から身を守るのもEQの能力と表現することができます。
破壊的関係と創造的関係
破壊的関係と似た意味を持ったカバードアグレッションという言葉もあります。社会通念上キレイにラッピングされた「いじめ」です。「いじめ」を受けたらどうするか、それは合理では判断できません。情動の知性が担当します。
暴力の世界で生きるチカラ
物の見方考え方を学び、経験、実践していくことで、自然と「心を落ち着かせる」反応、認識ができるようになります。これは誰かから「教わる」のが通常です。幼少期に「お守り」としてもらっているか、大人になってからでも、「ああ、その考え方、いいなぁ」といって情動知性は学習することができます。
高速道路で他の車が急に車線に割りこんできてもう少しで衝突しそうになったと仮定しよう。 あなたがその瞬間、反射的に「この野郎!」と思ったとしたら、そのあとさらに激昂して報復を 考えるかどうかで怒りのゆくえが大きく変わってくる。「ぶつかるじゃないか、あん畜生! お ぼえてやがれ!」 両手は爪が白くなるほどハンドルを握りしめている。ほんとうなら、そうやって相手の首を締めてやりたい気分なのだ。からだは、逃避ではなく戦闘体勢にはいる。身ぶる いし、額に玉の汗が浮かび、心臓は激しく打ち、顔はしかめつらのまま固まっている。「あの野 郎、殺してやりたい」と思っているのだ。たまたまそんな時に、ニアミスのあとで速度を落とし たあなたの車に後続の車がクラクションを鳴らしたりしたら、あなたは後続のドライバーにも怒 りを爆発させるかもしれない。こういうことが高血圧や無謀運転、ときにはハイウエイでの発砲 事件にまでつながっていく。
対照的に、割りこんできたドライバーに対してもっと寛容なシナリオを考えてみよう。「こち らの車が目にはいらなかったのかもしれないな。それとも急いで医者へ行くところだったか ……。運転マナーにかまっていられない理由があったのかもしれない……」。こう考えると、怒りをやわらげるか、少なくとも広い心で受け流して、怒りの蓄積を回避することができる。
アリ ストテレスは「然るべき」怒りを喚起することが大切だと書いたが、難しいのは怒りがしばしば 私たちのコントロールをつきやぶってしまう点にある。ベンジャミン・フランクリンがいみじく も言い当てている。「怒りにはいつも理由がある。ただし、正当な理由はめったにない」。 (『EQ こころの知能指数』ダニエル・ゴールマン p.97)
「怒り」といった情動の多くは意識を超えて、本人の「情動知性のレベル」で勝手に発動するものです。情動を制御する能力が低い人もいる、こっちも腹を立てたらエネルギーを食うだけだ。割に合わない。と考えることも、情動知性のひとつの作戦です。
体は勝手に反応してしまう
「大丈夫」と思っていることでも、体は勝手に反応します。いくら「平気」とおもっていても、怖いものは怖い、嫌なものは嫌なわけです。
「社会脳」とは、他人との関係や他人に対する思考や感情などを統括する神経メカニズムを総称した ものだ。なかでも最も注目すべき点は、他者の心的状態につねに波長を合わせ、また逆に他者の心的 状態から影響を受ける部分は、人体の中で唯一「社会脳」だけである、という発見だ。これ以外の生 体組織は、リンパ腺から脾臓に至るまで、おもに体内からのシグナルに反応する受容体によって制御 されており、体外からのシグナルに反応するものはない。社会脳は、自分を取り巻く環境全体に反応 するという点において、人体で他に類を見ないしくみをもっている。人と人とが面と向かって(ある いは声と声で、肌と肌で)作用しあうとき、二人の社会脳は連動する。 (『SQ 生きかたの知能指数』ダニエル ゴールマン p.21)
だからこそ、「付き合う人間関係は選ぶ」ことが大切だし、自分も誰かの脳に影響を与えていると考えて、逆に他者の情動への適切な働きかけをしなくては、人間の社会は今以上に深く歪んでしまうでしょう。
「患者X」の脳をスキャンしてみたところ、眼球から 視床を経由して視覚皮質へ、という通常の経路とは違う経路が使われていることがわかった。第二の 経路では、情報は視床から扁桃体(左右の脳にひとつずつある)へ直接送られていた。扁桃体は、し かめ面、態度の急変、声調の変化、などの非言語的メッセージから感情に関係する意味を導き出す。 しかも、本人が何を見ているのか認識するよりも何分の一秒か先に判断を下す。 (『SQ 生きかたの知能指数』ダニエル ゴールマン p.30)
頭が理解する前に、体は「反応」してしまいます。頭(新皮質)は活動の限界があります。これにいちいち「反応」していたら、脳は疲れてしまうのです。
あなたの暮らしている環境で、あなたの心と体を疲れさせているものがあるとしたら・・・
安冨歩『生きるための経済学』シジョウとイチバ
不動産屋さんにいっていろいろはなしを聞きながら、経済の勉強、今まで避けてきたなぁとおもう。ごちゃごちゃしていてよくわからない。生きた心地がしない。だけどふとしたきっかけで持っていた本を読んでみる。 安冨歩センセイの『生きるための経済学』だ。たしか心理学の本を読んでいるとき、参考文献ででてきていた本だ。つい最近考えていることを経済学の分野でまともに扱ってくれているのがうれしかった。彼は経済用語の市場(シジョウ)というものと、築地市場というときの市場(イチバ)は、現実には、違うものだ。イチバはもっと生々しい。シジョウと呼ばれているものも、本質はイチバであって、シジョウの原理など、空論だというのが安冨センセイのいいぶんである。
ここ数年ほど、私は考えが間違いではなかったか、たとえ間違いではないにせよ、「シジョウ」のことばかり考えて「イチバ」のことを考えないのでは、大きな問題を見落とすことになるのではないか、と考えるようになった。そこで手始めに私は、「シジョウ」と呼ぶのをやめることにした。最初は気持ちが悪かったのだが、最近は慣れてしまって、平気で「外国為替イチバ」などといえるようになった。そうしているうちに私は、市場(シジョウ)という抽象的概念に覆われて見えなくなっていることが、じつに多いことに気がついた。そこで本書は、そのベールの正体を明らかにするとともに、それを剥がした後の生々しい世界について意味のある思考を展開するための方法を、読者とともに考えていきたいと思う。(17頁)
行動から始める認識のアプローチ、ユニークだ。生きていくためにはお金が必要だ。生きていくというのは、選択の問題だ。では経済における自由とはなにか?安冨センセイは、なぜか「自己欺瞞」という言葉を使う。この自己欺瞞が、経済というものを考えるのに大切なのだと。心理学でも自己欺瞞、こころを守るために自分を騙すという人間のしくみが観察されて、議論されている。専門用語を使うと、防衛というものだ。 人の心がもし「経済」「仕事」「責任」「自由」「お金」などといった言葉にがんじがらめになっているならば、そのがんじがらめになったこころに向き合うためには、そしてがんじがらめになっている状態からすこしでも具体的な行動を起こすヒントとして、言葉に対する認識を改める、言葉との関係を見直すことも大切だろう。一体、学校で習うであろう「神の手」が本当に存在するならどうして不況不況だというのか、という問に、センセイがちゃんと応えられるかどうか。こうしたわだかまりが、もしかしたら、大人になる彼らのこころの闇、病みになることだって考えておきたい。 社会、経済、どうこうではなくて、飛び込んで、ただ生きればいい。 しかし不器用な人間も、いるのである。 最期に阪上センセイの『音楽療法と精神医学』にあった記事を思い出したので引用しよう。ある音楽医療に関わる施設が、不経済、非効率のために活動をつづけることができなくなった。
クライエントのひとりがこれに反発していった言葉のひとつが、「ぼくらはただ生きていたいだけなのに(なぜ行けなくなるの?)」というものだった。(87頁)
経済という言葉は、効率という言葉は、誰のためにあるのだろう。その非効率な、非経済な人間の生き方をささえる経済学を、若者には学んでほしいとおもう。 ーー 追記 安冨センセイも似たようなこと言っていた。
価値を創出するものとそれを阻害するものとを切り分け、後者を抑制することで前者を活性化することが、ポスト・クリティカルな経済学の目指すところとなるはずである。(p.108)
泉丘高校、二水高校、錦丘高校の【偏差値・合格実績の影】で泣いている高校生がいることに、気が付いていますか?(リンク1) 高岡高校、富山中部高校、富山高校の【偏差値・合格実績の影】で泣いている高校生がいることに、気が付いていますか?(リンク2) 富山県で小さな塾をはじめた東京の先生が高校生の課題の多さに心を痛めている個別指導otonone-オトノネ-(リンク3) 暗記をせずに難関大学に合格したい人のための個別指導学習塾otonone-オトノネ-(リンク4) 富山県高岡市の家庭教師おとのねさんは登校拒否、不登校、成績不振で困っている小学生・中学生・高校生に向き合います。(リンク5) 保育士試験に合格するための筆記、実技、過去問の使い方、勉強法を教えます。(リンク6)
「癖を治す」
どう考えても「ワルイ」癖がある。どうやったら治るんだろう? けどどうしてそんな「ワル」になったんだろう?ワルにはワルの言い分がある。 それでもイイコでいたい?イイコになってみるのもいいだろう。イイコになってみよう! 一人でイイコになるのは難しい。イイコの真似から始めるのがいい。誰かに診てもらうこと。 あなたがイイコを演じることに馴れるまで、演じつづけるのだ。それをちゃんと見守ってくれる、一緒に経験してくれる人がいる人は、幸せだ。「今の演技は下手くそだね」といって笑うこともあるだろう。舞台裏で「イヤ本当は…」と正直に話してもいい。一人でこれをやるのは大変だ。やっぱり誰かが、いてほしい。 アイデンティティーという言葉がある。 アイデンティティーは便利な言葉だ。毒にもクスリにもなる。人は変わり続けていく成長する力をもっているのに、この言葉でなにか到達地点があるような気がしてしまう。自分が入り込むべき型枠があるような気がしてしまう。完成形があるような気がしてしまう。「本当の自分」がいるとおもってしまう。心は変わるのに。自我なんてないのに。ワタシはワタシの一部でしかないのに。いくつものアイデンティティーを大切にする、という言葉ならいいだろう。「アナタのなかにはこんなアナタがいる」「アナタはこういうアナタだ」といって、自分と親しくなること。イイコにしているアナタも、ワルイコにしているアナタと同じくらい、仲よくなること。きっと、アイデンティティーの確立とは、全体との関係性を保ちながらどんどん変わっていく「今の自分」を信じれるようになることだ。 成長するってことは、自分を広げながら、命を燃やしながら、つながりをつくっていくことだ。なくなっていくつながりもある。魚はまな板の上では生きていけない。その時は、魚を辞めるか、水の中に戻ろうとはねまくってみるかだ!はねまくってみて、厨房の裏口から路地に出たところで「いや、これムリでしょ」とおもったら、魚を辞めたらいい。それが成長するということだ。いやもしかしたら、船の上で、はねたらすぐに、海に戻れるかもしれないけれども。
助けてくれる人『ことばが誕生するとき』
最初、子どもの”他者”は、現前する他者によって生み出される緊張や情動に他ならない。生後6ヶ月から、子どもの他者は他者が現前しないときでも欠如感や予期心像としてしだいに存在しうるようになる。しかし、そのような”他者”は断片にすぎない。現前する他者とコミュニケートしているときでないと、子どもの”他者”は十全に成立しえないのである。当然、”事故”も現前する他者とコミュニケートしているときでないと十全に成立しえない。”自己”と”他者”とは裏表のものである。このように、”他者”が現前する他者によってかろうじて成立しているようなレベルにある限り、その他者がいなければ子どもの”自己”は希薄なものになってしまう。子どもの”自己”はそれとついになる。”他者”をよりしっかり内面化することによって、またそれらをよりたくさん手に入れることによって、初めて自分と交流してくれる具体的他者のいない状況でも存続しうるようになるのである。すなわち、2歳前後から子どもの内部に子どもの”自己”と交流し役割を交換しうるような”他者”が住み始めるのである。これ以来、子どもの心は「空想の友達」をもちうるような基本的な構造を備えるようになると言える。事実、スベンセンの調査によれば、「空想の友達」が初出した時期の中央値は2歳5ヶ月である(『ことばが誕生するとき』p.70)
空想の友達は、言葉が変われど心理学の世界でいろいろと出てくる。他者の内在化とかいうやつだ。実際に目の前にいないけど、いろいろと助けてくれる、自分の中にいる”他者”である。ヘルプレスな状況で、自分を救う存在だ。それが神という名前になることもある。とにかくコミュニケートしてくれる存在を、子どもも大人もつくろうとする。 つらい時、目の前に誰かがいないと自分が保てなくなることもあるかもしれない。その時は本当に助けてもらったらいい。けどそれが依存を意味するような心のあり方では、迷惑になる。他人は他人だ。たとえば、小さい頃のお気に入りのぬいぐるみ。スヌーピーの登場人物がいつも抱っこしているアレであったり、自分が不安になった時、傷ついた時、さみしい時、助けてくれる”他者”である。
シャーマニズムの世界では「守護霊」と呼ばれるかもしれない。自分の中にある力であり、助けてくれることもあれば、逆に強すぎると操られてしまうこともある。自分の中にあって、自分を助けてくれるもの。言葉。響き。そういった、リッチな言葉を心の中に、リッチな感覚を心の中にたくさん取り込んでいけるような、リッチな暮らしをしていきたい。
言葉を使う時間を、大切に、大切に、見つめる時間を、言葉と言葉の間に生まれる大切な気持ちを、心を、大切にしていこう。
マシュマロ実験の別の解釈。家庭の言語環境。(誰と一緒にいるのか)
とある魔術の禁書目録【ファンタジーのリアル】敵がみえない世界。敵を殴って倒せない世界。
生徒から教わることがたくさんある。 日本という国の歴史を「未解決事件」を通じてまとめようとしている子がいる。 事件の裏には、「不都合な真実」がある。誰にとって不都合かといえば、「上級国民」と言われている人たち(魔王)。 僕が衝撃を受けたのが、プチエンジェル事件。 「上級国民」に虐げられた少女が口封じのために殺される、犯人もそれを取り巻く魔界の人たちもうやむやにされて未解決になった事件。 もちろん、警察も魔界に属しているため、追求はしない。 アメリカのトランプさんが発信している、といわれている(よくわからない)「Q」情報など、未解決も含め、僕らの手の届かない(ようにみえる)ところで大きなチカラが動いている。 僕は諦観をもつ。 「しょうがない」と。 おもいながら、心のどこかで、、、、 ========== 最近、夜なべをしながら見たアニメがある。 「とある魔術の禁書目録」というライトノベルをアニメ化したものであるらしい。 日本のアニメ、漫画の哲学というか、深さを感じるものが多い。こっちの世界が、リアルに近い気がする。 で、 主人公の男の子は「魔術を無効にする」チカラをもっている。 おかげで、幸運すら無効にしてしまい自分は「不幸」なのだが。、、、 自分を不幸にするが、他の人にふりかかる悪い「魔術」を無効化していく物語。 チカラというものは、使い方、関わり方なのだ。。。 そのチカラが自分には不幸に働くかもしれないが、他の人の助けになる。 主人公が、戦っている相手に対して「説教」をする場面をつくってくれている。 それが結構、僕自身にも響くことがある。 アクセラレータとの2回目の戦いが、僕には印象的だった。
【コフートで絶望するおとのねさん】『<自己愛>の構造』和田秀樹
『<自己愛>の構造』和田秀樹 この本で、あまりにも頭の中からいろいろでてきてしまって困った。 一つ前に読んだ本の続きでコフートからいろいろ考えてみる。 【自己愛とは何か】コフートの『自信がなくても幸せになれる心理学』和田秀樹 この記事はブレークタイムを挟んだ二部構成になっています笑 前半の終わりは、 笑うしか、ないかな。。。。 絶望までもう少し☆ きちんと絶望できるかな笑 です笑 後半の終わりは 内側へ、内側へ、オトノネへ。 です。 なんとか、持ちこたえました笑 悩めるおとのねさんにおつきあいしていただけるでしょうか? =========== ============ コフートの考えをまとめてみることにしました。 メモ風にいきます笑 ーーーーーー コフートの3つの心理的ニーズ(自己対象の3種類) 何かができるようになると、みせにくる。 みてもらいたい。 自分が輝いていること、プラスの自分を確認したい。 自分はプラスにいきたい。 褒めてもらいたい。 そういう自己のニーズを満たす自己対象を、鏡自己対象と呼びました、 逆に自分が弱い部分を助けてくれる、頼りになる、マイナスをプラスに向かわせてくれる、嫌な感情を補ってくれる対象のことを、理想化自己対象と呼びました。 不安になったり、生きる方向を見失った時に相談をしたり、お願いしたり、一人で、はできないことを一緒にやったり、勇気をもらえる対象のことです。「一人ではできないこと」を助けてくれる人。困った時に頼れる人。 社会的参照の対象、といえるでしょう。 鏡自己対象(プラス指向対象とでも呼びたい気分になってきました笑)を満たされるプロセスで、健全な自尊心や向上心が育っていく。 理想化自己対象(ゼロ指向対象)をみたされるプロセスで、不安や怒りや悲しみといった感情を処理し、ケロッとできる心が育っていく。手助けしてもらう。人間関係がうまくいく。負の感情の排泄ができるようになる。「弱い」自分に力を感じる。「大丈夫だ」と思える。落ち着ける。 Idealizing For the young child, ‘ idealized selfobjects “provide the experience of merger with the calm, power, wisdom, and goodness of idealized persons”‘. (グリッドやレジエリエンスや自己肯定感とかいう言葉も、こうした作用のまとまりだと考えたら、とてもアバウトな概念ですね) 双子自己対象は「自分と同じ」ということを感じることで安心を得られる自己対象? ありのままの自分を映し出してくれる対象?うーんよくわからない。 Alter ego/twinship needs Lacan highlighted ‘the mirror stage … of a normal transitivism. The child who strikes another says that he has been struck; the child who sees another fall, cries.’ 聞いても、返事が返ってこない、自分のことがわからない、喋れない子どもに出会うことがある。 自分のことを感じられないで、「え?なにそれ?わかんない」と答えるような子どもがいる。 で、その子のお母さんはとてつもなく管理が厳しい。全部親が決める。子どもはついていくだけ。 これはある意味、双子自己対象だけで心の仕組みがつくられた例といえないかとおもいます。 母親と一体化してしまう。母親がコントロールしてくれないと安心できない。というか、母親なしでは判断できない。「自分」がないように見える。言葉で表現される「その子自身」が、虚ろに聞こえる。。。) ==== 鏡自己対象や理想化自己対象を英語でなんというか調べたら、、、なにやら、、、意味がわからない、、翻訳がおかしい。。。。もう日本語わけわからない。。。 鏡自己対象は誇大自己対象と呼ぶべきところを、理想化自己対象と意味合いがかぶるから鏡自己対象と翻訳したんだろうか、、、鏡って、、、そんな、、、わからんやろ!笑 grandiose-exhibitionistic needsは誇大自己顕示欲求と訳せそうだが、これが鏡自己対象によって満たされるという。鏡、という言葉は翻訳としてよろしくない気がする。 ==== 健全な〈自己の充足〉ではなく、不健全な〈自己の充足〉を考えてみてもいいでしょうか。 鏡自己対象(プラス指向対象)、自分のプラスを感じられるために、よく「ホメゴロス」人がいます。これは「ありのままの自分をみてくれていない」ことになったり「条件付きなんだ」ということになると不健全。おだててやらせるとか。子どもも自分を隠して、評価されるために頑張ってしまう。 理想化自己対象(ゼロ指向対象)、自分のマイナスをプラスの方向に持っていくために、ヒモのようになる。ただついていくだけ。弱い人間が強い人間の後ろについていく。権威主義。ただただ従属してしまう。 双子自己対象については見た通り。自分の感じ方、自分のしたいことではなく相手の基準に合わせる。とか、同じ服を着たり、同じものを買ったり、同一化して安心する。(孫とおばあちゃんでペアルックな光景をみてゾッとしたことがある。いやまぁいいけどさ。) 不健全でも健全でも、とりあえずは〈自己の充実〉はされるのでしょう。 そもそも、不健全とか健全とかがあるのでしょうか。 生きていれば、それでいい、のでしょうか。 それこそ、「人間とは、そういうものなのだ」と認めなくてはいけないことなのでしょうか。 別の原理(ダイナミクス)を導入したいです。 ーーーー
コフートの最初の悲劇人間の定義は、人間が何のために生きるかで分類できるという考え方に基づいている、 もし目標が欲動の活動に向けられていれば、これを罪責人間とよび、目標が自己の充実に向けられていれば、これを悲劇人間と呼ぶ。 精神装置心理学という概念は(略)罪責人間の精神障害と葛藤を説明するのに最適である。自己の心理学は(略)悲劇人間の心的障害と苦闘を説明するのに必要とされる。 コフートがいおうとしたのは、フロイトのころと現代ではあつかっている患者がちがうということだ。フロイトの頃の患者は自分の内なるエスからの欲望に動かされ、それに対して自我がコントロールしようとしたり、超自我が禁止行動を出そうとする、自我がエスに敗れて、「欲望に負けた」行動をとっても、超自我が強すぎて、「してはいけない」「であらねばならない」が強すぎても、罪悪感に苛まれるか、あるいはそれが無意識の罪悪感となって抑うつや神経症の症状を引き起こす。葛藤の場はつねに自分の内部にある。まさに復讐するは我にありの状況だ。「人間が自分自身の内部の葛藤に悩む限りは」これまでの自我心理学、つまり人間の心の内部の心的装置を仮定する心理学は役に立つ。しかし悲劇人間の営為の中心は、野心と理想という自己の二つの極の間に貼られた緊張弓である。(p.99)
人間は罪責人間と悲劇人間の両方をもっている。 結局一人ではできないから、誰かの力を借りて、変わっていく。 関わり方を変えていく。 というケースは本で読んだことがある。 (甘えられない自分を発見して、甘えるようにしてみたら、心が安定した、というケース)
病的な程度にまで至る自己の障害は、これら二つの発達機会の両方に失敗することによってのみ、生じる。 子どもにとって、 片方の曲が満たされないことは「悲劇」であるが、それでも本当うに病的になるのは、両方卯の曲が満たされない時なのだということは、子どもを育てる側の者にとっては、多少安心できる話といえるかもしれない(p.104)
その二つの機会とは、鏡自己対象と理想化自己対象だという。 ===== 英語版のwikiを読みながら、Optimal frustrationという概念が大切だとおもえました。 optimalとは、適度な、最適な、最上のというう意味です。opticalは光の、という意味であり、「光明ある」という意味合いでとるとよいかもしれません。 つまるところ、心理的ニーズを満たす対象を探して満たされて自己愛を満たすプロセスのなかで心を成長させる「適度な挫折」であればいいのだが、挫折が大きすぎると、、、、というお話。学校という暴力のシステムのなかで、すでに「挫折」しているう部分があるのかもしれない。日本という場所、日本人という人たちの中で、自己を充実させられずに、子どもたちは挫けていないか。 ===== 混乱しまくっている。 Empathy Kohut maintained that parents’ failures to empathize with their children and the responses of their children to these failures were ‘at the root of almost all psychopathology’. 共感は3つの心理的ニーズすべての基礎になることは間違いない。 が、ここでも不健全な共感という考え方ができてしまう気がする。 ======= 別の原理(ダイナミクス)を導入したいです。 と書いた。 生態学を導入したいとおもった。 大人が心理的ニーズを満たす自己対象が子供しかいないという状況を考えてみよう。 人間の生態、日本人の生態をみると、会社でも地域でも家庭でも「立場」が優先される。としてみよう。 みんな大好き欺瞞の言語から心の健康を守るには?『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』安冨 歩 心理的ニーズを満たす関係をつくれない。 心理的ニーズを満たす関係をつくる時間も場所もない。 ただ、子どもだけは別だ。近くにいる。 親にとって、子どもしか、〈自己の充実〉のための自己対象がいない。 (子どもとの関わりが希薄な父親の場合は、仕事漬けになるか酒に走るか何か) 学校の先生を考えてみよう。 まず一番大きいのは「立場」だ。 コフートの考えでは、〈自己の充実〉は相互依存関係だという。 とすれば、心理的ニーズは満たされていない。双方に、満たされていない。と僕は直感する。 ただ「立場」があるだけ。。。。 なんの共感もない。 殺伐としているおかげで子どもも〈自己の充実〉をするための関係を学校の中ではつくれない。 友達との関係を作れたらしあわせなほうだ。 一番簡単な方法が、親子がともに「母子カプセル」に入ることだ。 双子自己対象として、お互いに〈自己の充実〉をし合う。相互依存⭐︎ 共依存。 狂依存。 ううーん。 人間の、現代社会の、日本人の生態を眺めると、とても、「自然」に思えてしまって怖い。 ーーーーーー 悲劇人間は、現代社会で「自然」な人間の姿だということをみた。 一方で、また同時に、悲劇人間でありなおかつ罪責人間であることも、大いにありうる。 日本では超自我の禁止行動が主流だろう。 禁止を受けたせいで、心が磨り減った部分が、さらに、エスで酒まみれ、欲情まみれになったり。 バランスをとるのではなく、超自我を育てる文化。 コントロールされることに慣れることが、教育であるという文化。 これは「自己」ではなく「立場」を生きなければならない日本人の暮らし方だと考えたら。。。 「立場」を学び、「自己」を育てない生き方が、日本の精神文化だとしたら。。。 どこかからふっと湧いて与えられた「立場」(というか、立場をつくる=役をつくることでしか人間同士が関係できないので「立場」で考えなくては頭が回らないのでつくる)に従うロボット。ああ、だから日本は機械作るのがうまいんだ笑 ====== この記事を書きながら、気づいたのは、日本という場所で育まれた人的な生態系の自然なあり方が、ただただいまの目の前に広がっている、という事実を、私は文字に書き起こしただけだったということです。人によって、それは残酷にも、「当たり前」にも映るのだろうけれど。 「共感」には永遠に達しない、人間のいない世界を、僕は感じている。 人間と暮らしたい。 いや、人間、、、、これが、、、人間なんだ。。。。
目標が自己の充足に向けられている人は「悲劇人間」と呼ばれた。自己の充足のためには、自己対象が必要である、そういうう自己対象を周囲の人に求めて、自己の充足のために足掻く人、悲劇人間こそが、現代の精神分析に主たる患者たちであるとコフートは考えたのである。「罪責人間」の精神病理は個人の心の中の問題であり、「悲劇人間」の精神病理は環境への人間的な渇望の問題である。つまり、「罪責人間」は心理的に「個人」であるが、「悲劇人間」は個人以前なのである。(p.169)
人間関係の原理を、「立場」でシステム化してしまった。 想定された役を超えることは許されない。 会社や学校の外で人間関係をつくるような「自然」は日本にはない。 それこそ「自然に反して」つくっていくしかない。 そのためには「自己」が必要になる。 「個人」の強さが必要になる。 「個人」がある程度確立していれば、「不自然」に手を伸ばすことができる。 だが「個人」としても未熟であるなら、、、親子が心中するしかない。 日本では、一週間に二人、子どもが親に殺されている。 〈自己を充実〉させてくれない子どもだからといって、殺されている。 子どもが、「自己」を抹消する日本の「自然」に、飲み込まれていく。 子どもが、「自己」を抹消された大人の「怒り」を、受け止めて、死んでいく。 笑うしか、ないかな。。。。 絶望までもう少し☆ きちんと絶望できるかな笑 自分の小ささを、もっと感じないといけないなぁとおもった。 ========== =========== ここでブレークタイム・・・ ========== ========== 〈自己の充実〉のために、双子自己対象を得るしくみはいろいろある。 同じ趣味、興味を持ってあつまる音楽サークル、もしくは子どものピアノ教室、習い事、部活動。 お母さんたちが「みんないっしょ」の安心感を得るために子供をつかう。 目標が、〈自己の充実〉だ。 それに子どもをつかう。 ーーーーーーーーーー コフートの心理学は、「臨床」のための心理学だ。 心の医者のところまできた人に対する手ほどきをするための枠組みが心理学だ。 いま僕は親子関係の「違和感」「不自然さ」が何なのかを知りたいとおもっている。 だが、コフートの心理学は、「病気になったり不都合がでてきたときに駆け込んでくるクライアントのための」心理学だ。 健康被害(?)がでる以前の「不自然さ」を扱ってはいないのだろうか。
コフートは、「昨日までの人」とは、ルネッサンスから1930年から40年ごろの生まれくらいまでの人たちであるという見解を明らかにしたうえで、彼らは、まだ「個人」の世界の人であり、自分の境界をはっきり持っている個人同士が、緊密な人間関係をもっていると述べた、しかし「今日の人」は違うのだと語った。 人々が定住化し、人々の均一性が増し、動き回れるスペースが減り、マスの動きと効率の良い全体主義が支配する世界では、人は心理的サバイバルのための新たな問題に直面することになるのです。(p.170)
他者との関係をもつ。 という一言にコフートの考えを要約してみよう。 もう簡単にしよう笑 オトノネの存在は、「お母さんがオトノネと関係を持つ」ことでしか生まれてこないということ。 けどオトノネは多くのお母さんの望む不健康な関係を望まない。 望まないよ・・・
悲劇人間の子供が拡大再生産されている現在、自己心理学は一般大衆向けの心理学として、どのように子どもと接し、どんな形で子どもに情緒的刺激を与える社会を作るべきかなどおいう問題を提起すべき時期がきているように思えてならない。そうでなければ、パソコンが創り出すサイバースペースにすべての人が引き込まれて、パソコンが創り出すファンタジーの世界でしか「生きる」意味を見出せない人間が当たり前になって、情緒的接触という言葉が事実上死語になりかねないからである。悲劇人間であれ、偽正常であれ、救えるのは人間しかいない。このような過少刺激の時代だから、子育てにかんしては過保護をおそれず、愛せる限り子どもを愛すべき時代なのだと私は考える。(p.174)
過保護=甘やかし であるが、過保護=過剰コントロールでもある。 過剰コントロールは控えていただかないと困る。 ======= ああ、双子自己対象のヤバさ、書いてあった笑
悲劇人間は、個人として、自分の欲動に忠実には生きられない。これまでの他者の反応がそれなりによかった人たちは、それなりにしっかりした自己を持ち、ある程度は、その中核プログラムにそった行動をとれるのだろう。しかし、そうでなかった悲劇人間たちは、みずからの生きる意味を創り出すことができず、周囲に合わせて生きるだけの「偽正常」の病理に苦しむことになるだろう。そして、関係性理論の論客ミッチェルによると、この偽正常こそが、多くの現代的精神分析家のメインテーマなのである。コフートが亡くなる間際に双子自己対象の大切さを強調したのも、「同じ人間でいたい」という、偽正常の患者の心の叫びを受け止めたからなのんかもしれない。(p.173)
「みんなでいっしょ」には危ないという記事は書いてきた。 「長時間」「みんな一緒」「やらされる」組織からの自立と、組織の選択。 「みんなで一緒に」を喩えてみる。 「みんな一緒」の夢から早く覚めた子が、合格する。 けど「みんなでいっしょ」が染み付いた心をどうしたらいいか、それは「知る」ことではどうにもならない。 それこそ、堕落し切るしかないのだろうか。 「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』) 義務教育学校の本当の意味とエリート社会と堕落と、子育ての2つの考え方。残酷な考え方。 心が感じなければ、変わろうとしなければ、変わらない。 と思っている。 だが「偽正常」が、あたりまえのストラテジーになってしまった。 「かつての」健全な人間関係はもはや望めない。 人間という資源が使えない。 そこで苦肉の策が「アイドル」とか「ブランド」とかでなんとか〈自己の充実〉をやろうというストラテジー。 「偽正常」であるが、それが「自然」だ。 「みんな一緒」が、「自然」だ。 そんな社会の中で、オトノネをする意味はあるんだろうか。 すくなくとも、オトノネを求めてくれる人がいる、ということだろう。 多くを望まず、小さく続けていこうかな、とおもう。
コフートの考える自己の欠陥は、親の反応性が良くなかったために、体や知的機能は大人になっているのに、心は子どものままの発達状態でいるというモデルである。(p.178)
大人が子ども時代にやりのこした宿題ですね。
コフートは、相手が共感的な反応を示してくれなかったり、自己愛が傷つけられたり、恥をかかされた時の激しい怒りを自己愛憤怒と読んだ。(p.181)
で、この中身は「放出したところで、軽減されてスカッとはしない」ものだそうです。 その根本は、自己愛を大切にできない心にあるから。 大人が子ども時代にやりのこした宿題ですね。
健康な心というものは自己対象によって作られる、そして健康な心を持てれば、周囲の世界から自己対象を選ぶ能力が高まるだろうし、それを利用する能力も高まるだろう。つまり自己対象に対して成熟した態度が取れるのである。 フロイトは、コフートも指摘するように、多くを知ることに大きな意味を置いた過去のことであれ、自分のことであれ、多くを知って心が賢くなれば、人間は自分の葛藤が克服できると。しかし、最近のトラウマ治療でも問題になっているように、「多くを知っても」人間の心は解放されない。もっと人間的な養分で心を元気にしてやらないといけないというのがコフートとの大きな教訓だった。(p.204)
この言葉はコフートではなく和田秀樹さんの言葉です。 少し変えてみようとおもいます。 健康な心というものは健康な心を持った自己対象によってつくられる。 病は感染する。 親子で特に感染する。 学校でも感染する。 地域社会でも感染する。 健康。 心の健康とはなんだろうか。 自分の身を守る。 自分の心を守る。 オトノネはオトノネを守る。 僕は僕を守る。 誰かが、「みんな一緒」でその人自身を守っているように。 子ども時代に、人生を通して作られてきたパターン(ああ、チューリングの本をもう一度よもうかな)は簡単に変えられない。 あるもので、やっていくしかない。 もしそれで「故障」して動けなくなったら、オトノネにきたらいい。 そんな風に、どーんと構えていたらいいのかな。 僕は僕らしく。 オトノネはオトノネらしく。 あなたは、あなたらしく。 僕から見たらあなたは不自然。 あなたから見たら僕は不自然。 だったら、関わらなければいい。 自然に付き合える人、自己対象をみつけるのが難しい、僕の生き方、オトノネのやり方。 それでも捨てられない僕だから、オトノネだから、まぁいいか笑 ======== 双子自己対象の例で、いいものがのっていた。
いつものように「患者の苦しみをまったく理解してくれないので辛い」と私を非難したのに対して、私もふと、「患者をよくできない治療者というのも辛いものなのですよ」と対応した。すると、Bさんははじめて治療者に微笑み返した。その後、患者は現在の辛い内的体験をはっきりことばにして話すようになった。また過去の成功を私に時々話してくれるようになった。(略)治療者も同じ世界に住む人間であるという感覚を与えることができれば、治療の行き詰まりを高いすることができる可能性をこのケースは示唆している。「自分もおなじ状況にいれば、あなたと同じように感じるでしょうね」と伝えることが、患者に「他の人間の中にいる人間である、という感情の確信」を与えることになる。時には、患者に対して適切なタイミングの良い解釈を与えることが、「わかってもらえた」という感覚を与え、双子感を確立した。別の場合には、治療者の側の敵とな自己開示、つまり自分のプライベートな姿を垣間見せることが、患者に治療者も自分と同じ種類の人間なのだという感覚を与える。(p.230)
「わたしもあなたもいっしょ」というスキルを使うといいのかもしれない。 メタスキル はそのままに。 頑なな心を開くには、内側から満たすのがいいのだろう。 種だって、内側から開いていくのだから。 内側へ、内側へ、オトノネへ。
交流診断【基本的な構え】と安冨さんの「破壊的構え」「創造的構え」
安冨さんの「破壊的構え」と「創造的構え」はこっからでているのかな。 安冨さんも、勉強したんだな。 これが一番がっつりしているかな。 https://charm.at.webry.info/200905/article_6.html https://ta.direct-comm.com/colums/stroke_002.html http://www.counselorweb.jp/article/ta.html =============== http://www.sinkan.jp/special/six-habit/serialization2.html#main-box
「交流分析」では、自分と他者の関係を「基本的構え」といい、以下の4つのパターンに分類しています。 (1)私はOK、あなたもOK(自己○、他者○) 理想的な人間関係で、共感や信頼といった感情に包まれており、少しくらい困難な状況にあっても、関係が揺らぐことはありません。 (2)私はOK,あなたはOKでない(自己○、他者×) 支配的で疑い深い人が取る態度です。気に入らない人がいたときは冷たくあたったり排除したりしてしまい、人間関係に明らかな問題が生じていても、本人は気付かない傾向があるそうです。 (3)私はOKでない、あなたはOK(自己×、他者○) 劣等感を持ち、自分を卑下してしまう人に見られる傾向です。このような人間関係では他人と親密な関係を結ぶことは困難で、表面上はうまくいっているようでも、心の中ではストレスが溜まっています。 (4)私はOKでない、あなたもOKでない(自己×、他者×) 厭世的、拒絶的な人間関係で、人生に価値はない、虚しいと考えています。本当は他人に受け入れてもらいたいという強い願望を持っていますが、他人が与えようとする愛情を拒否したりする。対人恐怖などの傾向もあるといいます。 この「OK」というのは、安心感や信頼がある状態のこと、一方の「OKでない」は安心できない、信頼していない状態を指します。 このうち、理想的な人間関係は(1)です。しかし、これほど完璧な関係を築くことはそうできません。だから、(1)に近い関係にするために自分自身ができることをすることがストレスを減らす最大の努力になるのです。
======================== http://kizuki-ya-k.hatenablog.com/entry/2017/05/01/010037
今日のお題は、 「I am OK, You are OK.」 「交流分析」という心理学の、「人生態度、人生の構え」という理論です。 「人生の構え」とは、自分が他者にどのような結論を下しているか、 という思考パターンで、4つのパターンがあります。、 それは、人生に対する基本的な態度であり、人生の立場でもあり、 人は、その自分の「基本的な構え(態度)」を、 生涯にわたって、立証(確かめ)しようとする(立証を繰り返す)、 という理論です。 人生態度のパターンは、以下の4つです。 1)「I am OK, You are OK.」 2)「I am not OK, You are OK.」 3)「I am OK, You are not OK.」 4)「I am not OK, You are not OK.」 「OKである」と、 愛されている、価値がある、優れている、賢い、楽しい、役立つ、 成功する、(肯定的)・・etc 「OKでない」と 愛されていない、価値がない、能力がない、劣る、バカ、 安心できない、間違っている、(否定的)・・etc などの感覚が、自分や他者に対して、あります。 それぞれ、 1)「I am OK, You are OK.」は、協調、共存 2)「I am not OK, You are OK.」は、回避、孤独 3)「I am OK, You are not OK.」は、独善、排他、 4)「I am not OK, You are not OK.」は、拒絶、自閉 という自他の関係の傾向を持ちます。 「人生態度、人生の構え」は、おおよそ7才ぐらいに、 決断すると考えられています。 つまり、自分の思考力で吟味した結果として成立するものでなく、 思考力が発揮される前の人間環境による影響が大きい、 時期の、成立と考えられています。 1)の、「I am OK, You are OK.」の構えの場合は、 自分を受容され、他者との違いに許容ある環境で育まれた傾向があるようです。 2)の、「I am not OK, You are OK.」の構えは、 後悔や、心配、謙そんすると、親か自分を認めてくれると思えた場合が ベースにある傾向があるようです。 3)の「I am OK, You are not OK.」の構えは、 イライラや、他者を攻撃、かんしゃくを起こすと、 親が自分の存在を認めてくれた体験がベースになる傾向があるようです。 4)の、「I am not OK, You are not OK.」の構えは、 見捨てられ感や人間尊重の扱いを感じなかった環境や体験が ベースになる傾向があるようです。 「構え」や「態度」に「気づいて」、 自らの在り方を変えていくことも、可能です。 その場合は、おおむね、4)3)2)1)の順で変わって行く傾向があるようです。 「I am OK, You are OK.」の構えは、お互いに尊重し合うことが出来るので、 人間関係が楽になり、生きづらさを解消できます。 それ以外は、何らかの否定を常に抱えているために、 なんらかの生きづらさを持つ傾向がうかがえます。 交流分析(TA)理論の、構造分析(自我状態)からすると、 CP(Critical Parent きびしさ)の高さは、You are not OKの構えと関係が深く、 NP(Nurturing Parent 優しさ)の高さは、You are OKの構えとの関係が深く、 FC(Free Child 率直さ)の高さは、I am OK の構えとの関係が深く、 AC(Adapted Child 順応)の高さは、I am not OK の構えとの関係が深いようです。
【学びのプロセス】先生によるいじめとは何か『生きる技法』『経済学の船出』安冨歩
最近、問い合わせがあった。 学校で、先生にいじめられた子の話だ。 もちろん、よくある話で、社会的に、組織的に、合法的にいじめられる。 だからそれは「いじめ」ではない。 どれだけ富山県の外にきたお母さんが富山県で「いじめ」に合おうとも、富山県の中では、「いじめ」は「文化」であり「常識」であり「自然」であり「正しいこと」としてただただ、したがって行くしかない、みたいな、諦めの世界に人を誘う。 いじめに対して、このような大人の姿勢から子供が何を学ぶだろうか。 「いじめられたら、諦める」 「諦める?」 それが何を表しているのか。 「生きる」ことを意味しているのだろうか。それとも「死なない」ことを表しているのだろうか。 「命」を握りつぶすことを意味しているのだろうか。 それとも、「命」が輝くことを意味しているのだろうか。 もしくはいじめられたら、いじめた人に「攻撃する(いじめ返す)」大人もいるだろう。組織的に、計画的にいじめ返す人がいる。 いじめられた!といって、他人を攻撃することを意図した悪意ある大人もいる。 そしてもう相手が反撃してこれないように、徹底的に、潰す。(体裁的には相手が勝手に潰れるようにも見える) 多くの組織が、全体主義的な「ハラスメント」を別の組織に仕掛けている、といえるだろうか。あー頭が回らない。 大人の社会そのもの、と考えてもいい。 苛め、卑しめ、というものは、とても人間らしい、人間の、醜い部分であって、心のある、とても深い場所から生まれてくる。 ーーーーー ある子は、遊びに誘った同級生から「今日は○○ちゃんとあそぶから、あなたとは遊ばない」と言われたらしい。 これを、いじめ、ととることだってできるし、ただの心の構造、とみることもできる。 「遊ぶとは、誰かと契約関係を結ぶようなものである」という心があるかもしれないし、 「その子の“占有物”にならなければ、“遊ぶ”ことにはならない」という心があるのかもしれない(爆)。 わからない。 とにかく、 苛め、卑しめ、というものは、とても人間らしい、人間の、醜い部分であって、心のある、とても深い場所から生まれてくる。 いじめは問題ではない、「いじめ」という現象が立ち現れたときに、その「心」とどう関わるかが問題なのだよ。 なぜなら、いじめは、なくならないからだ。 いじめとどうかかわる? 本当は、自分自身が、自分をいじめているのかもしれない。 本当は、お母さんから、いじめられているのかもしれない。 苛め、卑しめ、というものは、とても人間らしい、人間の、醜い部分であって、心のある、とても深い場所から生まれてくる。 ============ 『生きる技法』ではこれに対してズバッと方略を提示する。 「破壊的構え」の人を、バッサリ切るということだ。 (ちなみにではあるがメンタリストのダイゴさんも同じようにいう) あまりにも手ごわい、心が追いつかない脅威に対しては、心を守るために逃げる、関わらないという選択肢が有効だと僕も思う。 僕自身が、自分の心を守り育てるために環境を選び続けて来た。 バッサリ切る、といっても安冨さんは、自分に余裕があるなら相手が「創造的構え」をとれるような姿勢を取るのが、「学」としては理想的だというが。 これは並大抵のことではない。 僕自身も、坂口安吾のいうように、「堕ち切る」ことによってしか、学びのプロセスを始動できない、とおもっている。 もしくは、「破壊的な人」に構うことにエネルギーを注ぐより、自分が「創造的な人」となって「創造的な人」と人間関係をつくることのほうが、第一優先だ、といってもいい。 「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』) 破壊的な構えをもった人は、欺瞞にあふれていて、対話というものができない。 何かにとらわれていて、心を開くことがない。ただ情報処理を行い、事前にプログラムされたシステムを発動させるだけの機械だ。 巧妙に、相手の心につけこみ、破壊するウィルスだ。 学校に蔓延している。 会社に蔓延している。 時として、家庭にも、蔓延している。 いじめをハラスメントとしてみれば、世の中に、いじめのない場所を探す方が難しい。(そんな場所をつくることが、「生きる」ためには大切になってくる) =============== 『経済学の船出』安冨歩 この本では、「貨幣経済は縁切りによって安定する」「貨幣経済はもともと安定と不安定を繰り返す複雑系である」「貨幣は人間の関係性をよくする手段にもなるが、ハラスメントを引き起こす道具にもなる」ということが書かれている。 ざっくり笑それでいいのかな?? いじめを安冨歩さんのいう「ハラスメント」だとしてみよう。 以下の文章は、安冨さんはなんも喋っていない。 僕が考えたことなのであしからず。 ーー 私たちは貨幣を用いたいじめの加害者でもある。 「安い製品」を買うことで、発展途上国の富裕層と貧困層の差が広まる(というか、富裕層が貧困層にハラスメントする社会システムを作り上げることが問題なのである。) 「安い授業料」を払うことで、肝心の、生徒に向き合う講師は困窮し、紹介会社は富を肥やす。 これは、いじめではないのか。 私たちは、マクドナルドにいくことで、家庭教師のトライ、あすなろを利用することで、もしくは「塾」に行くことで、または百円ショップを使うことで、いじめに加担している。 見て見ぬ振りをしている、傍観者になっている、それもいじめの一部だとしたら、立派ないじめであるし、卑しめでもある。 といってしまってもいいのだろうか。 「限りある資源」をどうつかうか(どう減らすか)。 生きるために… という方向と 「限りある資源」をどう増やすか。 生きるために… という方向があるだろう。 すると、お金はテクノロジーであり、どう使うか、使い方次第では、人間の精神を規定してしまうものになる、ということは簡単に想像がつく。 機械やテクノロジーによって、人間のあり方はだいぶ、制約をうけるようになった。 貨幣にも、その働きがある、ということを、思い出した方が良さそうだ。 僕自身、常々、思い出せずに暮らしてしまっている笑 工場で作られるような食べ物を買うことは、コンビニ弁当を買って暮らすことは、なるほど、便利かもしれない。カップ麺で暮らす人もいるだろう。 もし全員がカップ麺生活をし始めたら?きっと誰も、お手製のラーメンを食べられなくなってしまうかもしれない。「小麦粉」から自分で作らない限りは・・・極端な話だが。 安いものを手に入れるのと同時に、「阻害される人」がでてくる。みんなカップ麺だけ食べてたら、生の麺をつくる人がいなくなってしまう。「どうせみんなカップ麺食べるんだ。。」といって、いじめ抜かれていると、想像してみるとどうだろうか。 「安い製品」を買うことで、発展途上国の富裕層と貧困層の差が広まる(というか、富裕層が貧困層にハラスメントする社会システムを作り上げることが問題なのである。) 「安い授業料」を払うことで、肝心の、生徒に向き合う講師は困窮し、紹介会社は富を肥やす。 「いじめられている人」の存在に気がつかないなんて、普通のことだし、まさか自分が加害者だなんておもうことなどそうそうない。 はたまた、「すべての人のことを知ろうとしたら、感じようとしたら、頭が狂ってしまう」といわれたら、なるほどと思える。 いじめは、普通の出来事なのだ。 自然な出来事なのだ。 いくら「牛肉は地球を壊すから食べちゃダメ!」といわれても、食べるのだ。 いやいや、食べる回数くらいは減らせるだろうが・・・ 人間的な、出来事なのだ。 (SDGsは開発国の良心の呵責を埋める免罪符として機能している側面がある) それこそ、「限りある人間」という存在をどう生かすか、どうやってこの情けないほどに「有限」な人間が生きていけるのか、はっきりとした態度がとれるようになったら、すこしは楽になるだろうとおもう。 その一つの考え方が、 そもそも「生きる」とはどういうことか。 という視点になるんだろうと、私は思うのだが。それを安冨さんは「学」に求めるのだし、「神秘」に求めるているのだろう。 破壊と創造の神シヴァに、聞いてみようか?笑 「死なない」ことを夢見るのではなく、「生きる」ことを夢見てみよう。 どうもよのなか、大人たちは「死なない」ことに全力を尽くしているような気がして、危うい。 否定形の夢は、否定を取った形で実現するらしいからね!(『生きる技法』) =================== 先生からも同級生からもいじめられている子のお母さんは、「学校に行く意味はなんですか」と聞いてくれた。 すごくいい質問だなとおもった。 僕の答えはこうだ。 「世の中、いじめなんて当たり前だ。その中で、どう生きるか、それを学ぶために学校がある。休むでもいい。言い返してみるでもいい。素直に従って隷属するのでもいい。やってみて、試して、心に感じたことをきちんと抱きしめて、そうしてじゃぁどうしようかと、心に聞いて見てほしい。休んでもいい。行かなくてもいい。行ってもいい。どうでもいい笑ただお母さんが、もしくは誰かが、その子の学びのプロセスを支えてあげることが、大切です。学校は何かを学びに行くところです。学べなければ意味がありません。今の状態で、何を学びますか?今、お子さんにとって、学校は、意味のないところのように私は感じます。もう学ぶことは学び尽くしたのか、学ぼうにも学べない状態なのか、わかりませんが。」 「いじめ」は「自然」。 「けんか」と同じ。 「いじめ」は「自然」。 「すれちがい」と同じ。 「いじめ」は「自然」。 「嫌な人」がいるのと同じ。 「いじめ」は「自然」。 世の中が、暴力で満ち溢れているのと同じ。 「いじめ」は「自然」。 暴力的な人が、組織のトップになりやすいのだから。 「いじめ」は「自然」。 だれもが劣等感や妬みや怒りや慢心をもって生きている。 決して、「いじめ」は、なくならない。 大人になったら、思う存分、いじめられるのだし。(思う存分、いじめる人もいるということ) それにどう向き合うのか、向き合わないのか、かわすのか、つきあうのか、、、、 ただし、いじめはコミュニケーションの一つのあり方であって、反応次第では、関係が変わるかもしれない。 暴力、支配、干渉、過保護、人間疎外、自己疎外、そういったことが「自然」な世界で人とどう関係して行くか。自分をどう守って行くか。 ーーーーーーーーーーーー 「諦めて」学校に適応できるように、心を「つくりかえる」のでもいい、「何くそ」とおもって、学校の外で「創造的な」人間関係をつくるのに心を注いでもいい。 だがもし、学校という場所の狂気をきちんと認識して、学習の場として「もう無理」のサインを子どもが出したら、それは、きちんと受け取る以外に、その子の魂を守ることはできない。 その子自身が、その子でしかない、その子だからつくりあげる「心」そのものが、その子です。 「学」そのものが、その子です。 まだ学校の先生に、いじめた子に、何か働きかけられそうなのであれば、働きかけてもいい。 「だめだこりゃ」とあきらめられるまでやってもいい。 (ただ本当に学びの回路がないのか、それとも伝え方を強くしたり、伝え方を変えたらいいのかは、判断がつかない、つきにくいのが難点) 一方で、富山県の人たちの多くは「学校に、いけたらいいわね」とか「行く」ことが前提にあるらしい。 しかもそこにはコミュニケーションが介在しない。学校に、合わせる、というのが前提にあるらしい。 そういう呪文、呪縛、呪いから、身を守る方法をお母さん自身が学ぶ機会を、お子さんは与えてくれたのだ、とおもう。 破壊的な構えをする人は、学ぶことがない。 富山県の学校は基本、破壊的だ。 従属を求める。 ただ破壊兵器のように、相手を支配するために振る舞う。 (それは富山県の「文化」であって、「自然」であり「正常」であるがゆえに、恐ろしい) 富山のメンタルヘルスと「怪獣」 フィンランドの精神福祉(メンタルヘルス)の施策と日本の「定期テスト対策」の差が自殺率に現れる。 【富山ブラック】富山県という子育ての条件。幸福度と自殺者。高岡高校の生徒はなぜ自殺したのか。 【ある古老の語る仮説】富山県で共働きが多い理由。 富山県で共働きが多い理由を考える。 このような関係性から何かを学び取るには、、少なくとも、学びの「フィードバック」をくれる人が必要になる。 「フィードバック」の機構それ自体を変えるような学びは、学びあえる人がいなければ、つくられない。 その大切な存在が、お母さんであると僕は信じている。(友達でもいいのだが・・・そういう友達とめぐりあえる子はしあわせだ) 子ども時代に、母親からこのような学びを替えれなかった場合、大人になって、この宿題に取り組むことになる。 コドモとして未成熟なオトナ ーーーー 電話をくれたお母さんは「安心した」といっていた。 自分の感覚がおかしいんじゃないかと、もんもんとしていたのだ。周りの人が狂っているので。 オトノネに電話をしただけで、世界が変わる。 オトノネは、そんな場所です。 学習の回路が開いた方でなければ、なかなか利用することは、難しいでしょう。 学習の回路が開けずに、身体的に、もしくは心的に、死んでしまう人が、たくさんいます。 そういう稀有な人のための、オトノネです。 ーーーー 稀有な人が、富山で育った人にも、県外で育った人にもいる。 遺伝が50、環境が50という世界で、ひとりひとりが個性ある心をつくっていく。 狂った社会の中で、ハラスメントが横行する人間関係のなかで、心を大事にするプロセスを止めずに守り抜く気質というものが、あるのだろうか。 とある発達心理学者は「発達とは、鈍感になっていくことである」と言った。 脳は「効率化」のために、全ての音を聞き取れていた赤ん坊を、学習によって限られた音しか聞き取れない大人にする。 世界から与えられる多くのメッセージを、切り刻んで、部分的にしてしまう。 社会は、文化は、その感じ方、モノの見方を教える装置だ。「効率的に」私たちが暮らせるように、人を、狂わせる。 その装置の中で悶え苦しむ魂がある。 僕自身がそうだし、同じように苦しむ人がいたら、オトノネに遊びにきたらいい。 狂った社会の中で、ハラスメントが横行する人間関係のなかで、心を大事にするプロセスを止めずに守り抜く気質というものが、あるのだろうか。 それこそ、神秘に委ねられた、ありのままの世界として受け取るしかない、暗黙の次元に属する問いであろう。 『パーソナリティを科学する―特性5因子であなたがわかる』のメモ
登校拒否と離婚と自己愛人間、ナルシスト
ナルシストは破壊的な関係を他者と作り上げる。 学校も破壊的な関係を他者と作り上げる。 どちらも、勝手にこちらのイメージを押し付けてくる。 簡単に言って、雑に言ってしまえば、学校という組織はナルシシズムであると気がつく。 自分の体面を気にしている。 自分のことばかり気にしている。 相手に要求はするけど、こちらからの要求に聞く耳をもたない。(ナルシスト本人は聞いているつもりである) 聞く耳を持たず、当たり前のように、要求をしてくる。 さも、それが「常識」であるかのように。 「コミュニケーション」も「対話」もない。 「話し合い」という名前をつけられた時間は、ただ「話し合い」をした記録をするためだけの偽装である。 もしくは「先延ばし」にするための慰めのようにおもえる。 ーーーーーーーー 同じことが、夫婦の間にも言える。 結婚して、いいなりにさせようとする、人としての交流のない関係になる夫婦がいる。 破壊的な関係。 同じことが、政治にも言える。
「帰れ!」「帰れ!」「帰れ!」と大声で罵る茂木大臣。こんな口の聞き方があるのか。パワハラそのものではないか。人事院がまともだったのに「訂正」を無理矢理させてしかも「帰れ!」と怒鳴る。ありえない。 https://t.co/hqOAWQLYrH
— 福島みずほ (@mizuhofukushima) February 20, 2020
ハラスメントの根底には、破壊性の根底には、ナルシシズムがある。 力と力、弱肉強食、暴力と破壊。そういう言葉が、国会で鳴り響いている。学校でも。多くの家庭でも。 同じことが、塾と子供と保護者の関係にも言える。 自分が利益を得るために作り出すシステムで、子供との関係をつくるシステムではない。それはもちろん創造的な関係ではない。 親はすでにナルシシストである場合が多いので、自分の不安を埋めるために子どもを利用して、塾に行かせる。 それが子どもをまた、破壊してしまう。 家庭内暴力はナルシシズムが親から子に受け継がれて当たり前のように世代をまたいで続いていく。
故・橋本龍太郎総理の息子にDV問題 妻「グーで36回殴られた」|NEWSポストセブン https://t.co/N70IDkiJtU #newspostseven
— 安冨歩(やすとみ あゆみ) (@anmintei) February 20, 2020
だから不登校も、離婚も(今では結婚しているが結婚していない暮らしをするスタイルがあるとのこと!)、同じように、心を守る健全な行為だ。 というお話。 一緒にいること自体が、不健全で不健康なことが、多い。 多くの人間が、程度の差はあれ、病気だからだ。 誰かに変えようとしてもらう。 誰かが解決してもらおうとする。 自分はもう手一杯だ、助けてくれ!誰か! という傾向は、ナルシシストによくあるらしい。 自分が不安であるために、子どもに「宿題をやらせる」ことは、暴力であるから今からやめてほしい。 不安は親の問題であって、親の不安を子供に解決してもらうなら、子どもに親が甘えているようなものだ。 甘えは、暴力にもなる。 遠いから行かない、というのも、ナルシシストによくある。 つまり親の都合、自分の都合でものごとを決めつける。 レッスン料が高いから行けない、というのもナルシシストの考え方かもしれない。 家計をやりくりすることを、レッスン料のせいにしている。 誰かのせいにする。 何かのせいにする。 そうして自分は何も変わらない。 「学ぶ」ことがない。 それがナルシシストという心の病だ。 ======================= 僕自身がとんでもないナルシストだった。 (ナルシストな僕ももちろん、今でも一部としてのこっている) ある時、ナルシストな自分がとてつもなく嫌になり、変わりたくて、勉強をはじめたのだ。 (だってリアルの人間は誰も、本当のことを喋ってくれないから) そこで出会った本。 ーーーーーーーーーーーー ナルシシスト 見せびらかす・自慢する 愚痴を言う・悪口を言う 富山県でよく出会うこのタイプの人たちは、ナルシストだ。 近寄ってもなにも創造的なことは出てこない。 批判を、合理的な判断を受けられずに、すべてを攻撃だと感じて反撃してくる人は、ナルシシストだ。 批判とは何か。その1 批判とは何か。その2 批判とは何か。その3(日本の遺伝子・伝統との闘い) 都合のいいように事実を言い換える。
人事院の担当者が国会での答弁を修正し、「つい間違えた」と釈明するなど、苦しい立場に立たされています(TBS)https://t.co/AKfzP1DL6e TBSの報道部は、なぜ人事院の松尾恵美子給与局長がこんな「見え透いた言い訳」をさせられたかという理由を掘り下げないのか。傍観で両論併記にして終わりの話か?
— 山崎 雅弘 (@mas__yamazaki) February 21, 2020
合理的な判断ができない(歪める)ので、明らかにおかしいことでも大真面目です。
親切な方が画像を下さったので再投稿。厚労副大臣アップの、船内で「ちゃんとゾーニングが実施されている」写真です。「左手が清潔ルート、右手が不潔ルート」だそうです。橋本岳副大臣、貴重な写真をありがとうございます!なぜツイートを消されたんですか? pic.twitter.com/PdwmQnXUab
— 西 靖 (@y_west) February 20, 2020
会社や学校でもよくある上司や先生の意味不明な言動。 ーーーーーーーー 愛着障害をもつ大人、東大話法を話す大人は、ナルシストといえる。 そしてナルシシストは、金になる。 セミナー、塾、占い、英会話教室、資格、、、ナルシシストのためだけにあるのではないが、ナルシシストがいなければ成立しない。 宗教、カルトなどは、ナルシスト集団であるから、ナルシストがどれだけ世の中にいるのか、 「救いを求めてくる」 だが振る舞いをインストールするだけで、学びにくるのではない。 集団に依存していなければ、「救われない」 依存するようなシステムで成り立っている。 宗教はナルシシスト集団だ。 ーーーーーーーーー
『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』安冨 歩みんな大好き立場主義から心の健康を守るには?
『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』安冨 歩 安冨歩さんの本は「生きるための経済学」をきっかけにいくつか読んでいた。 安冨歩『生きるための経済学』シジョウとイチバ で、最近youtubeでもいろいろしゃべってくれていて、勉強になる。 安冨さんは学者というより、本当に本当の事実、真実を追う研究者であり、芸術家でもある。 東京に行ったらばったり会いたい人です笑 言葉のレッスンに力をいれている、というよりメタスキルに力を入れている、心を大事にするオトノネとだだガブリな思想?をもっている安冨さん。 名刺の抽象性、名詞のもつチカラをブログに書いたことがあるが、それを歴史的な事件にまで広げてくれるとは。。。
権力者が共感能力が低くなるのは「自然」らしい
正しくいうと、権力を握ると、共感能力が低くなるというのはとても人間らしい「自然」だということ。 らしい。 自然だらけだなぁ。 これは去年の夏のだいごさんの動画ですが。
コロナならわかりやすいけど、日本自体が海に浮かんだダイヤモンド・プリンセスっていったら、わかりにくいのかな?日本の多くの人が、感染している心の病気も同じ仕組みなんだけどな。命が、軽い。 https://t.co/tC7sYkrlSh
— otononeオトノネさん (@otononesan) February 19, 2020
日本わけわからない。 混乱中。
コミュニケーションのための『経済学の船出-創発の海へ-』安冨歩【伝わらないのは自分のせいか?】
『経済学の船出-創発の海へ-』には、『合理的な神秘主義』『ドラッカーと論語』『複雑さを生きる』などででてきた人たちが登場する。 ホイヘンス、ヴィトゲンシュタイン、ポラニー、スピノザ、ドラッカー。 他の本では紙面のバランス上、ふかく取り扱われなかった人たち(ホイヘンス、ヴィトゲンシュタイン、ポラニー)に関して、なるほどと思える説明がなされている。 『合理的な神秘主義』よりもまず『経済学の船出』を読んだ方が、理解がしやすいかもしれない。 また『ありのままの私』でマツコデラックスさんとからめて話している「無縁」の概念を詳しくしてくれている。 経済学の本かと思えば、、 そうだ。経済とは、コミュニケーションを、人間らしさを助けるためにある、と考えている安冨さんにすれば、経済の話をすることは、人間のコミュニケーション、人間の学びの話をすることと同義なのだ。 そういうわけで、『経済学の船出』の終章では「アカデミズム」(=大学業界)の欠陥、盲点を指摘する。 経済の話をしたければ、数学を学び、歴史を学び、科学を学び、哲学を学び、人間を知れと。 そうして、すべてを結びつけた新しい学問の名前は、ドラッカーの言葉を使って「社会生態学」と呼ぶのが良いと。 ーー 追記:安冨さんが銀行で務めていた時の様子、銀行の有様笑、銀行という、今となっては悪い商売が成り立つしくみが知りたい方はp.150をお読みください笑
銀行員のやっている業務の本質は、関所の維持管理だ、ということになる。(p.156)
日本の銀行員は「企業家を見出す」という本来の能力を完全に失ってしまったのである。能力を失ったばかりか、そう言う仕事をしている、という意識さえも喪失してしまった。(p.156)
いろいろな「意味のない」仕事、創発的価値をもたない、拝金主義の例をあげてくれています。 ============== かつて、とある人に、「もし伝わらないのなら、100%自分(伝え手)が悪い」といわれたことがある。 果たしてそうなのか。 ずっと疑問だった。 いやいやまぁ、伝え方が下手だから、と、伝え手としての能力を向上させるための文句だったかもなぁとおもいながら。 どうやっても伝わらない、という人に、出会ってきたからおもうことだ。 ーーー
ドラッカーによれば、コミュニケーションの基本原理は次の4つである。 1コミュニケーションは認知である。 2コミュニケーションは予期である。 3コミュニケーションは要求する。 4コミュニケーションと情報とは、異なった、というよりほとんど反対のものであるが、それでも相互に依存している。 第一の原理は、「聞く人のいない森で樹が倒れたら、音はするか」という有名な公案に表現されている。ドラッカーによれば、これは、禅僧、イスラムのスーフィー、ユダヤ教のラビなどによって古くから考えられてきた問いであるという。この公安に対する正しい答えは「音はしない」である。音波が生じても、それを聞くものがいなければ音はしない。弟は認知によって創造されるものであり、音を聞くということは、すでにコミュニケーションなのである。 この公安は、コミュニケーションは受け手がするものだ、ということを含意している。いわゆるコミュニケーター、すなわち送り手は、コミュニケーションをしていない。彼は叫んでいるだけである。誰かが彼の叫び声を聞いて認知してくれるまで、コミュニケーションは発生せず、そこにはノイズがあるだけである。(略) 受け手が主体であるがゆえに、受け手の受容可能な範囲が、コミュニケーションの実現可能範囲となる。この点は、プラトンの『パイドン』のなかでソクラテスによって表現されている、とドラッカーは指摘する。ソクラテスは、人に話しかける際には、受け手の経験に基づく言葉で話さねばならず、例えば大工に話しかけるには、大工の比喩を使わねばならない、という。つまり、コミュニケーションの主体である受け手の機体の範囲内でしか、コミュニケーションは成立しない、とドラッカーは考える。(略) ここでは受け手の「制約」について二つのことが言われている。第一に、受け手には、身体的、文化的、感情的制約があり、その範囲を超えたメッセージは無視される、ということである。第二に、受け手が経験に基づいて感情を変えるという意味での学習過程を作動させていなければ、コミュニケーションは成立しない、ということである。この両者は矛盾しているわけではない。第一の場合は、受け取り可能範囲の問題であり、そこを超えたメッセージは「無視」される、ということである。第二の場合は、たとえ受け取り範囲にメッセージが入ったとしても、それによって受け手に「経験に基づいて感情を変える」という出来事が生じなければ、メッセージは何の変化も起こさず、それゆえ「何も新しいことはない」という形で処理されてしまうのである。これは「黙殺」と言うことができる。先ほどのキャッチャーの比喩でいえば、たとえキャッチャーの受け取り可能なボールが投げられても、キャッチャーに受け取る気がなければ、ボールは受けられない、ということである。(『経済学の船出』安冨歩 p.118)
当たり前のようだが、なかなか気づきにくい。 とらわれてしまう。 ーーー この人は、「黙殺」しているのか「無視」しているのか、受け取る範囲で言葉を投げられているのか、それとも、悪意があって受け取らないのか、判断することは難しいかもしれない。 たとえば「ああしたらこうする」という文化的な制度があったとしよう。慣習というやつだ。結婚したらブリを送るとか、かまぼこを送るとか。 で、「送られてくるはず」なのに、、送られてこなかったとしよう。 送られてくるはずのものが、送られてこない! もしかしたら、県外の人で、そんなことを知らなかったのかもしれない。 届いているとおもっていたボール(今の状況なら、結婚したらブリを送るという慣習)が、実は手の届く範囲に投げられていなかった、という、メッセージの送り手のミスだ。 「県外からきたから、知らないんだろうな。どうしようかな」という相談をしたらよかったのに、それをしなかった、伝達ミスである。 もしくは伝達がなされている上で、「いや、それは富山県の慣習であって、私たちはそれをしようとおもいません」と心に決めて送っていなかったのかもしれない。 ーーー そこで、例えば「ブリを送ることは大切なことなんだ!」ということを伝えたい人がいたとしよう。 例えば『スイッチ!』という本では、人が変わる、考え方を切り替える、新しい考えを学ぶための取り組みが書かれているわけだが。。。 『スイッチ!』 『スイッチ!ー「変われない」を変える方法』のメモ 社会的な慣習や制度は「行為」を要求するが、「心」を要求しない。 「心」の関わり合いを排除して「学び」のプロセスを動かさずに「当然そのようにあるべきだ」というべきべきなくちゃ思考で苦しんでいる人が多い。 なのでブリの例をだしたのだが、、、 「母親として」「長男として」とか、「女性として」「男性として」「会社員として」「生徒として」といった立場を突きつけて肝心の「心」を攻撃することもできる。 文化・制度はそれ自身、非人間的なハラスメントを含んでいる。 言葉を「問う」か、行為を「乞う」か。 だが文化や制度・慣習を使うのは人間だ。個人だ。 そのなかで「生きる」のは人間だ。 さて、どうしたものだろうか?? ーーーー 僕らには聞こえていない「叫び声」が、オトノネが、今もどこかで響いているのかもしれない。
メッセージの発し手は「叫ぶ」だけであって、それだけではコミュニケーションは生じない。誰かがそれを受け止めて、心を動かすことが決定的条件である。コミュニケーションが生じるには、受け手が、自らの経験に基づいて感情を変える、と言う学習の構えを開いておかねばならない。 以上に立脚するドラッカー経営額の根幹は次のようにまとめることができる。 (1)自分の行為の影響の全てを注意深く観察せよ、 (2)人の伝えようとしていることを聞け、 (3)自分のあり方を改めよ。 これは個人に対しても、組織全体に対しても当てはまる。(『経済学の船出』安冨歩 p.130)
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ドラッカーは学習回路の閉じた受け手に対して、ショックを与え、学習回路を作動させ、制約を取り払うケースについて興味深い議論を展開している。 人の心おは、印象や刺激を、予期の枠組みに合致させようとする。それは「心を変えさせ」ようとする、つまり、受け取りを予期していないものを受け取らせ、予期しているものを受け取らせないよゆな、いかなる試みに対しても、頑強に抵抗する。もちろん、受け取ったものが予期に反しているという事実に気づかせることは可能である。しかしそれには、何が受け取られると予想されているか、を事前に知る必要がある。そしてさらに、「これは違う」という明確なシグナル、つまり連続性を打破するショックが必要である。 ドラッカーはこのショックについて、「聖書の伝えるところでは、神でさえ、サウルに衝撃を与えて盲目の状態にしてはじめて、パウロとして自らを立ち上がらせることができたのである」と指摘している。(『経済学の船出』安冨歩 p.122)
人が変わるためには、とてつもない何かを必要とする、というのは、僕も感じているところ。 「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』) 感じないように生きている大人たちにとって、子どもは、いつもきっかけを与えてくれているようにおもう。 子どもらしさを失った大人が蔓延しているこの狂った社会では、なおさら。 ひきこもり、不登校、いじめ、もしくは成績不振笑やウィスクの結果などという出来事からのメッセージを受け取れない、コミュニケーションつまり学習の回路を発動できずに、ただただ狂うだけのお母さんに育てられた子は、もはや学びの回路を焼き尽くされて、自分で作り直すのにだいぶ時間を使うだろう。まぁそれも、人が生きるプロセスの一部なのだろうけれど。 社会の構成要素は人々の行為であって、心ではない。個人でもない。 その行為を個人から導き出すための仕組みが、制度であり、規則だ。 社会はそれ自体、コミュニケーション、学びのプロセスをつくってはくれない。 『合理的な神秘主義』に書かれていて驚いたのだが、なるほど、学びのプロセスは、極めて個人的だ。 個人がナンバープレートに書かれて管理されるだけになっていないか。 学びのプロセスを発動すること、コミュニケーションが問題行動を意味する組織は、アウシュビッツと似ていないか。 「学校に行く意味って何ですか?」 学校の先生に聞いてみよう。 社会性を学べるとかいうのかな。 「社会性とはなんですか?」とさらに聞いてみよう。 囚人としての作法を、学べる、ということだろう。 「隷属することが前提」なのだから、仕方がない。話にならない。 ーーーー 組織が「衝撃」を受けるということは、そうとう大ごとだし、たいてい、隠蔽や欺瞞のシステムが働いて動じることがない。 本来なら「自己変革」をせざるを得ない状況でも、ただただ、それこそ権威を盾に無かったことにする仕組みが、学校にはある。 カレー事件も、結局、学校の組織、しくみをかえることなく、狂った教員がいなくなっただけで、狂った学校は、次の狂った教員をつくりあげてしまう。 「前例がない」「常識だ」「普通」「筋を通す」「みんな」「公平」「きまり」といった言葉を口にしてハラスメントを行なっている。 子どもたちの学びの回路を壊している。 学校は学びの場ではない。 学び合うおとなが、いないのだから。。 「学校」という「自然」、「校舎」という場所。【嫉妬学】和田 秀樹 学校でズルすることを学んでもいい。中退してもいい。それでも学び続けよう。 学校のしくみ【753教育】とは何か。学校って何? 学び合うこどもにであえる幸運に巡り会うこどもがいるだろうか。 その子どもたちの学びの回路を焼き尽くそうとする学校という場所で。 そういう仲間に巡り会えた子は、しあわせだ。 ーーーー 自分自身のマネジメントから、まずはやっていきたいとおもう。 自分のマネジメント 家族のマネジメント 仲間のマネジメント 職場のマネジメント まずは、自分自身。
言葉の力
子路は言った。「衛の君主が先生に政治をさせたとしましょう。先生はまず何をなさいますか」 先生は言った。「必ずや、名を正す」 子路は言った。「これだから、先生は迂遠だ」 「子路」というのは孔子の弟子の名前で、「衛」というのは国の名前です。子路は「先生は迂遠だ」と行っていますが、もちろん、迂遠ではないのです。何か大変な危機的事態になっている時、最も恐ろしいことは、人々が欺瞞的な言葉を使うことです。 たとえば日本は、戦争に負けそうになって、毎日、B29が飛来してナパーム弾を落としている時に、「日本は神の国だから負けない」という言葉を振り回していたので、自体をどうすることもできませんでした。降伏することすらできなかったのです。自体をなんとかするためには、「このままでは確実に負けて、国土が焦土になる」という自体を反映した言葉で施工し、行動しなければなりませんでした。 しかしそれをすることは、当時の政府の枢要な地位にあった人々にはできませんでした。そのために自体はどんどん悪化し、沖縄で膨大な犠牲者を出し、東京が焦土となり、二発の原爆を投下され、それでも戦争をやめられませんでした。最後に「日ソ不可侵条約」という紙切れ一枚を根拠に、友好国だと勝手に思い込んでいたソ連が参戦して、満州国に新ニュしてきたことで、ようやく幻想が剥がれ落ちました。そこで「国体護持」という言葉が見出され、日本は本土決戦の前に、かろうじて降伏することができたのです。なぜそんなに降伏するのが怖かったのかというと、「鬼畜米英」という相手に貼ったレッテルを、自分で新んじて「降伏したら全員殺される」と思ってしまったから、と言う側面があったと思います。 そもそも、そういう「危機」を生み出すのが、この言葉の歪みです。自らの国のあり方や、国力や、軍事力について、正確な言葉を用いなくなったことで、この国は暴走し、あの愚かで無意味な戦争に突入してしまったのです。言葉が歪むことで、人々が事実から目を背け、事実でないものに対処することで、全ての行動が無駄になり、無駄どころか事態を悪化させます。そして正しい言葉を使おうとするものは「非国民」扱いされ、口を封じられ、それでも封じないと殺されました。こう言うことが続くことで、表面上の平穏が維持され、やがて暴走が始まり、最後に破綻したのです。 (略) これが「名を正す」ということの力です。孔子はそれうえ、「必ずや、名を正す」と言ったのです。名を正さないことには、何も始められないからです。 とはいえ、正しく言葉を使うことは、大変、勇気のいることです。たとえば、家庭でも、夫婦仲が悪くなっているというのに、「夫婦なんて、どこだって、こんなもんだ」ということにして、「夫婦仲が悪い」という言葉を出さないでいることにより、果てしない欺瞞と隠蔽とが生じ、困難と苦悩とが生まれます。それは夫婦のみならず、家族全員を窒息させてしまいます。 あるいは会社でも、こんなことをやっていたらいつまでも続くわけがない、とだれもが思っている事業が、いつまでも続けられるケースが多いのですどうしても、「これではだめだ」と言うことができず、無意味な労働と資源の浪費が続き、挙げ句の果てに会社が危機に落ちいぅてしまうのです。 それがどんなにつらくてひどいことであっても、事実にふさわしい言葉が用いられることにより、人間は事実に向かって対応することが可能となります。この勇気さえ持てるなら、人間は自体を乗り越えていく知恵を出すことが可能となるのです。その時、自体は好転し始めます。そればかりか、「危機」は新たなる「機会」へと変貌します。これが「名を正す」ということの意味です。(p.36)
学校という魔王の使う言葉、暴力、もしくは会社でのそれをそのまま「黙認」する、言葉にしない、無責任を取る(爆)ことで暴走が止まらない状況がある。それは「合格実績」だとか「大学」だとか「学歴」だとか「上場会社」とかいろんな言葉の物語を支えている。沈黙が、日本を支えている。 子どもが沈黙する、日本の言語環境。空気読む(言葉が育たない)文化?? 大人のやましい沈黙。子どもの計画的不登校。 言いたいことが言えない。 「発達障害」「ウィスク」「遅れ」「学校」「支援級」「通常級」「いじめ」「保護者」「先生」「不登校」「生徒」そんな言葉の一つ一つが、呪いの言葉としてしか使われていない現状がある。一体、その言葉は、何を指し示しているのか、わけがわからない。 「いじめ」についても僕はブログで書いている。 「発達障害」についても書いている。 「不登校」についても書いている。 「合格実績」についても。 だが、だがしかしだ笑 多くの記事を読んでもらっているのに、反応がないし、届かないらしい。 言葉というのは、そういうものだ。と、諦め、られないのが、僕だ笑 僕の言葉の使い方は、まだ弱いのだ。 と、反省しながらも。 言葉の重み(俳優と演出家の役割) 困っているけど声を出せないお母さんなう どうしたものかな?とおもいながら、ちょっと試してみたいことがあったりする。 (お楽しみに!) まぁなんにせよ呪詛の強さに驚く。 「自然(自由)」と言うことについても書いている。 「子育て」と言うことについても書いている。 「責任」と言う言葉についても書いている。 「大人の宿題」と言う言葉についても書いている笑 ブログのカテゴリーに「言葉の玉手箱」を作ったのも、現実を知るために言葉を改めなくては、新しい言葉を作らなくてはいけないと思ったからだ。 本来、それは詩人の役割だった。 詩人はどこに行ったのか?キャッチコピーを考えて商品を売る魔王の手先になっってしまった。 この点、安冨さんも詩人だろうと僕はおもう。 宿題をやらないだけで、非国民扱いされる、学校はまだまだ戦争状態だ。日本はまだ、いまだに、戦時を生きている。 「混み合い」理論とあそびと月月火水木金金。まだ誰かが「非国民!」と叫ぶ声がコダマする日本。 子どもも大人も月月火水木金金
魔界の言語
仮面ライダー新1号のオープニング主題歌の後には、 かめんらいだー本郷猛は改造人間である。彼を改造したショッカーは、世界制覇を企む悪の秘密結社である。仮面ライダーは人間の自由のためにショッカーと戦うのだ! という、私が子ども時代にしびれたナレーションが入っていますが、仮面ライダー・小出裕章も改造人間です。原子力村ショッカーが大学や大学院でいろいろ教え込んで、小出さんを改造したのですから。仮面ライダー・本郷猛が、精神まで改造される前に逃げ出し、ショッカーによって改造された身体を武器に戦っているのと同じように、小出さんはわずかの仲間とともに人間の自由のために原子力ムラと戦っています。小出さんもライダーも、ショッカーや原子力ムラが次々に繰り出してくる「怪人」と戦い続けていますが決して傷つかず、倒れません。 石森章太郎は、「世界がショッカーに支配されかかっており、人間の自由を守るには、一人一人が仮面ライダーとなって戦い続けるしかない!」という驚くべき真実を、当時の子どもたち(すでに私のように中年になっていますが)に伝えようとしていたのだと私は考えています。こんなことを大真面目に書くと、頭がおかしいのではないか、と思われるでしょう。それは覚悟の上です。私も、以前はこんな風には考えていませんでした。私が考えを改めたのは、東京大学に就職してからです。それも、しばらくはそんな風には考えなかったのですが、何年かの間、いろいろと奇妙で不愉快で悲しい体験を繰り返すうちに、ある時、ハタと、 「東大って、ショッカー?!」 と思った瞬間に、一挙に多くのことが理解できるようになったのです。それで考えが変わりました。それから東大で生きるのが、随分と楽になりました。それ以来、「東大=ショッカー」説をあちこちではなしていたのですが、みなさん面白がってはくれるのですが、本気にはしてくれませんでした。しかしそれでも負けずに話していたところ、今回の原発事故が起きたのです。すると、ある精神科医の友人が、 安冨さんが東大について行っていたことは、面白いなと思っていたけれど、やはりお袈裟に行っているのだと思っていたんです。でも、原発事故で東大の人がテレビにたくさん出てきて、むちゃくちゃなことを行っているのをみて、「ああ、本当だったんだ」と思いました。特に、ネットで大橋教授という人の話す様子を見て、「こんなにも純粋の悪意を持った人間が、実在するんだ」とショックを受けました。それで、やっと本当だとわかりました。 と言ってくれました。(p.88)
僕は実はこの本を今読んだばかりで、ショッカーという言葉も今、なるほどなとおもった。 その前に、ラジオ番組で、話の最後にシューベルトの「魔王」が流された時、ああ、魔王ってたくさんいるよな。魔王に囲まれて僕らは暮らしているよなとおもった。
「東大って、ショッカー?!」と思った瞬間に、一挙に多くのことが理解できるようになったのです。それで考えが変わりました。それから東大で生きるのが、随分と楽になりました。
と書いているのは、本当のことだとおもいます。「知る」ということが、「心」をつくるためには必要だからです。 「見えない」「感じない」のでは、どうして心がつくれるでしょうか。(それが多くの子どもたちの状況だとおもうと、悲しくなります) で、世の中にたくさんいるショッカー(魔王)たちの使う欺瞞の言語に「東大話法」と安冨さんは名前をつけました。 新しい言葉をつくりましたー! その言語を生み出した文化は、
徹底的に不誠実で自己中心的でありながら、 抜群のバランス感覚で人々の好印象を維持し、 高速事務処理能力で不誠実さを隠蔽する。(p.114)
こと、だそうです。 これは東大に限らない、日本のいたるところでみられる文化だと、すぐにわかりますか。 思い当たる節が、多々あるように、おもいます笑
「言葉」は「心」
東大が憎いからと言って、東大を解体しても、無駄なのです。東大を潰せば、京大か慶応か早稲田か知りませんが、どこか他の大学がその機能を担って「東大化」するばかりです。必要なことは、「東大話法」に代表されるような、日本社会に蔓延する欺瞞話法を鋭く見ぬ浮くことです。他の人が仕掛けてくる「東大話法」を感知して、騙されないことです。これは自分自身を例外にしてできるものではありません。ここの人が、自らの中の「東大話法」を見出して取り除くことに努力せねばならず、そうすることではじめて、他人の欺瞞も見抜けるようになります。自分は欺瞞話法を駆使しつつ、他人の欺瞞話法を見抜くというのは、無理な相談だからです。そうやって多くの人が「免疫」を作動させれば、東大関係者も「東大話法」などを振り回せなくなり、真摯な思考に向かって一歩踏み出すことが可能となります。「東大話法」は東大だけが作り出しているのではありません。東大話法を振り回されていると恐れ入って感心したり、納得したりする人もまた、重要な加担者です。東大という権威をもっ東大話法を話せば、多くの人が納得し、その納得がまた東大の権威をも違える、というう相互依存構造になっているのだと私はかんえてています。単に相互依存しているばかりではありません東大話法を振り回せr多人が、畏れ入ってしまうと、今度はその人に東大話法が侵入してしまいます。かくてその人が今度は、別の人に東大話法を振り回します。それは単に言葉遣いがうつるというばかりではなく、その欺瞞的精神の作動そのものの感染です。誰かが東大話法を振り回し、誰かがそれに恐れ入ると、それが東大話法の話者を生み出し、その話者がまた東大話法を振り回し、さらに東大話法の話者を生み出します。人々が麺系を作動させないでいる限り、こうやって東大話法が鼠算式に自己増殖するのです。この自己増殖を放置すれば、あっという間に、社会全体が東大話法に感染します。 ですから、私が本書の読者にお願いしたいことは、東大話法を使っている人を見たら、感心して納得するのではなく、「これは東大話法だ!」とはっきりと認識して、笑っていただきたい。ということです。人々が東大話法を聞くたびに、納得するのではなく、笑っていただければ、東大話法を維持している相互依存関係は崩壊します。(p.192)
悪口、非難の文体をもった言葉がネット上で溢れている。 「やめろ!」「不正だ!」という人たちは、例えば「東大が潰れたあとで別の東大がでてくる」ことをわかっていない。政権が変われば日本はよくなる、と考えているのだろうか。
反安倍、ではなく、反自民公明党と書いた方が、将来性があるとおもいます。いかがでしょうか?安倍さんのクローンが、首相官邸の地下室にストックされているみたいですよ((꜆꜄•௰•)꜆꜄꜆»♡
— otononeオトノネさん (@otononesan) January 4, 2020
いやもちろん、自民公明党が調子乗りすぎだから止めた方がいいのは正しいとおもうが、その先が、ない。政権を握った途端に、ナポレオン化するだろう。これは日本の言語文化の問題なのだ、精神文化、心の問題なのだと、安冨さんはいっているのだろうし、僕もそうおもう。 けど現実は、自分の問題として、誰かのせいにする人が多い。 僕自身が、大切なことをまだ自分ごととしてみれていないことがある。 大人が子ども時代にやり残した宿題を、誰かに押し付けている。 それが、「自然」な世の中で、笑おうとしている子どもたちを僕は尊敬してしまう。 『アダルト・チャイルドが自分と向き合う本』 8歳、9歳から思春期までの子どもの発達課題(=お母さんの宿題)。 教育とは何か。なぜ、日本人は握手をするようになったのか。【お子さんに宿題を「やらせる」前にお父さんお母さんがやらなきゃいけない宿題】 「時間」が課題・宿題というバケモノになったら(おとのねさんは、やれ!やれ!と言う人だった) コドモとして未成熟なオトナ 一人一人が「言葉」を正して生きていく。 東大話法が溢れた「自然」の中で、欺瞞の心に感染されないように「健康」でいることが大切なのだと。 そのために「鼻で笑いましょう」と言っている。 ということは、ほとんどの人間と、話ができずに、鼻で笑う関係になってしまうだろう。 笑い合う人が増えるというのだから、いいものかもしれない。
「欺瞞」を生み出す立場主義
安冨さんは、「職」「役」「家」そして「立場」という言葉を検討する。 「職」は大化の改新で「氏」の連合体を天皇中心で中央集権させ官僚体制をつくるための仕組みであった。 例えば焼き物を作る「職」を担っていた土師氏という「氏」という単位が、平安末期には藤原家といった「家」に移行していった。 中世末期から近世初期にかけて、戦国大名は「職」ではなく「役」の体系を作り上げた。 「役」という言葉が、つくられた。 武士には「軍役」が課された。農民には「百姓の役」が課された。 で、 「役」は「家」と並行して成立したようです。 「氏」という大きな組織が「家」という小さな組織に再編成され、それに伴って「職」という言葉は「役」という言葉に変わった。 うーんちょっと掴みかねるので引用しておきます。 とおもったけど打ち込む元気がないことに気づきました。。 「家業」をすることで「家」は「役」を果たすことになり、「家業」が崩壊すれば、「役」を担えず、「家」は「立場」を失う。 ん?家業って、役なの?
「立場主義」という文化としての学校
このように「役」という概念は、日本社会の根底を支える哲学なのです。この「役の体系」は現代社会にも大きな影響を与えています。それは「役場」「役所」「役人」「重役」「取締役」「役員」「役者」「役割」「役得」「役回り」「役立たず」といった用語を見れば明らかでしょう。ここから先は私の考えなのですが、少なくとも現代日本社会においては、「役」がその背後にある「立場」と密接に相互作用している、と思います。つまり、 役を果たせば、立場が守られる。 立場には、役が付随する。 役を果たせなければ、立場を失う。 この原理は、国家体制と無関係なところでも明確に作動していきます。 たとえば現代日本の企業がそうです。現代日本社会では、個人の自由が憲法で保証されているはずですが、 企業の中ではそんなものは、そう簡単にはつううよううしません、地涌石で就職し、自由意志で勤務しているはずなのですが、尾藤さんのいうような「企業の一員としての自覚に基づき、その責任を主体的に担おうとする」というような「誇りある」ことにはなかなかならないのです。 なんだか知らないけれど、いろいろな事情で自分にある役が回ってきて、その役を担っているという立場上、その役を果たさないと自分の立場がなくなってしまうので、その恐ろしさのあまり、身を粉にして役を果たす、という感じです。そうやって私が必死で立場を守るべく役を果たすことで、私の上司や動力も立場を守ることができて、その上司や同僚もまた必死で立場を守るべく役を果たすために頑張ることで、私の立場も守られます。 そういう立場と役との相互依存関係の巨大なネットワークが形成されていて、それが全員の必死の努力でかろうじて維持されているように見えますもしも誰かがどこかで「わがまま」を言って役を果たさないと、そこに穴が空き、そのほころびが急激に拡大して大穴となってしまい、周囲に大変な迷惑をかけるように思えるのです。しかし、そのネットワークの全体が、いったいどこに向かっているのか、自分の果たしている役が、いったいその全体とどういう関係にあるのかは、もはやサッパリわかりませんただひたすら、役を果たして立場を守っていれば、なぜか給料が振り込まれ、一定期間にわたってそれを続けていれば、どういうわけか昇進するのです。(p.221)
僕は軽く笑ってしまった。 親という立場と子どもという立場も同じじゃないかと。 多くの狂ったお母さんが、子どもをこういう関係に追いやっている。それと同じじゃないかと。 子どもは子どもという立場で、お母さんはお母さんという立場で。 お互いのメンツをかけて、依存しあっている。 立場を守るために役をつくる。役を作るために、、、いらない仕事を作る。 これは天下りの仕組みだし、立場をより強固なものにする仕組みでもある。 (本の中ではこの後に、原子力関係の「法人」がどれだけたくさんの「立場」の人間の天下り先になっているかを説明している。具体的に笑) 原発は、天下り先をつくるために、ある。 という事実をみんな知っているんだろうか。 最近の大学入試の外部なんちゃらに英検が入っているのも、文科省主催の全国学力テストも、英語の必須化、プログラミングのうんちゃらも、天下り先を増やす、立場を守るために役をたくさんつくっている、いらない仕事を作っているだけだということを、教師が知らない世の中だ。現実を知らない人間から何を教わっているのか??そうそう、先生と生徒という立場を教わる。 「立場」という戦時の文化を学ぶのが、学校だ。 と、はっきり言ってしまえそうだ。 そうすると学校の東大話法はあっさりと理解できる。 大学入試改革も、天下り先をつくるためにやった。 という事実をみんな知っているんだろうか。 僕らはただ欺瞞の言葉で語りかけられているにすぎない。 欺瞞に埋め尽くされている世の中で、頭がおかしくなるのが「自然」だろう。 もう声も届かない。 なのに。 発狂してしまったことを東大話法で隠蔽するお母さんもいる。 「この子には、自由を与えています」 虚しい。 義務教育学校の本当の意味とエリート社会と堕落と、子育ての2つの考え方。残酷な考え方。 「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)
言葉を正す
母親という立場を守るために、子どもという立場をつくりあげ子どもという役を与えて、子どもという仕事をさせるのは、もうやめませんか。 というのがオトノネの考えです。 学校という立場を守るために、生徒という立場をつくりあげ生徒という役を与えて、生徒という仕事をさせる学校から子どもを守りませんか。 というのがオトノネの考えです。 国という立場を守るために、国民という立場をつくりあげ国民という役を与えて、国民という仕事をさせる国から子どもを守りませんか。 というのがオトノネの考えです。 どうするかって? 言葉を正すことです。 お母さんは、やり残した宿題に、取り組みましょう。 一人でできますか? やる気、ありますか? 【子育てを仕事にしてしまったお母さんへ】大人が子どものときにやりのこした宿題をやって毒親卒業しませんか『「自分の働き方」に気づく心理学』加藤 諦三 子どもの魂を食らうお母さんの話と学校の課題の話。 教育とは何か。なぜ、日本人は握手をするようになったのか。【お子さんに宿題を「やらせる」前にお父さんお母さんがやらなきゃいけない宿題】 【こどもの「遊び」は魔法の授業】8歳、9歳から思春期までの子どもの発達課題(=お母さんの宿題)。 いつまでたっても、小学生。 コドモとして未成熟なオトナ 『アダルト・チャイルドが自分と向き合う本』 不健康な社会という「自然」の中で健康を保つには。「自然」でいちゃだめ?? 【子育てを仕事にしてしまったお母さんへ】大人が子どものときにやりのこした宿題をやって毒親卒業しませんか『「自分の働き方」に気づく心理学』加藤 諦三 【コフートで絶望するおとのねさん】『<自己愛>の構造』和田秀樹
鼻で笑う「強さ」を
最後に、どれだけ日本の多くの人が、「立場」に頼って生きているかがわかる話を引用します。 この話は衝撃でした。 これは家庭の中でも、会社の中でも、ママ友同士でも、どこでもありうることですね。
お子さんを守るために、福島市から関西に逃げられた方にお伺いした話では、放射能を恐れて非難するのは「非国民扱い」であり、夜逃げするようにしてスーツケース一つで、誰にも見送られずにきた、とのことでした。多くの人が山下教授の見解を信じており、それに疑いを挟む話をすることすら、憚れる状態だ、とのことです。 その方のお考えでは、福島県では、地元社会の束縛を嫌う人は、すでにほとんど出払っていて、残っている人々は、この近世以来のシステムに依拠する人々だとのことでした。そうすると、影響があるのかないのこあわからないような、しかも権力や権威が「影響はない」と言っている放射性物質を恐れて、「役」を捨てて逃げるというのは、決して許されることではない、というのです。 このような態度は、尾藤正英さんのおっしゃる「役の体系」を前提として考えれば、よく理解できます。日本の近世社会は地域集団と土地とが深く結びついており、ムラが土地を捨てて移動することは、ほぼあり得ないことでした。役の体系も、この住民と土地との結びつきを前提として形成されていました。それは、福島県だけの話ではないのです。東京でも同じことでした。ある関西在住の私の知り合いは、原発が爆発する前に、関東に嫁いでいた妹を、家族ごと非難させていました。ところがしばらくすると、原発が爆発したばかりだというのに妹が帰るというのです。驚いて理由を聞くと、 「ゴミ当番が回ってくるから」 というのでした日本の近隣社会で、ゴミ当番などの「役」を果たさないと、どれほど恐ろしい制裁を受けるかを、みにしみて感じている主婦が、このような判断をするのは、ある意味、当然なのです。放射性物質が大量に降り注いだ地域でも、「ゴミ当番」のために避難を諦めた人は、たくさんいるはずです。(p.235)
近世を生きている、もしくは戦時を生きている人たちが、富山県にも大勢いる。 それが、日本という土地に生きてきた人たちの積み上げた歴史の姿なのかとおもう。 マッカーサーが、「日本人は10歳だ」といったのも、わかる気がする。 それは悪口でもなんでもなく、西欧文化でいうところの「個」が自立できない土壌が、日本にはある、という事実を表現しているのだとおもう。 こんな現実、事実を知ると、心が揺らいでしまう。危ない危ない。心のシステムがしっかりしていなかったら、絶望してしまうだろう。 【ヒトラーに告ぐ】学び(知)の危うさ。だから、心が大事。知と心の違い。 だから、みんなショッカー(魔王)になっちゃんだけどね。 絶望して、ウルトラマンは、最近、闇落ちするらしいね。(子どもが教えてくれました) ウルトラマンもショッカーの方にいっちゃう世の中だよ。 心が大事。 さてさて、僕も、鼻で笑う練習をしようかな笑 ーーーー 追記『合理的な神秘主義』p.287に 「官僚的」と呼ばれる性質について説明で、 「生存の不安からくる確実性や厳密性への渇望といった鬼気迫るものではなく、他人からとやかく言われないため、より端的にいえば「叱られない」ためのものであって、手続き的厳密性・整合性・隠蔽性に傾斜している」。 と書いてあった。 「叱られない」ため、というところが、腑に落ちた。 === ここまで書いてきて、思うことがある。 東大話法という言語話者と、そうでない人がいるこの国で、二人はどのように生きていけるのか。 鼻で笑ったら、相手にされなかったら、東大話者はたぶん面食らってしまう。 言語環境、文化が違いすぎて、話にならない。 異なる文化の人間が混ざっている。 別にどちらかが正しい、というわけではない。 東大話者が大多数を占めており、息苦しい社会で、どちらの言語を習得させるか。どちらの文化を体得させるか。 子育てでは、その選択をまず、なによりも先にしておくといいのかもしれません。 学校では、東大話法を学びます。 地域でも、東大話法を学びます。 家庭で東大話法を使えば、その子は東大話法しか使えなくなるでしょう。
徹底的に不誠実で自己中心的でありながら、 抜群のバランス感覚で人々の好印象を維持し、 高速事務処理能力で不誠実さを隠蔽する。(p.114)
お子さんにこのような人になってほしいなら、そのように育てる、ということです。 「小さなガンジー」たちは、「僕は、私は東大話法なんて喋らないからね。東大話法に洗脳されたくないからね」と言っている子なので、お母さん自身の言語環境(心)を変えた方がいいのかもしれません。 話が通じないけど、別にどちらが悪いとかでもない。相手は「純粋の悪意を持った人間」です。 そういう異質な人が集まっているという認識が欠けている人たちが、東大話者だとしたら(自己中心的だからきっとそうだろう)、それこそ、少数派の人は大多数の東大話者の暴力から自分の身を守る心のしくみをつくったらいいのでしょう。 へらへらと、笑ってしまおう。 暴力に屈しない。 流れるようにー さらさらさらーーー
自我同一性という言葉が誤解されている件
アイデンティティーと呼ばれているこの言葉は曖昧すぎて笑える。
今日こんな文章を目にした。『こどばが誕生するとき』 p.244に書いてあった。
われわれは社会的なイメージと身体の力の結びつきを探求せねばならない。しかもこの課題は…集団同一性と自我同一性の相互補完が、より大きな共通のエネルギーを、自我の総合と社会組織の双方に提供することを意味している。
かの有名な、自我同一性という言葉を作ったエリクソンの言葉だ。
自我同一性の集団・文化的同一性にもとづく達成は、自我を強くすると同時に、かつ、社会も強くする。どういうことか。僕はこんな風に理解した。
自分であることは、自分が所属する社会組織のメンバーとしての自分をも負うことであり、自分の力は、社会組織の力にもなる。自我が強くなるとは、所属する社会への意識が強まるということだ。その手助けをするのが、オトナという存在だ。オトナは社会の体現者であり、子供が社会の意識、社会の言葉を受け取る存在だ。
人はひとりで何かを成し遂げるには、あまりにもか弱すぎる。自我なんてものは一人ではつくれない。人はそういう生き物だ。アイデンティティーが「自分探し」という言葉で表されるが、実は、「仲間探し」のことであると、エリクソンはいっている。「自分らしさ」とか、「独自性」という意味では、どうやら使われていないようだ。多くの日本人は見事に誤解しているし、保育士試験の本を開いても、自我同一性という言葉は一人歩きしている「日本の西洋化」をアピールするタテマエ言葉になっている。
どんな会社でもいい。お金さえ手に入れば。どんな学校でもいい。遊べるなら。。。
私は、自分を強める、成長させるのと同時に、今いる組織を強めようとしているんだろうか?そこに心はあるんだろうか?所属する場所を選ぶのは、どうだろう。その組織を強めて、社会的な影響力をもたせて、いいんだろうか?私の時間の大部分を費やし、活動する組織は、私が同一化する価値がある場所なんだろうか????(働くことの価値はお金だけなのだろうか?私は「お金」なのだろうか?おとのねさんが独立してみようとおもった理由もここにある)
エリクソンが「身体的なむすびつき」という言葉で表そうとしたのは何だろうか?
やがて、青年期が到来したとき、性的生産力を発揮し始めた身体と集団・社会との結びつきのなかに自我形成の一段と明確なテーマが現れる。それが「自我同一性」である。このテーマは、それまでの年齢において自我が蓄積してきたセンスをすべて対象にした自我の再構成と再強化である。ここで、身体のむすびつきにおいてテーマをあたえたのが社会と文化であったように、テーマの達成に関しても、社会と文化は一定の方法を用意している。したがって、テーマの達成にともなって、自我は「強い自我」になるが、その強さは社会ない存在または文化ない存在としてのセンスを強くすることでもある。(以下、エリクソンの言葉)「幼児期の主要な危機の一つ一つが解決されるごとに子どもが体験する社会の健全性と文化的連帯感に基づいて、同一性の感覚は徐々に充実していく。そのような同一性の感覚のみが人間生活における周期的なバランス…を約束すると、われわれは結論した。しかし、この同一性の感覚が失われ、自我の統合が絶望と嫌悪に…屈服するところでは、必ずそれに関連した一連の幼児期の恐怖が一斉に動員されがちとなる。なぜなら、文化的同一性という『世襲財産』のなかに、安全に錨を下ろした同一性のみが、運用可能な心理社会的平衡を生み出すことができるからである」
ちなみに、センスとは自我感(これが私よ!という肯定感)であり、テーマとは危機、発達のなかで直面していく課題のことである。エリクソンが提唱した8つあるテーマのうち、一番最初にあるのは「基本的信頼」である。ひとりぼっちにならないこと、社会のなかにいること、ひとと繋がっていること、である。そして、
身体的という表現は、自分が文字通り身を置いている社会、という意味で捉えたらいい。人はとにもかくにも、「そこで生活している」ことに規定される。「強くなる」ことは、共同体との繋がりをもつこと、といえるが、エリクソンの時代と、現代とでは世界は変わってきている。エリクソンのいう「強い自我」のあり方が、この時代には少し合わないような気が、(部分的に修正、追加しなくちゃいけないことがあるような気が)する。
で、本題だが。オトノネは超弱小、人が全然来ない弱小塾です。育英とか大手の塾にみんないく。所属する。それがお金になり、力になる。時代のスタンダード、競争社会(脱落社会)、親の欲望重視、日本という歴史、社会に錨を下ろしているからかもしれない。オトノネはその対岸に錨を下ろしている。オトノネ世界へ、みんなこないかなー!!!!!!!!!!と思いながら、オトノネはどんな世界なのか、きちんと人に伝えられないオトノネの曖昧さを感じる。
価値観が多様化したこの時代に、学者はなにもしてくれない。学者の代わりに、たくさんの人がSNSで情報を発信してくれている。社会が、変わったのだ。社会が変わったのだということを学んでいこう。
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